第26話 慰め
庭のベンチには先客がいた。アーネストである。手に茶色がかった紙を持っている。
「おお、和葉。どうしたどうした! 待ってろよ……あれっ、ああ! あったあった!」
和葉に気づいたアーネストは、慌ててポケットから自分用のハンカチを取り出した。涙の成分を吸収するハンカチである。
「相変わらずすごいなお前さん……子ども並みに泣くじゃないか」
「すみません……」
「違う違う! 皮肉じゃない。この国では子どもは重宝されるんだ。よく泣くからね。誉め言葉だよ」
アーネストは和葉の頭をぐしゃぐしゃと撫で、困ったように笑った。そして手に持っていた手紙を和葉に渡した。
「これ、南部地区の工場の人たちから。手紙書いてほしいとは言ったけど、こんなに早いとは思ってなかった! 俺もびっくりしたよ」
手紙には拙い文字が並べられていた。中には、ジャンが工場を畳んで川の清掃の仕事を始めると決めたこと、従業員はそれぞれ中央地区に出稼ぎに行ったり、川の清掃の職に就いたりしていることなどが書かれていた。最後には和葉や周、アーネストへの感謝の言葉が綴られている。
「はは! ジャンさんも結構立ち直り早いよな。でもまあ、立ち直ってないから仕事を変えたのかなあ……。でもみんなちゃんと前向いててすごいよな」
和葉はじっと押し黙った。劣等感で頭がおかしくなりそうだ。
「そうしょんぼりするんじゃないよ。この人たちが働けてるのはお前さんの功績でもあるんだぞ? 事務職に就いた人もいるらしいな」
「私、何もできてませんよ。文字を教えるのだって、先生の方が何十倍も上手かったし……」
「そりゃ俺は先生だから! 素人のお前さんより下手だったら笑いもんだろうよ。それでも工場の人たちはお前さんに感謝してる。前より教えるのが上手くなったとも言ってた。それでいいじゃないか。最初からなんでもできる人なんていないんだからさ。どんどん上達していくもんだ。……今の俺、ちょっと先生っぽかった?」
和葉は手の甲で目を覆いながら笑った。アーネストはよしよし、と言いながら頭を撫でた。彼の手のひらは大きく、温かい。
次の日から和葉は杏樹との会話を開始させた。
(話すのも数をこなしていけば上手くなるかもしれない。杏樹さんが本気で会話を嫌がったら止めよう。それまでは……)
しばらく日が経った頃、杏樹は相変わらず素っ気なかった。自傷行為はやや治まったものの、まだ続いている。和葉が姿を現すと、ちらっと横目で見てすぐにそっぽを向いた。
内心ショックとイラつきで泣きそうだったが、話し相手になると決めた手前、グッと堪えた。話す内容など全く決めていない。
周ならどうするのか、和葉はちらりと彼を見てため息をついた。そして三雲たちの所にいたとき、周が言っていたことを思い出した。「共通点」だ。
和葉は歌を歌った。三雲の前で歌ったものだ。調子っぱずれのいびつな歌。案の定、杏樹はきょとんとしている。
「この歌、私のお母さんがよく歌っていたんです。泣き虫な私が泣いていると、必ず歌ってくれた。もうお母さんは死んじゃったけど……。この歌は聞くと元気になるんです。だから、杏樹さんにも聞かせたくて」
「あなたのお母さんも亡くなったの? 私の……私の母もなのよ」
明らかに杏樹の表情が変わった。その場の雰囲気も変わる。今までバラバラだった雲が引き寄せられるように、互いの距離が縮まっていく。
それから二人は様々な話をした。母親の話をするとき、和葉の頭の中に「杏樹の話し相手になって、病気を解明するヒントを得る」という考えは無くなっていた。ただひたすらに自分の母親の思い出、母親の死への思い、寂しさを語った。和葉はなぜか救われた気がした。
話しながら、二人の目に涙が浮かぶ。この国に来てから、毎日新しいものと触れ合って、母親の死と向き合う時間が無くなっていた。しかし久しぶりに母親の顔を思い出したら、なぜかこの国に来る前よりもはっきりと頭に浮かんだ。
