11 「神サマ=思い出」説
午前中の安静時間。みんな本を読んだり、静かに横になっている。回診があったり、検査があったりするから、動ける人でも動きまわるわけにいかない。ベッドをおりて机に向かっているのはぼくと中学生ぐらいのものだ。イーノは午前中は元気のないことが多く、たまに机に向かって教科書を広げてもすぐに疲れてしまい、ベッドの上でごろごろしている。
中学生は英語の勉強をしていることが多い。ぶつぶつ言いながら休みなくエンピツを動かしている。それも両手同時に、あるいは右と左を交互に。はじめてそれに気づいたとき、ぼくは好奇心をおさえきれずに彼の横からのぞきこみ、「すごい。両手が使えるの」と感心した。中学生はじゃまだなという顔をしながらも、得意げに話してくれた。
「使えるんじゃなくて、使えるようにしているの。入院してから左手の訓練を始めたんだ。オレ、足を折ったけど、もしかしたらいつか右手をダメにするかもしれないだろ。そのとき左手が自由に使えれば便利じゃないか」
もっともだ。なんだかよくわからないが、やっぱり中学生になると考えることが違う。
「普段でもすごく役にたちそう。両手で同時に書けちゃうんだも、書き取りの練習だって倍のスピードでできちゃうね」
ぼくはほとんど尊敬のこもったまなざしで、中学生から練習の仕方を教わった。
「すぐに字を書こうとしても無理だから、ご飯を食べるときも左でハシを使うとか、まずなんでも左手でやってみる練習をすることだ。あとは少しづつ根気よく続けるしかない」
もしぼくが有名マンガ家になったとき、両手で字が書ければそれだけたくさんのファンにサインをしてあげられる。などと想像してニヤニヤしながら練習したが、思うように動かない左手にイライラするだけだった。ハシを持った左の指先に神経を集中していると、それでなくても味けないご飯がいっそう味けなくなってしまう。必要になったら、その時また練習すればいいや。努力すればいつでも左手が使えるようになるのだから。
ともかく、努力すれば不自由が克服できるという事実を知っただけで、ぼくはもうこの世界の魔法のじゅもんを一つ手に入れたようなものだった。努力すればなんだってできるのだ。ぼくだってマンガ家になれる。そうだよな、イーノ。ぼくはこの発見を、まるで秘密の暗号を告げるように、イーノにこっそり教えた。
「うん、絶対なれるよ。青山くん、努力している?」
「してる、してる」
しかし、マンガのストーリーはいきづまったままだった。「神サマ、出テオイデ」と呼びかけているのに、神サマについてぼくはなにも知らないのだ。いったい、神サマってなんなんだ。あれこれ考え、思いついたことをイーノに話した。
―― 昔の人は言葉の中に神サマがいると思っていたらしいよ。「ことだま」っていうんだ。たとえばお化けの話をしていると、そこにお化けがいなくても、本当にこわくなってくるだろ。言葉にはなにかを生みだす力がある。神サマが「光あれ」と言うと光があらわれ、「水よ、ひけ」と言うと水がひいて陸地ができたんだって。つまり、神サマは言葉でこの世界を作り、ぼくたち人間に言葉を与えてくれた。だからぼくたちは、言葉をとおして神サマとつながっているんだよ
―― じゃあ、神サマを呼ぶじゅもんがあるんだ。それをさがせばいいんだよ。でも、そのじゅもんって、英語だったら困るね。まだ習ってないも。神サマは何語を話すのかな。
―― バカだなあ、神サマ語に決まっているじゃん。神サマ語がわかんなくても、神サマのほうは人間の言葉を全部わかるから心配ない。だって、日本語も英語も神サマの作った言葉なんだから。
―― ふうん。じゃあ、さあ、神サマについて書いた本や絵はいっぱいあるのに、神サマが描いた絵や言葉はどうして一つもないの?
