65 安息と絶望の境界線

 筋肉痛である。


「……いてぇ」


 起床した俺は全身が訴える筋肉痛特有の痛みに一言そう呟いた。

 そしてスマホ代わりの腕時計で時刻を確認する。


「……十二時か」


 色々な事があった上であの運動量だ。相当疲れが溜まっていたのだろう。眠りに付いた正確な時間は分からないけど、多分十二時間程寝ていたのではないだろうか。

 そして俺は自然と隣りに視線を向ける。

 エルはまだ眠っていた。

 無理もない。エルは寧ろ起きてある程度普通に動いていた方が不思議な状態だったんだ。容体で言えば常に横になっていなければならない程重たい筈で……こうして眠っている方が自然な状態なのだ。

 ……起こすのは悪い。

 俺はそう考えて静かに動きだし、外に出てみた。

 深夜に降っていた雨はすっかり上がり、空からは日光が差し込んでいた。

 そして夜間は気付かなかったが、こうして日中になってみると気付いた事がある。


「そういや紅葉シーズンか」


 季節は秋、紅葉シーズンだ。

 今こうして視界に映る光景は絶景だと言ってもいいだろう。

 多発天災の前、テレビなんかでよく見て綺麗だとは思ったけれど、やはりテレビの画面と自分の目で見るとじゃ全然違う。

 ……多分、こんな時じゃなければとてもいい気分でいられたのだと思う。

 あと一日。明日のこの時間にはエルに投与された薬の保証期間が終わってしまう。

 ……もう、たったそれだけしかないんだ。


「……どうする」


 改めて考えてみた。

 エルの意識が持ってくれるようにと祈る事しかできないと捉えている現状。

 ……何か。何でもいい。打破する方法はないのだろうか。

 考える。とにかく思考回路を焼ききれる程に動かす。

 だけど答えは出ない。俺にはこれ以上どうする事もできない。

 俺よりもよっぽど精霊に関して詳しい専門家が必死になって起こしてくれた奇跡が残り一日というリミットだ。そこから先の答えを俺なんかが簡単に出せるとすれば、俺達はきっとこんな所にいない。

 向こうの世界に飛ぶまでエルは無事なんだって安堵して、異世界に向かう前に今まで色々助かったって誠一とラーメン食いにいって、宮村にもとにかく頭下げて。

 ……いろんな人に礼を言って。

 そして俺達は誠一達に全てを託して異世界へと向かう。

 結局その先に異世界へ行かなければならない事実は曲げられなくても、いくらか平和的な時間になってくれただろう。

 現実とはかけ離れた時間が流れていただろう。


「……くそ」


 落ち着かなかった。

 昨日も落ち着かなかったとは思う。だけどタイムリミットが二十四時間を切り、より実感できるスピードでそれが迫ってくるのを感じて。その先未来に辿りつくのが時間が経つにつれて怖くなってくる。

 ……エルはいつ自分がおかしくなるかも何も知らないで、もしかしたら次の瞬間にはって、俺よりも辛い事を考えているだろうけど。


「……そうだ」


 俺なんかよりエルの方が辛いんだ。

 だからこの不安は表に出しちゃいけない。それが出来ない人間なのは分かっているけれど。それが通用しない相手なのは分かっているけども。せめてそうする努力位はやらないといけない。

 ずっと支えてもらってきた。今だって支えてもらっている。

 だったら俺がエルを支えないといけないのだから。

 今はもう……そしてこれからも、それができるのは俺だけなのだから。

 少しでも楽にしてやらないと。

 ……その為にも。


「外にいましたか、エイジさん」


 エルにはいつも通り接しよう。この不安が伝播してしまわぬ様に。

 少しでもその不安を拭ってやれる様に。


「おはよう、エル。体は大丈夫か?」


 山小屋の外に出てきたエルにそう尋ねる。


「悪くはなってないですよ。食欲だって普通にあります」


「ならよかった。悪化してるんじゃないかって心配だったんだ」


「私の体調不良も自然な物じゃないですから。正直私も朝起きた時大丈夫かなって思ってたんですけど、昨日程度な感じで安心しました。それに……まだちゃんと私でいられてますし」


