第三章 過去からの帰結

 泥のような眠りからふわ、と僅かに意識が持ち上がる。

 同時に鼻を掠めるのは、どこか埃っぽく、かび臭いにおい。

 横向きに寝ていたらしい身体を受け止めるのは、硬い板間だろうか。痺れにも似た重い痛みを肩や腰に感じ、阿久里あぐりは頬にかかる自身の髪を無意識に指で払い退けながら、軽く眉根を寄せた。

 ふわふわと揺蕩うような眠気に、いまだ完全に覚醒するための手を伸ばすことが億劫だ。

 ――が。


「ん……、んんっ」


 吸い込んだ空気のせいか、しばらくの間水分を摂っていないせいか、ひどく喉がいがらっぽい。阿久里は咳込むように喉を鳴らしながら、いまだぼんやりとする意識の中で不意に感じた違和感に、ハッと睫毛を持ち上げた。


(しばらく水分を摂っていないって……)


 いま・・は、いつ・・だ。

 瞳を開くと同時に伏せていた身体を起こすと、衣擦れの音と共にふわ、と黒方くろほうの香が周囲に溶ける。同時にズキ、とこめかみに鈍い痛みが響いた。

 視界は全てが真っ暗な闇に包まれているほどではないが、一言でいい表すならば「暗い」。


(ここ、は……)


 こめかみへと指を這わせながら、辺りへと視線を流していけば、薄墨を幾重にも重ねたような世界の中、頑丈そうな棚がいくつも並び立っている。眉根を寄せ、じっと目を凝らすと、そこには製本された冊子が重なるように収められていた。

 壁とおぼしき箇所の高い位置には小さな格子窓がはめ込まれており、そこから僅かに外の空気が入り込んでいるようだ。完全な暗闇の閉ざされた部屋でないのも、きっとそのためだろう。

 ふ、と自身の指先に当たる硬いものに気づき睫毛を向ければ、床にも冊子が積み重ねられている。どうやらここは書庫――それも、日頃より使用している書物を収めたところというよりも倉庫に近いところらしい。

 それならば、なるほどこの埃っぽさも理解できる。


(えっと……で、なんでこんな書庫にいる、のかしら……)


 確か夕刻出かけていった直鷹なおたか戻ってきて、そこで彼の兄が近くまで来ていることを告げられた。そして、自分たちの関係――同盟者であるということも、そこではっきりとバレたといっていたはずだ。


(そう、で……そのあと、突然鏑矢が鳴り響いて……)


 直鷹に周囲を探るよう命じたのちに、滞在中の預かり人である遠賀とおがの姫君・綾姫あやひめの様子を伺いに、彼女の泊まる部屋まで足を運び――。

 そして。


「攫われた、のよね……これ」


 一度はっきりとした音にして紡いでしまえば、思ったよりも喉の違和感は小さかったようで想像していたよりもいつも通りの声が出た。しかし、それとほぼ同時に、背後から自身のものではない衣擦れの音がたち、ギクリ、少女の背筋へと冷たいものが走る。


「榊の、御屋形さまに……ございますか?」


 攫われたという現状を考えれば迂闊に喋るべきではなかったと、後悔が心を染め上げるよりも先に、聞き覚えのある声が控えめにかけられた。阿久里は一瞬で沸いた恐怖にも似た感情をコク、と喉を鳴らしながら飲み込むと、腕をついてくるりとそちらへと身体ごと振り向く。

 すでに大分馴染んでいた薄暗い視界の先にいた人物は、想像通り小袖を打掛け、黒髪を背へと流す美女――綾姫だった。長持ながもち(収納木箱)の中に放り込まれた状態のまま、共にここへと転がされていたようだ。


「えぇ……どうやら攫われたようです、ね?」

「……そのようですね。榊さま、お怪我などなさっておいでではありませんか」

「え? あ……特に、私は大事ありません。って、むしろ私の下敷きになったことで、姫君の方がお怪我されている状態かと思われるのですけれど」

「え? あぁ……わたくしも、大丈夫です」


 気遣うというわけでもなく、さらりと紡がれた声から察するに、彼女がいう通り特に大きな怪我などはないらしい。あちらが望んだこととはいえ、流石に隣国の大名家の――しかも、嫁入り直前の姫君を預かった挙句消えない傷でも残しでもしたら、高梨たかなしは勿論のこととして水尾みずおも黙ってくれないだろう。

 阿久里はほっと息をつくと、再び様子を探るため睫毛の先を周囲へと巡らせていく。どうやら大きさとしては二十畳ほどか。ぐるりと壁沿いに棚が置かれており、さらに中心部にも等間隔で同じものが立ち並ぶ、ごくごくありふれた書庫だ。

 上部に開いた小窓のちょうど向かい側の奥には、引き戸とおぼしき板のようなものが見えた。恐らくあそこが出入り口なのだろうが、見張りが外にいる可能性も高い。

 下手に目覚めたことを知らせてしまうよりも、まずここがどこなのか確かめたい。


(とはいっても……あれからどれだけ時間が経ったのかしら……)


