一人目 一昨年十月
プリクラを初めて使った時のことを思い出す。
あれは相手とのコミュニケーションだった。
どこに立つのか、どんなポーズを取るのか。
カメラが瞬くまでの永遠にも思われる数秒の内に、私たちは互いの意図を探り合い、正しい答えを導き出さなくちゃいけない。
それは時として、授業で習う難解な数式よりも難しく、そして数学よりも私たちの世界では生死を分ける一つのパロメーターなのだ。
セックスも、プリクラと同じだと思う。
十七歳の誕生日、私は男の人と寝ていた。
何も身に着けず、生まれたままの姿で。
王子様などこの世界にいない、そう思った日だった。
経験上、少しばかり小難しいことを考えている方がセックスはうまくいく。
私の身体の上を這う相手の厭らしい視線も、嫌悪感しか抱かない本能に塗れたこの行為も、この世界の汚い部分全てを忘れてしまえるから。
大抵私が考えているのは、気まぐれな空のことだったり、昨日見たNHKのドキュメンタリー番組のことだったりする。
確か、昨日流れていた番組の内容は、白熊の親子の物語だったはずだ。
ちゃんと見ていたわけではないけれど、彼らの白い体毛がやたらと私の瞳に焼き付いて離れなかった。
あの嫌味なくらいに白い毛並みを彼らは持つことが許されている。
それだけで、私は彼らが羨ましかった。
彼らの方が弱肉強食の世界に生き、毎日を闘いながら過ごしているというのに、私は彼らを羨ましいと思った。純粋だと思った。
だから、憎いくらいに、その毛色が脳裏から消えてくれない。
……健二。
私は心の中だけで呼びかける。
白熊のように純粋な白さを持つ彼。
あぁ、でも、と思う。
白熊はやっぱり野生だから、生きることに貪欲で、精一杯で。
だから、獰猛でもあるのだろう。
健二もきっと、私の知らないところで獰猛になっているのかもしれない。
生きるために。
生き残るために。
それなのに、彼は私の前で優しい振りをする。
私の前でだけは、まだ純粋なままでいてくれる。
それが私のただ一つの生きる意味であると知っているから。
その夜も、私は自分の骨が軋む音を聞きながら眠りに着いた。
仄暗い海の底で、私の目の前にいる彼さえも、もはや誰なのか分からなくて。
いや、分からない振りをして、私は瞼を降ろす。
あぁ、目が覚めたら健二がそこにいて、私に笑いかけてくれていればいいのに。
叶いもしない夢を見て、私は今夜も自分を蔑む。
骨たちが私を責める音がする。
きしきし。きしきし。
朝の清々しい風が秋を運んでくる。
私は、次第に綺麗に晴れ渡っていくであろう夜明けの空を仰ぎながら、帰路に着く。
今の自分には酷く似つかわしくない空模様。
気持ち良くて、私は今の自分を思わず忘れてしまいそうになる。
そんなこと、決して許されはしないのに。
遠くに私の家が見えた。
穏やかで、温かくて、それ故にどこか薄ら寒い自分の家が。
そんな有り触れた我が家の前に、一つの人影が佇んでいた。
誰だろうか。そう自問しながらも、私は彼が誰なのか知っていた。
こんな明朝に私の帰りを外で待っている人なんてこの世に一人しかいない。
私は嬉しさと恥ずかしさの混じった気持ちを抱く。
あぁ、今の私なんて見て欲しくない。
そう思うと同時に、どうしようもなく彼に会いたいと急かす私がいる。
はやる気持ちと今にも駆け出しそうになっている自分の足をようやくの思いで押さえて、私は彼にゆっくりと近付いていく。
彼が私の足音に気付いて顔をこちらに向けたところで、私は彼の名を呼んだ。
「……健二」
彼はいつものように困った顔をして笑うと、私の方に駆け寄る。
一体、いつから待っていたのだろう。
私を抱きしめた彼の身体は驚く程に冷え切っていて、私は思わずその肩に頭を押し付けた。
優しくて甘い、彼の匂いがした。
「……昨日、どこに行っていたの。心配したんだよ」
今にも泣きそうな声を出す彼に、私の胸は打ち震えた。
それでも、私は悲しい程に不誠実だから、軋む骨の音なんて聞こえない振りをして、
「……ちょっとね」
笑って誤魔化した。いつもの常套句だ。
そんな私の様子に彼は多分気が付いていて、私が昨夜何をしていたのかも見透かしていて、それなのに決して私を責めることだけはしないから、私はそれがただただ苦しい。
「そっか」
そうやってどことなく寂しそうに笑った彼を困らせてみたかったのかもしれない。
私は彼の首に腕を回すと、少しだけ背伸びして、口づけを交わした。
苦みと甘みが混ざったような不思議な感じがして、私の鼻はただ彼のシャンプーの香りを嗅ぐばかり。
暫くして、私は唇を離した。
何の反応も示さない彼に不安とも憤りとも区別のつかない苛立ちを感じた。
私は彼の顔を見上げる。
一体、どんな顔をしているのかしら。
私と彼の視線が絡まり合った。
その瞬間、朝の静けさの中に私はビッグバンを見た。
