3-1 大学生の冬休み事情

 俺の大学生活には、とにかく時間がある。

 中高生の時は部活や受験勉強に時間を費やし、自由な時間などほとんど無かった俺にとって、大学生活は驚くほど心地いいものだった。

 大学一年生は、今振り返れば人生で一番充実していた時期だったと思う。

 初めてのサークル、初めての一人暮らし、可愛かわいい彼女。

 学業もそこそこの成績を維持し、まさに順風満帆だった。

 だが慣れというものは怖い。

 次第に幸福感は薄れ、その生活が当たり前となった。

 サークルへ行く頻度は低くなり、彼女にも浮気された。

 月並みだが、失った後に初めて気付くのだ。

 自分の心を埋めていたピースが、如何いかに大きな部分を占めていたかということを。

 俺に残っていたのは一人暮らしという悠々自適な生活のみだったが、それも最近はそこまで充実しているとはいえない。

「ミスった……」

 キッチンのシンクを触って、思わずそんな声を漏らす。

 面倒くさがって掃除をサボっていたツケがきた。

 ゴム手袋に付着した、どろりとした粘液をキッチンペーパーで拭き取る。

 一人暮らしのメリットは人それぞれだ。

 親の監視がない、悠々自適な生活。友達や、彼女を気軽に家に招くことができる。

 だがそんな一人暮らしも、今の俺にとってはデメリットの方が大きい。

 俺はゴム手袋をゴミ箱に放り込み、シンクの掃除を一旦中断した。

 今日は大学に行き、ゼミのレポートを教授に提出しなければならない。

 既に提出期限から三日過ぎているが、日頃から関係を積み重ねているお陰で大目に見てくれている。

 その分レポートのクオリティはいつもより高いと自負しているので、教授も満足してくれるだろう。

 玄関のドアを数センチ開けると、隙間から冷気が押し寄せてくる。

「さみぃ」

 つぶやいて、外へ踏み出した。

 冬至を過ぎたばかりとは思えない、柔らかな日差しが俺を迎えてくれた。


    ◇◆


 俺の通う大学は、丁度良い規模感だ。

 様々なスポットがあり人が上手うまく分散している為、昼休み以外は人がごった返すことも少ない。

 敷地が広すぎる大学では友達を発見することすら困難らしいので、俺の大学は比較的コミュニケーションを取りやすい環境だと言えるだろう。

 そんな環境を提供してくれる大学も、今は冬休み。

 レポートを出し終わってしばらく敷地内を散歩してみるも、友達どころか同じ学生すらあまり見掛けない。

 家に帰れば中断した掃除を再開しなければならないので、今日ばかりは帰路につくことがおつくうだった。

 自動販売機を見つけると、ノロノロと財布を取り出す。

 せめてカフェオレと共にゆっくり休んで、現実逃避がしたい。

 そう思って小銭を投入口へ入れた途端、コーヒー缶が音を立てて落ちてきた。

「……なぜだ」

 俺は落ちてきたコーヒー缶をいぶかしみながら取り出す。

 すると後ろから、聞き覚えのある声がした。

「ふふふ。お買い上げありがとうございます、先輩」

 振り返ると、元サンタことはらがそこにいた。

 初めて会った時と変わらず、その可愛さには目を見張るものがある。そもそもサンタのコスプレがあんなに様になる女性はめつにいないだろう。

 志乃原は俺からコーヒー缶を受け取ると、嬉しそうに缶を開けようとする。

 人の金で買ったものを、よく嬉しそうに飲もうとできるものだ。人の金で買ったからこそかもしれないが。

「なんでいるんだよ、今日冬休みだぞ」

 そんな俺の反応が気に入らなかったらしく、志乃原は喉を鳴らした後にほおを膨らませた。

「先輩、普通なら私と冬休みにまで会えるのって結構嬉しいと思うんですけど」

「分かったから、ほら」

 としもなく、自販機の小銭入れを指差す。

 志乃原は俺の意図を察したようで、かばんから財布を取り出した。女子大生ようたしのブランド物が、志乃原が手に持つ事で一層映えて見える。

「カリカリしないでくださいよ、最初からそのつもりでしたから。何買おうとしてたんですか?」

「カフェオレ」

「はーい」

 志乃原は素直に自販機のボタンを押し、カフェオレを取り出した。

「冷たいですけど、これでよかったんですか?」

「いいんだ、冷たいカフェオレが好きなんだ」

身体からだ冷えちゃいますよ」

 志乃原は少し心配するように言ったが、それも承知の上。

 たとえ冬でも、俺が買う飲み物はいつも冷えているものだ。

 缶を開けてカフェオレを飲んでいくと、口に程よい甘みが広がっていくのを感じる。俺にとって、煙草たばこを吸うことよりも心が安らぐ瞬間だった。

「先輩、先日はありがとうございました」

「ん?」

「ん、じゃないですよ。ゆうどう先輩の件です」

「なんだ、それか。もうお礼言われたぞ」

「分かってますよ、改めて言ったんです」

 志乃原は時間をかけて缶を開けると、一気にコーヒーを飲み干した。

「うげっ苦い」

「なんで飲んだんだよ……」

 ラベルには微糖と表記されているが、志乃原の舌にはまだ合わなかったらしい。

 志乃原は「適当にボタン押さなきゃよかったです」と言って、中身の無くなった缶をゴミ箱に捨てる。

 冬休みのゴミ箱は空に近く、缶は音を立てずに吸い込まれていった。

「それで、先輩。こうして運良く出会えたからには、早速この間の埋め合わせをしたいのですが」

「は?」

 俺はカフェオレをあおろうとした手を止め、眉をひそめた。

「いらねえってそんなの。俺個人に埋め合わせってのも変な話だろ」

 合コンを企画していたのはあやのはずだし、埋め合わせというなら彩華にするのが筋だろう。

 もっとも彩華が、くだんに関しての埋め合わせを求めることなど無いと思うが。

 だが志乃原は首を横に振った。

「埋め合わせっていうか。恩返しです。ちょっとあの日は先輩に救われちゃったので」

「俺にか? 俺は何もしてないぞ」

「私が勝手に恩を感じてるんですから、先輩は黙っててください」

「めちゃくちゃだなお前……」

 あの日俺がしたことといえば、電話で自分の意見を伝えたくらいだ。

 そんなことで逐一恩返しをされていては困ってしまう。

「普通なら私が一緒にいるだけで借りをチャラにしてほしいところなんですが、先輩ってあんまりそういうキャラじゃないですし……そうですね」

 一人で話を進める志乃原に、待ったをかけようとした。

「サンタさんである私が、先輩のお願いごとを何でも一つかなえてあげます。何でもいいですよ」

「そんなの、何にも──」

 言いかけた時、脳裏に汚れたシンクが浮かぶ。

 最近特に面倒だと思っていたこと。

「──家事」

 言うと、志乃原はキョトンとした。

 彼女が吹き出すまで、時間はかからなかった。

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