 そう言うエルは安堵しているのか不安なのか、よく分からない笑みを浮かべる。実際どちらもなのだろう。

 そして俺の口から大丈夫だとは言えない。嘘を付けばきっとバレるし、本当の事を言えばそれは余命宣告と同じだ。

 だから、大丈夫だなんて事は言えない。


「だな……本当に良かった」


 だから俺に出来ることは一緒に安堵してやる事ぐらいだろうか?

 少なくとも俺もリミットの事を知らなければ素直にそう言うと思う。

 エルが今日もエルであることに一緒になって安堵すると思う。

 なんの答えもないのなら、そのくらいの事はしたいと思っている。


「エイジさんはどうですか?」


「俺?」


「また酷い筋肉痛にでもなってるんじゃないかって思いまして」


「……重症だよ。マジでいてえ」


「まああれだけ動いていましたしね。マッサージでもします?」


「え? できんの?」


「直感です。テレビで見た見よう見真似です」


「あーうん、そっか。まあまたの機会にお願いするよ」


「なんか期待されてませんね」


「今はゆっくり休んでろって言いたいんだよ」


 期待しているとかしていないかは一旦置いておくにしても、今のエルに筋肉痛程度で手を煩わせる訳にはいかないだろう。どう考えたって俺の方が軽症なんだから。


「……エイジさんがそう言うなら、また実戦はまた今度にしますか」


 そしてエルはところで、と俺に問う。


「外で何やってたんですか?」


「いや、別に何かやってたわけじゃねえんだ。見てみろよ、エル」


「わぁ、綺麗ですね」


 俺に促されるように視線を向けたエルはそんな感想を口にする。


「丁度紅葉シーズンだったからな。山の景色って言ったらやっぱこの時期が一番いいんじゃねえかな」


 登った事ねえから完全に憶測だけれど。


「俺結構好きだわ」


「だったら山登り趣味にでもしてみます?」


「嫌だ」


「……」


「嫌だ」


「ですよねー」


 モウコンナ、キンニクツウ、イヤデス。


「俺はもう今回の筋肉痛で山に行くのはスノボする時だけって風に決めたから」


「スノボっていうと……雪の上を板で滑るスポーツでしたっけ?」


「良く知ってるな」


「なんかたまたま読んだ漫画で出てきました。できるんですか?」


「いや、やってみたいってだけ。まあ足固定して滑るとかできる気がしないんだけども」


「エイジさんならできると思いますよ? 基本なんでもすぐにできるようになるじゃないですか」


「ある程度だけどな」


 初陣から風をある程度うまく使えたのも、誠一達との訓練の成果が短期間の割にはある程度出たのも、それはなんでも出来てるって事なのかもしれないけれど……それでもなんだろう、器用貧乏感か否めない。


「普通はきっとそのある程度が難しいんですよ。エイジさんは充分凄いです」


「そっか。そう言ってもらえると自信でてきた。よし、決めた。こっちの世界に戻って来たら絶対行こう」


 このご時世だ。まともに運営しているスキー場があるかは分からないけど……俺達がこっちの世界に戻ってくる様な状況になれば社会情勢は随分と変わっている筈だ。

 誠一達はこっちの世界の問題を解決して俺達が帰ってこれるようにしてくれる。それは即ち多発天災の様な精霊被害が起きないような状況になっているわけで、そうなれば精霊の情報が表に出てこないから難しいかもしれないけれど、普通に登山客が居たりスキーやってる奴がいたりという多発天災前の状況に戻ってくれるかもしれない。


