戦国2050年

ごるごし

プロローグ

 プロレタリアと言えば労働者階級に思えるが、今や資本家もプロレタリアの一員だ。それは個人事業主や合同会社という虚構によって形作られている。普通であれば、社長と言えば聞こえがいい。しかし、それら社長に求められるのは社会の構成員としての振る舞いだ。確定申告や年末調整も無産階級が行うそれと何も変わらない。変わることがあるとすれば複式簿記ぐらいだろう。

 社会の構成員は概して城になりがちだ。カフカの城は煩雑な手続きに惑わされるうちに、城下町で伴侶と出会い、新しい仕事を見つけた。全く意味がない。プロレタリアは意味のない手続きで仕事を増やし、さも労働力の一部であると勘違いをしがちである。これは、職人も同じである。彼らも与えられた枠内で仕事をして、さも生産したか粋がっているに過ぎない。

 我々の人生はプロレタリア的である。余計な仕事を増やし、余計な仕事をこなしたから生産的だと勘違いして安心するのである。普通の神経をしていれば、無意味な生産活動に対して疑問に思い、自ずから発狂するだろう。自らが生み出しているのは、糞便と紙屑なのであるのだから。それに拠り所を見出せる精神とは一体全体、何なのだろう?


 人は少なからず、一度ぐらいは人生の価値について問答する。そして結論として、いかに現状が素晴らしいか賞賛し、賛美することで、安寧を得るのである。しかし、認めなければならない。今は糞便にも至らない人生であったと。

 私は研究者として、さまざまな賞を授かり、大量の論文を書き上げ、現代の工学に貢献を果たしたと勘違いしていた。仮に引用を得たとしても、それら論文のほとんどはネズミの檻で実験されたもので、私もネズミの檻の中で成果を報告したに過ぎない。ニコラ・テスラは晩年になって妖怪研究を始めたそうであるが、交流を世に普及させた研究者であれ気が狂うのである。そう、自分の研究に意味を見いだせないから。

 研究とは、産業に応用されて発展するものである。ピタゴラスの定理は今や建築では必須の定理であろう。ラマヌジャンもいくらか貢献を果たしたが、定理の証明ができないということで後世の研究者に丸投げしている。果たして研究というものは、発展すればするほど産業化によって社会が豊かになると言えるのだろうか? プロレタリアートの語源は、暇すぎて演劇ばかりを鑑賞する人のことを指していた。無産階級と言えば、本当に何も生み出していない、ただ仕事もなければ食料は何不自由することがない。貧困とは真逆の人たちである。現代のプロレタリアも暇すぎて仕事のために仕事を作っているとも言える。現代の労働はその姿形が複雑化することで、無産的な側面を排除しているとも言える。研究も同じく、暇な人たちが専従し、教育に携わることで賃金を得ている。労働の形そのものである。

 仮に複雑化した社会構造を無産的とするなら、真に無産的な人たちは生活保護ないしは親のスネを齧ることのできる人種であろう。資本家というのは、先の大戦でほぼ絶滅したのではないだろうか? ごく稀に学生の中に金持ちがいる。こぞって彼らはA+級国民と表現する。地主で生活に何不自由しない人たちであり、就職しても親の影響下に置かれる。不運にも彼らを雇ってしまった企業は根こそぎ株式を買われてしまうのである。我が子大事のために札束で社会を殴り飛ばすのが彼らのやり方であるが、我々はあまり気にすることがない。困るのは社長と銀行ぐらいだ。資本家階級にある人らは、相続税問題の方が大変である。何かを残せば半分は国庫に持っていかれるのだから、子供を対象に戦争経済を仕掛けるのも頷ける。何も我々個人とて労働が忙しいと常日頃考えるわけであるが、資本家階級は相続が大変なのである。だから、金持ちほど嘘だと思うような悪どい商売にも加担するのである。相続税がかからないし、少なくとも子供には残るから。

