第四章 風神 六
橋の欄干から渡良世川を見下ろせば、改めて川面からの高さに驚いた。
僅か十一歳になったばかりの少年は、勇気を奮い立たせ、恐ろしい伝説の川に飛び込んでいった。何も身に纏わず、何も顧みず。
あれから十八年の歳月が流れ、かつての少年は大人になった。
あらゆる経験は知恵となり、少しは賢くもなった。だが、ズルさも覚えた。それから、下手なウソも。
心のひきだしにそっと仕舞い込んだ宿題は、まだ白紙のままだった。
答えはわかっていた。ただ、提出を先延ばしにしていただけだ。
「私がマウンドを降りた理由を、お話ししましょう」
自分の弱さを他人にさらけ出すのは、なんと勇気が要るのだろう。しかし、もう後戻りはできなかった。
このまま、あらがうことなく彼方へと向かうのか。それとも、もう一度生まれ変わってリベンジするのか。
二つに一つ。どちらを選んだとしてもリスクは大きい。
人生の岐路に立たされて、やり残した宿題の答えを出すべき時がきた。
「それまで大した怪我もせず投げ抜いてきたのですが。大学三年生のときです。左肘に異常を感じて診察を受けたら野球肘だと。治療すればすぐに復帰できると甘くみていました」
忘れもしない。梅雨の晴れ間、容赦なく照りつける太陽の熱波は、みるみるグラウンドから水分を奪った。
焼けつく地面から立ち昇る陽炎が、辺りの景色をユラユラと揺らした。
「状態はさほど悪くなく、一ヶ月を経過した頃からリハビリを兼ねて、軽く投げ込みを始めました。ところが、左肩から肘にかけての妙な違和感に気づき、愕然としました。まるで他人の腕を取って付けたような感覚でした」
額を流れ落ちる汗は、暑さのせいだけではなかった。マウンドに立ち尽くす俺を、強烈な熱波がドロドロに溶かしていく。
「秋季リーグまでに間に合わせたい焦りと、このまま投げられなくなるのでは、という不安を拭い去ろうと、コーチが制止するのも聞かず、狂ったように投げ続けました」
何度となく投げても結果は同じ。じっとりと冷たい汗が、背中を伝っては流れ落ちる。
「しかし、以前の感覚は戻らなかった。という訳だ」
見透かしたような口ぶりで碓氷が割って入った。
「初めて味わう挫折感に、私の精神はズタズタになりました。ショックで……」
胸の奥で疼く古傷に、薄っすらと血が滲む。駄目だ、やっばり言えない。
「君の感じている辛さは、過去をきちんと清算していない証拠だ」
相変わらず、痛いところを突いてくる。反論の余地はなかった。
「おっしゃる通りです。私はマウンドに立つと、左手が震え出すようになりました。怖かった。自分の意思に関係なく震えてしまうんです。とても投げられる状態ではありませんでした」
過ぎ去りし日の悪夢が、再びリアルに蘇ってくる。もう一度マウンドに立つなど、しょせん絵空事にしか思えなかった。
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