それがぼくもふしぎだった。でも、もし神サマがこの世界を作ったのだとしたら、海や山や人間や花たちや、この世界にあるもの全部が神サマの残した絵であり言葉なのではないだろうか。
本橋さんも大学でそのようなことを教わったような気がすると話してくれた。神サマが自然を作ったのだから、自然を研究すれば神サマのことがわかるかもしれない、というふうにして科学が発達した。ところが神サマのことより自然を利用する技術ばかりが進んで、ついに人間を地球の外に連れだすまでになった、と本橋さんは言った。
「神サマの研究はどうなっちゃたの。人間が科学を自分のためだけに使ったら、神サマだっておこるかもしれないよ」
とイーノが聞いた。
「そうだね。でも神サマだって、自分の作った地球という美しい作品を人間にも見てもらいたいと思うんじゃないかな」
そして本橋さんはこう続けた。「すべては神サマのおぼしめし。この宇宙の全部が神サマによって動かされているんだから」
イーノは、大きくなったら科学者になって宇宙のことを調べる、とぼくに約束した。
あるとき、イーノはぼくにこんなことを言った。
「きっと神サマのことなんてだれも本気にしないよ。いるかいないかわからない人のことよりも、みんな自分のことで精一杯だから」
「でも本当に困ったときは、やっぱり神サマに頼るんじゃないかな」
「そういうのって、自分勝手だってママが言ってた。ふだんから努力していることしか実現しないんだよ」
「そうかもしれない。もし神サマがいるのなら、人間の都合に関係なく、いつでもどこにでもいるはずだよね。ただ、それに気がつく人と気がつかない人がいるだけなんだ」
「わたし、前に花や虫とお話をしたって言ったでしょ。いま思ったんだけど、もしかしたら本当は神サマとお話していたのかもしれないね」
「ぼくもそんな気がしてきた。ちっちゃいころはだれでも神サマと友達だった。だけど大きくなって、そのことを忘れちゃったんだ」
ぼくはノートに次のようなことを書いた。
神サマが忘れられてしまった理由について――。
〈むかし、人びとが自然の中でもっと単純に生きていたころ、人間と神サマはけっこううまくやっていたようだ。「おはよう」から「おやすみ」まで、ことあるごとに、ことがあってもなくても、人びとは神サマを呼びだしては語りかけていた。ところがいつのまにか、それをやめてしまった。
たぶん社会が複雑になって、忙しくなったのだろう。人間か神サマか、あるいは両方かもしれないが、忙しくてつい相手のことを忘れてしまい、気がついたときにはもう思いだそうにもどうしても思いだせない、というようなことだったのではないだろうか。
愛され大切にされていた人形も、いつか忘れられ、捨てられてしまうように〉
〈神サマは思い出に似ている。思い出は思いだされたときにだけあらわれる。そして、忘れられた思い出はもうけっして思いだすことができない〉
イーノはこの∧神サマ=思い出∨説を気に入ったようだった。
思い出の品には思い出がこもっている、とイーノは海で拾った石の話をした。その石は家の勉強机の上に置いてあって、それを見るたびに海の思い出を思いだすという。あるときその石は母親に捨てられそうになった。つまり母親にはただの石にしか見えなかったのだ。もしイーノがその思い出を忘れたら、思い出の石もただの石になってしまうだろう。たぶん神サマもそうなんだ。本当はいろんな物の中に神サマがいたんだ、花や虫のなかにも神サマがいたんだ。それを人間が忘れちゃった。かわいそうな神サマ、とイーノは言った。
そして、忘れられてしまった思い出はどこに行くんだろう、となんどもつぶやき、腕組みをしたりため息をついたりしてから、「そうだ」とぼくに言った。
―― そうよ。忘れられた思い出の国っていうのがあるのよ。きっと神サマはそこにいる。
―― うん。宇宙のどこかにそういう星があるっていう設定でいこう。神サマは宇宙人の一種なんだけど、ぼくらとは次元が違うんだ。形ある物質でなくて、考えたり思ったりする思念そのもの。だから見たり触ったりできないけど、こころに直接話しかけてくる。
―― でも、神サマの姿を描いた絵がいっぱいあるよ。
―― だから、それは眼で見ているんじゃなくてこころで見ているんだよ。自分のこころに生れたイメージを見ているんだ。やさしいと思ったらやさしい顔に、こわいと思ったらこわい顔に。いろんな顔の神サマが描かれているのはそのためだ。つまり目の前にではなく、ぼくたちの思いの中に直接神サマがあらわれるんだ。
―― 神サマの住む星って、どこにあるの?
―― もっとも遠いところ。
―― もっとも遠いところって?
―― ここ!
ぼくは少し得意になってイーノに説明した。まず地球の丸い話だ。この地面をどんどん遠くへ進んでいくと、結局ぐるりと地球を一周して自分に戻ってしまう。それと同じで、宇宙も丸いらしいから、どんどん遠くへ行くとやはり自分に戻ってしまうのではないだろうか。つまり、自分にとってもっとも遠いところは自分自身なのだ。たぶん、こころと呼ばれるところがそうではないだろうか。
ぼくたちはこころの中に世界を見、宇宙を見たりする。ということは、こころは、この世界も、宇宙ものみこむほど大きなものなのだ。
そして、人は死んでもこころは残る。こころは人々の思い出の中に生き続ける。そこに神サマが住んでいるのだ。
イーノは、「よくわからないけど、それって、マンガのオチに使えそう」と言ってくれた。力がわいてきた。もしかしたらすごい作品になるかもしれない。ぼくは意気込んでペンをにぎった。そこでハタと止まってしまった。形のないものをどうやって絵にすればいいのだ。
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