 我々のような労働者階級は日々の仕事が忙しく、資本家に搾取されていると思いがちであるが、資本家も国に搾取されないために富を浪費するすることで忙しいのである。例えば、毎日一億円が口座に振り込まれたとしよう。一年で三六五億円、十年で三六五〇億円である。しかし、実際には所得税や住民税がかかる。年度末頃に毎日得られた三六五億円の半額を納めなければならない。さらに、もし子供を産んで死んでしまったなら、伴侶に対する相続税がかかる。手元に残るのは四分一にも満たないと思うと、資本家階級は浪費するのに忙しい。無産的に生産されるモノを消費する立場に変わるのである。これは即ち知的労働の一種ではなかろうか? 資本家階級と言えば、トレンドを追って何も価値のない会話を楽しみ、その横で労働者階級が首を赤くしているのをほくそ笑むイメージがある。しかし、根本として人間共通の悩みを持っている。無駄な時間をどう過ごし、人生を豊かに送れるかどうかである。

 恐らく、本当に毎日一億円が振り込まれたとして、労働者階級は適正かつ適法に資産を運用することはできないだろう。資本家階級の生活を知らないからである。三笠宮家や岩崎家のような暮らしとは何なのだろうと、そこからスタートしなければならない。よって、身分というものは固定される。たまに株式会社を設立してユニコーンになるかもしれない。しかし、「数十人の従業員の生命を握っている」という実感でゲロを吐くのが関の山である。鈍感で横柄な人間ならば、企業が大きくなって他人の人生を掴んでいるとは思わないだろう。お金持ちになってそれまでである。恐らく、相続問題で一家が地獄の目に遭うだろう。それすらも考えないほど鈍感なのだ。債権者も黙ってはいまい。真の資本家階級というのは、資産運用も含めて上手にやっている。普通の人らが知らない方法で財を形成して社会に還元している。

 もし、この世に富の集中が起こるならば、古代ローマのように衰退するだろう。東京も労働の集約地のようになったが、新型コロナウイルスによって縦に労働を積み上げるのがいかに無駄であるか思い知らされたところだろう。銀座数寄屋橋がへべれけになるのも頷ける。労働は集約するのではなく、適正な粒度で分散させるのが良いと社会に知らしめた。

 我々は考えるアリである。葦と表現した哲学者もいるが、アリの方がいいだろう。労働者階級も資本家階級もアリのように働くのである。豊かな人生はこの世にはとうに存在せず、悩ましくも自分に与えられた役割を担うしかないのである。我々はアリのように見えない悩みを抱えながら等しく生きるのである。もし、悩む必要がないのならば、やはり神経の図太い、面の皮が厚く、横柄な人柄であろう。パラポネラのような強靭な顎を持つ毒虫が如く、その醜悪な体裁をここぞとばかり見せつける。そのような人間は即刻ロボトミーすべきである。しかし、悲しいかな、経営者の資質として必要なのはナイーブさよりも他人のことを鑑みない性格なのだ。恐らく、そのような人間は地獄に落ちる寸前も幸せに違いない。収監者でも幸せのためなら喜んで罪を自白し、刑務官の不評を買うに違いない。油と水なのだ。資本家階級に油のような人間はいないだろう。金がない代わりに、金が余りすぎるという悩みを抱えるのだから。しかし、そう言えば債権回収するのにあいつの首を吊って自殺に見せかけてやったわ、と笑って話せる人間がどうしても一定数いるのは仕方がない。


 如かずしてプロレタリアたる人民諸氏に至っては、共通の話題であるいかにして人生を豊かに過ごすか、ということが例年の如くテーマとなる。我々は赤ん坊のようなあどけない顔で人生を豊かに過ごしたい、と思いつつ、榴弾砲に弾を込めて耳を塞ぎ、栓を引くのである。ファイアー・イン・ア・ホール。スターリンだって耳を塞いで叫んでいた。どうすれば人生を豊かにできるか。キャベツ畑で生まれる人民に思いを馳せながら、脳梗塞で寝小便を垂らし、天寿を全うしたのである。

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