そう、多分、何かが始まった。
いや、何かを始めてしまった。
それはつまり、何かを終わらせてしまったということなのだ。そんな気がした。
今まで運よくバランスを保っていたものが崩れてしまった。
それとも、私はそれを崩したかったのだろうか。
健二は私の目をしかと見つめて、口を開いた。
彼のその真剣な眼差しに、私は今にも溶けてしまいそうだった。
「どうして、こんなことを……?」
彼の言いたいことは痛い程に分かっていたから、私はやっぱり不誠実な振りをしたまま、
「どうしてって……。幼馴染でも、男と女なんだよ」
語尾をあげて如何にも挑発しているような私の返答にも、彼は決して怒ることなく、ただ悲しそうな辛そうな表情をするばかり。
「そうだね、確かに君と健二は幼馴染でもあるし、男と女なのかもしれない。……でも僕は……」
彼がそう言いかけた瞬間、突如として私は彼が見えなくなった。
私は彼の言わんとしていることが分からなくなったのだ。
いきなり、暗闇の中に置き去りにされたみたいだ。
だけど、私のキス一つが私と健二の世界を壊してしまったことだけははっきりと理解した。
だって、こんなにも違う。
彼の態度も、仕草も、声のトーンでさえ。
……はっきりと私を拒絶している。
「何よ。はっきり言えばいいじゃない。……とっくに気が付いているんでしょう?私が昨日していたことなんて」
私の瞳は恐怖で彼の顔を捉えることができなかった。
その代わり、私の口はまるで怖いもの知らずのようにどんどんと酷い言葉ばかりを吐き出している。
「早く言いなさいよ。気持ち悪いんでしょう? こんな売女みたいな私にキスされて。……私は酷く汚れているものね。どうせ、心配していたのだって、みすぼらしい私への同情でしょうよ。憐れみでしょうよ。……こんな私を笑っていたのでしょう?」
荒くなる呼吸と霞む視界。
あぁ、私は今、凄く惨めなのだ。
そう気が付くと、何だかおかしく思えて、一度だけ笑った。
酷く乾いた笑い声だった。
全てが嫌になって、私は踵を返し、駆け出そうとした。
このままじゃどの道、家にも帰れやしない。
でも、そうはならなかった。
正確には、そうできなかったのだ。
健二が私の手首を捕まえて、離そうとしなかったから。
そこから逃げることが決して許されないのは、掴まれた右手首の痛みが教えてくれた。
「……離して、健二」
私の声に、彼の掴む力が強くなる。
「どうして、どうして君はそうなんだ」
ぽつりと落とされた彼の言葉が私の心を踏み潰す。
彼の言いたいことが分からないから、私はただ傷付くのを恐れて不安がる。
「……健二の言いたいことがちっともわからないわ。……私たちは、一体何なの?……あなたは一体私のことをどう思っているの?」
返した言葉は震えていた。
怖くて、私は今にも全てを放り出して、どこまででも逃げてしまいたかった。
けれども、私の右手を強く握る彼の熱い掌が決してそれをさせてはくれないから。
それどころか彼は勢いよく私を引っ張ると、その胸の中に私を閉じ込めた。
一体何が起きたのか分からなかった。私は何一つ理解できていない。
「……僕がどんな思いで君と一緒にいるか分かる?」
「え?」
「……分からないよね、君は。それでも、もういいんだ。僕は僕が思う通りにするよ。例え君がその結果、救われないのだとしても」
「……どういうこと、健二。よく、わからないわ」
「つまり、こういうことだよ」
健二はいつになく優しい声でそう告げると、私にキスをした。
さっきの口づけとは、全然違う。
そこには、何の苦みも、哀しみも、切なさもなかった。ただただ甘い、キスだった。
あぁ、彼は私を愛しているのだ。
私が彼を愛しているように。
ずっと不安だった一つの懐疑は、ただ一度のキスで答えを得た。
私はもう、声を出さずに叫ばなくていいのだ。
だって彼がすべてを受け止めてくれるから。
そうでしょう、健二。
私はこの世界に本当に存在しているの?
あまりにも幸福なその口づけに、私は思わず自分の存在さえも疑ってしまうような。
私は健二に身を委ねて、幸せだけを感じていた。それだけでよかった。
何も知らない無垢な子どものように、優しい夢を見ていた。
だから、ちっとも気が付かなかった。
口づけを交わした後、彼が私をもう一度抱きしめた時、ひっそりと呟いていた言葉に。
酸素欠乏を訴えていた私の脳は、彼の言葉を受け付ける余裕なんてなかった。
「……兄さん、ごめんよ」
……あれ? そう言えば、どうして私はこんなにも自暴自棄になっていたのかしら。
どうして声を出して叫ぶことも、涙を流して泣くこともできないほど、追い詰められていたのだろう。
温かで幸福な健二の胸の中で、私はぼんやりとそんなことを思っていた。
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