第五章 風立ちぬ 九
「間違えてたら、すまない。もしや兄の名は武尊か?」
磯部の動きがはたと止まった。
「そうたい……兄の名は武尊、父方の姓を名乗って利根武尊たい! 兄ば知っとーんやか‼︎」
興奮した磯部は身を乗り出し、切れ長の細い目を目一杯見開いた。
「俺と武尊はリトル時代から高校最後の夏まで、ずっとバッテリーを組んでいた。ちょっとはにかんで笑う顔なんか、大和にそっくりだったぞ。あいつにはどれだけ助けて貰ったことか。マウンドでも、プライベートでもな」
入社式の騒めく会場。初対面にも関わらず、満面の笑みで話しかけてきた磯部に、武尊の面影を重ねていた。
他人の空似と一笑に付したあとの、どことなく侘しい気持ちが蘇る。こんなドラマチックな展開になろうとは。
良く出来た映画のワンシーンを見ているみたいで何とも覚束ない。
「武尊兄ちゃんな、よかキャッチャーやったろう?」
磯部は早口の博多弁で誇らしげに訊ねる。
「もちろんだ。武尊は辛い境遇で育ったにもかかわらず、そんな暗い影を感じさせない明るさがあった。『しょせん、全ては小っちぇえこと。小っちぇえ、小っちぇえ』それが口癖でさ。立ちはだかるもの全てを笑い飛ばすくらいの逞しさがあった」
太陽のように明るくて、陽気で。ときには強く照りつける夏の日差しとなり、また或るときは、暖かく優しい春の木漏れ日のように光を降り注いでくれた武尊。
「武尊と俺は、太陽と月のようだった」
満月のように丸くなったかと思うと、三日月のように尖ってみたり。我儘で気紛れな蒼白い月は、太陽の光がなければ輝きを放てなかった。
武尊を思い出すとき、どうしてこうも寂寞の想いが込み上げてくるのだろうか。
「キャッチボールば、したんばい。いきなりご対面で、お互いなんば話したらよかか、分からなくて。そしたら、武尊兄ちゃんがグローブば持ってきてくれて」
武尊がどんなキャッチボールをしてくれたのか、孝一には分かっていた。
にっこりと微笑みながら、汚れたボールをズボンの裾で丁寧に拭き、そのあとミットを二、三度ぽんぽんと軽く叩いてから投げて返す。知らず知らずのうちに、ボールに込めていた心の澱を綺麗に削ぎ落とし、真っさらにして返してくれた。
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