 身体の感覚からすると、節々は痛むもののさほど時間は経っていないように思える。なにより小窓から見える外の景色は、いまだ夜明けには満たない闇の世界だった。

 昨夜、綾姫の許へおとなった時刻は確か夜五つ――戌の刻(午後八時から十時の間)だったことを考えても、恐らく日が変わったくらいから、丑の刻あたりだろうか。


(あそこから月でも見えれば、時刻がわかりやすいのだけれど……。でも、まだそれほど時間は経っていなさそうだし、雪道に荷物・・を担いで逃げるということを考えても、さほど遠くまでは連れてこられてはいないと思うけれど……)


 攫われたのだと認識した際、一番厄介だと思えた事態が、港から船を出され売り飛ばされることだが、榊家の菩提寺である栄福寺えいふくじから一番近い港――花咲はなさき城下近くの田島港たじまみなとまで馬で半日がかりの距離がある。

 いまだ夜の帳が下りている時刻では、それは不可能に近く、故に最悪の事態だけは避けられたのだろう。


(……となれば、栄福寺を中心に、雪道の移動として考えたら大体二里にり(約八キロ弱)も歩けないはず……)


 ちょうどこの付近は榊家と水尾家の領土が入り混じる土地だ。

 流石に水尾の領土には立場的にも足を踏み入れたことはないが、それでも何度か直鷹と共にこの近隣には巡行に何度も訪れており、土地勘もそれなりにある――はずである。


(でも、あの近辺にこんな書庫のあるような建物、あったかしら)


 所謂城下からは離れた山間にあるここは、栄福寺以外は惣村ばかりが周囲に散らばっていたはずだ。どこかの大きな惣村の仏堂の可能性も考えられなくはないが、流石にならず者が押し入ってそこを占拠しようものならば、村の若衆が黙ってはいないだろう。


(とりあえず、ここがどこなのかをまず確認しなければならないわね)


 先ほどから視界に入ってくる大量の冊子などの書物。

 これを調べれば少しは状況もわかるだろうか。

 阿久里は肩口を流れる髪を軽く払うと、おもむろに打掛の襟へと手をかけ、袖を抜いた。衣擦れの音と共に、内側で暖められていた空気が香を纏いながらひやりとした冷気へと溶けていく。


「……っ、榊さま!?」


 しばらく眉間に皺を寄せていた他国の大名が、突然目の前で薄着になったのだからその驚きは当然だろう。語尾を持ち上げた綾姫が目を見開きながら視線を少女へと向けてきた。

 それでも声量を抑えている辺り、彼女なりにこの状況を理解しているということだろうか。


「あ、申し訳ありません。驚かせてしまいましたか?」

「あの、一体、なにを……」

「とりあえず、ここがどこかもわからないので調べようかと思いまして」

「いえ、あの! そうではなく! そうではなく……何故、打掛をお脱ぎに……」

「あぁ」


 阿久里は脱いだ打掛の身頃を剥ぐと、袖を裏返しにひっくり返した。ゴツ、という鈍い音が床に軽く響き、冷たく硬いものが指先に触れる。


「火を、起こそうかと思いまして」

「は、あ……え? 火、でございますか……?」

「えぇ。夜目にも慣れてきた頃合いなんですけれど、流石にこう暗くては部屋の様子はわかっても書物に書かれた文字は読めないかと思いまして」


 打掛の袖口に縫い付けていた火打ち金と石を仕付け糸に指をかけ力任せに引っ張ると、ぷちぷちという感触のあと手の中へとそれらが転がり込んでくる。阿久里は手のひらにそれらを乗せると、綾姫の睫毛の先へと差し出した。


  ――だっていつ何時必要になるかなんてわからないし、用意しとくでしょ。普通。

  ――普通、祝い事の席ではそんなもの必要にならないかと思いますけれど……。

  ――そう仰る姫さまの打掛にも、同じようなものが縫い付けられていることをみわは知っているんですけどね。

  ――………………なにかあったときのために、よ。


 ほんの数刻前に、自身の側近である御伽衆おとぎしゅう乳母子めのとごと交わした会話を、不意に思い出す。


(ほら、なにかあったじゃない)


 呆れたように半眼を向けてきた少女へと言い訳を返したあの言葉が、真実正しいのだと証明されたわけだが、出来ることならなにもないままでいてほしかったと阿久里は胸中で軽くため息を吐く。


「こ、れは……。火、打ち……金、でございますか?」

「はい。それと、蝋もこっちに……」


 小袖の襟から取り出したのは、陶器製の小物入れ。一見、薫物たきもの煉香ねりこうでも収めてありそうな代物だが、中に入っているものは小さな蝋と懐紙を紙縒りにしたものである。