「エルもやってみる?」


「そうですね。正直私も板に足固定して滑り下りるとか正気の沙汰じゃないって一瞬思ったりもしましたけど、よく考えたら私達それ以上にアクロバティックな動きしてきた訳ですから……なんかできそうな気がしますし……はい、やってみます」


「そんげえ理由だな……でもまあ確かにそう考えると多分俺達楽勝にできるな」


「じゃあこっちの世界戻って来たら一緒に行きますか」


「これでまた楽しみが増えたな」


「ですね」


 そんな時だった……笑みを浮かべるエルの腹の虫が鳴いたのは。


「本当に食欲はあるんだな」


「ありますよ。少しお腹空きました」


「……どうでもいいけど普通ああいうのって、恥ずかしいもんじゃないのか?」


「私が食い意地張ってるの良く知ってるじゃないですか。だから別にそんなのはどうだっていいんです」


「そっか。じゃあとりあえずなんか食べる?」


「はい!」


 そうして俺達は山小屋の中に戻り食事をする事にした。

 特に何事もなく。普通においしい缶詰を普通に食べた。

 ……そうだ。何も起きなかった。

 食事を終えてからもただ緩やかな時間が過ぎていくだけで、そこに不安は付き纏っても何かが起きたという事はない。

 そうして夜を迎え、再び食事をし、そして再び眠りに付いた。

 そういう風に何事もなく、何事もない事が保証されていた一日は終わりを迎えた。

 そして訪れるのは保証されない一日だ。







 翌日。午前十一時前。

 誠一からタイムリミットを聞かされた時刻よりもやや早いが、それでも聞いた瞬間から二日という訳では無いだろう。早ければそろそろタイムリミットが訪れるかもしれない。


「……どうしました? 顔色悪いですよ?」


「あ……なんだろうな。多分疲れてるんだと思うよ」


 嘘だ。昨日は実質なにもやっていなくて、体力は有り余っている。

 筋肉痛だってほぼ治った。だから体調は万全なんだ。

 だから原因は分かってる。ただ顔に出る程不安で仕方がないだけ。

 今日、夢を見た。エルがいなくなる夢を見た。きっと不安がそういう夢を見させたのだろう。

 そしてそれが不安を増長させ、より気分が重くなる。

 昨日、不安を表に出しては行けないと考えた。だけどあの時の俺が思って居た以上にリミット直前のこの状況が与える精神的な負荷は大きく、正直こんな不安をどう抑えたらいいのかが分からない。

 それでもなんとかエルに悟られないように。エルをより不安にさせない為に必死に取り繕っていたけれど、顔色に出て来たらもうどうしようもないだろう。誤魔化したけど多分誤魔化せていない。


「……大丈夫ですよ」


 エルがぎこちない笑みを作って言う。


「なんだかんだで昨日も大丈夫でしたし、多分今日だって大丈夫ですよ。あと一日位なんとかなりますって」


「……ああ、そうだな。ごめん」


 なんで俺が慰められているのだろうか。

 ……逆だろ普通は。

 そしてそんな不安を抱いたまま。拭えないまま。きっと隠せていないまま……エルに与えられた猶予期間は終わりを迎えた。

 あとはそこから先に何も起きないように、ただひたすらに祈り続けるしかない。

 だけど不安に押し潰された思考はネガティブな方へと向いてしまう。

 そして辿り着いた当然の疑問。

 果たしてエルの猶予期間はどうやって算出されたのだろうか。

 その判断を下された際に提示された二日半。その期間内と期間外。この二つの間を分けたのは一体何なのだろう。

 それは分からないけれど、それを分けるに至る要因がある事は間違いないのだという事は理解できる。

 だから改めて冷静に考えれば、此処から先に何も起きない方がおかしいんだ。

 だからそれは当たり前の様に起きた。

 こちらの祈りをあっさりと蹂躪するように。楽観的な希望を捻じ伏せるように。

 タイムリミットを迎え、事態は急速に動き始めた。

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