話しているうちに、杏樹は少しずつ心を開いていった。傷の舐め合いと言われても、彼女たちは上手く反論はできないが、互いの傷を舐めあってその傷が癒えるなら、その行為にも意味があるだろう。
そして杏樹は様々な話をし始めた。父親はどこか自分に後ろめたい気持ちを抱えているかもしれないということ、継母から冷たく接されていたこと、本当に血がつながっている母親は実の兄とともに追放されてスラム街で死んだこと。
杏樹に仲間意識を持ち始めていた和葉は、あまりに自分とは違う境遇の彼女に負い目を感じた。反応に困っていると、さっきまで遠巻きに見ていた周が近寄ってきた。
「あんたの体の調子が悪くなり始めていたのは、継母が亡くなったころからっていうことには間違いありませんか。冷たく接されていたのに、寂しいということはないでしょう。むしろ清々して体の調子が良くなりそうなものですけど」
突然何を言い出すのだと、和葉は少しぎょっとした。
「ええ、勿論お義母様が亡くなったときは清々したわ。あの人、お父様にばれないようにねちねち嫌がらせしてくるんだもの。あの人が私に嫌がらせをしてくるとき、私は悲劇のヒロインになった。いいえ、『なれた』のよ」
「『なれた』……。あんた、望んで嫌がらせを受けてたのか? 言ってることが矛盾してますよ」
「私はね、何の不自由もない生活している自分が嫌で嫌でしょうがなかった。みんなが戦争に行って、苦しい思いをしている時に食べ物にも困らず、ケガもせず、ぬくぬくと温室の中で育てられていたのよ。でもね、お義母様が私をいじめている時だけは、私も苦しい思いをしているんだって。他の国民と苦しみは同等だって、自分に言い聞かせられた。今思えば同等なはずないのにね。そしてお義母様が亡くなって、私をいじめる人はいなくなった。苦しみを与えてくれなくなった。ちょうどその頃ヘレニウム病になって、余計自分は何不自由ない生活を送って、迷惑だけかける存在なんだって思うようになって、それで……」
杏樹はルージュを引いたように色づく唇を震わせ、長いまつ毛で縁どられた目から大粒の涙をこぼした。言葉に詰まった彼女が俯くのを阻止するように、凛とした声が部屋に響く。
「苦しいことを、他人と比べること自体違うんじゃねえか? あんたは義理の母親から虐められて苦しかった。それでいいじゃねえか。俺だって、戦争でケガしたやつとか、家族が戦争で死んだやつとかの苦しみは本人ほどは分かんねえよ。想像するしかねえ。皆そうだろ。抱えてる苦しみなんて人それぞれだし……」
「杏樹様! 周様! 有人様が!」
若いメイドが焦った様子で部屋に入ってきた。汗を拭うこともなく、杏樹の腕を引っ張り立たせ、肩を抱いて部屋から出した。
「おい、どうしたんだ!」
「病状が悪化したのです。杏樹様と周様をお連れするように言われまして……」
なぜ周までも呼ばれたのか和葉は分からなかったが、周は腹を決めたように真っすぐを見つめている。和葉は周と杏樹と同じ行動をすることを躊躇った。何故だか、自分はそうするべきではないと感じたのだ。
ドタバタと彼らが杏樹の部屋から出ていったと同時に、アーネストが部屋に入ってきた。
「和葉ちゃん、賢明な判断だよ。俺たちに立ち入る隙はないよ。ここで待って居ようじゃないか」
「あの、なんで周さんも呼ばれたんですか? 先生はここに居るのに」
アーネストは珍しく口ごもり、目線をドレッサーの方へ向けた。写真がいくつも飾ってあるのが見える。和葉は絵画か何かかと思い目にも留めなかった。そこには美しい生身の人間が写っていた。美しい女性だ。亜麻色の、艶のある髪を編み込んでいる。
間違いない、と和葉は確信した。彼女は杏樹に少し似ている、彼女の母親だ。そして少しとは言わず、彼女はあの人と瓜二つだったのだ。
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