 女の身でも持ち歩きやすい大きさであり、さらに陶器の入れ物ということで、このまま蝋に火を灯せば携帯用の燭台として機能する優れものだ。


「……何故、一国一城の主……しかも、姫君としてお育ちになられた方が、あの……、このようなものをお持ちなのですか……」

「近習に、こういったものを持ち歩くことが大好きなばさら者がおりまして」

「それにしても……、些か、不必要とも思えるほどに、不測の事態へのご準備が過ぎる気が致しますが……」

「そう、でしょうか。他国の殿方はどうかわかりませんが……、なんと申しますか、私は不測の事態が起こる星の下に生まれたようでして」


 家督を継ぐこととなった半年前の騒動にしても、此度の誘拐にしてもそうだが、自分は普通の大名家に生まれた者ならばそうそう経験することのない事件によく巻き込まれている。これはもうそういう運命なのだといわざるを得ないだろう。


「まぁ……実際必要になったのですし、良いではありませんか」


 阿久里は辺りに散らばった冊子を軽く退けると、蝋の入った小物入れを床へと置いた。そして手に持った火打ち金で石を擦るように滑らせる。

 ――が。


「え、あ、あら……??」


 石を叩くための金は、なんの抵抗も生むことなく宙を切った。

 直鷹がやって見せたときには、カッという音と共にいとも簡単に石の火口ほぐちに種火が灯った気がしたが、自身の手の中では火花どころかそんな音さえも生まれなかった。試しにもう一度、同じ動作をしてみたもののやはり金と石が重なり合わない。


(あ、あら? こう……カッ、っと。カッ、と、なるはずでは……)


 何度も何度も繰り返し火打ち金を振るう腕が、少女の黒方の香ばかりを辺りへと運んでいた。


「え……、もしかして、これってそんな難しいことなのですか?」

「え……っ?」


 阿久里が助けを求めるように、目の前で見守っていたらしい綾姫へと視線を向けると、僅かに身体を後方へと引いた彼女が困惑を隠そうともせずに言葉を詰まらせる。

 

「……恐らく、さほど……難しくは、ない……かと」

「ですよね?? 前、人がやって見せたときには、こう、カッ、とすぐに出来たのです」

「……お、恐れながら、その、カッ、というのは、火打ち金と石がぶつかった際の音かと存じますが……あ、あの……御屋形さまのお手の中の石には、金が当たっておられないから……かと」


 その声に、もう何度目になるかわからない阿久里の火を起こすための動作がピタリ、止まる。わかっている。自分の手に、何の衝撃も伝わってこないのだから、ぶつかり合っていないことくらいは、誰よりも自分が一番よくわかっている。


(……こんなところでも、身のこなしの悪さが祟るなんて思ってもいなかったわ……)


 幸いにも神経が図太いせいか、病とは無縁の人生を送ってきたが、長年の軟禁生活のせいか体力は最弱。ここ半年ほど、直鷹と共に国の巡行をしそれなりに体力がついたような気はしていたが、それでも身体能力というものはやはり生まれ持ったものが左右するのだろうか。


(こんなこと、直鷹にバレたらしばらくはこれをネタに揶揄われるのは間違いないわね)


 報告しなければならないことでもないし、これは黙っていようと決意する。


「あの、よろしければ……わたくしが、致しますが」

「あ、お願いします……」


 膝を滑らせるようににじり寄ってきた彼女へと、阿久里は火起こしのための道具を手渡した。冷えた空気がふわり、と舞い、小袖ごしに冷気が肌にまとわりつく。

 阿久里が床に置いたままにしておいた打掛へと再び袖を通そうと手を伸ばすと、さらり、少女の背で髪が揺れ、黒方のにおいばかりが、深く舞う。


(……って――、あら……)


 黒方だけ?

 ふ、と感じた違和感に、阿久里が睫毛を持ち上げるとそこには、美貌の姫君のおもてがあった。どうやら彼女のいう通り、さほど難しくなかったらしいその作業は、あっという間に種火を灯すことに成功したらしく、石の先端が橙色に光っている。


「御屋形さま、こちらの蝋に種火をつければよろしいでしょうか」


 彼女が示すのは、先ほど阿久里が懐より取り出した陶器の小物入れ。

 綾姫に贈ったものとは違い、螺鈿細工などが施されていない、ただの小さな焼き物だ。けれど、その大きさはちょうど煉香を収めるのに適したほどで――。


(煉、香……)


 思い出すのは、あの時彼女と対面した際に鼻腔を擽った、落葉らくようのそれ。

 婚儀を控えた若く美しい姫君が纏うには、些か華やかさに欠けた落ち着いたにおい。


(そういえば、先ほどからずっとこの方は――)


「御屋形さま?」


 急に押し黙った阿久里を不審に思ったのか、眼前の姫君の柳眉がやや顰められ、阿久里を呼ぶ語尾が持ち上がる。


(そうよ)


 あのとき、阿久里を「御屋形さま」と呼称したのは――。

 阿久里は打掛を持つ指を、ぎゅ、っと握りしめると、真っすぐに黒髪の姫君へと睫毛の先を向ける。

 そして、その美しいおもてを真っすぐに見遣って三日月の唇で返事を紡いだ。


「えぇ、お願いします。――いと、どの」

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