第16話 前進(2)
次の日、周とアーネストはユリウスたちと別れ、「ヘレンの書」を探すために旅立つことになった。ユリウスは何度も「無茶をするな」や「危ない目に遭いそうになったら帰ってこい」だの言っていたが、周に「お前が言うな」と諭されていた。
三雲は部屋から出ることができるようになり、カーテン越しではなく話せるようになっていた。それでもまだ他人の前に出るのは勇気がいるため、少しずつ慣れていくつもりだと言った。
そしてユリウスが三雲の手術のために貯めた金は、筒音の学費として使うことになった。筒音は今から勉強を始めて、中学校の授業についていけるように頑張ると張り切っている。
それぞれが前を向いて歩みだそうとしていることに、和葉の口角も自然と上がる。それと同時に、まだ自分がこれからどうしていくか決まっていないことに、焦りも感じていた。いつまでもあまり裕福ではないユリウスたちの所に世話になるのは気が引ける。
和葉がしばらく黙ったままなのを見て、周が口を開いた。
「お前は? これからどうするか決めたのか? ユリウスたちとここで暮らしながら涙を集めるか。それとも俺たちと『ヘレンの書』を探しながら涙を集めるか」
予想外のことを言われ、和葉は口をポカンと開けたまま固まった。まさか選択肢を与えられるなんて思っていなかったのだ。
「え? 私、一緒にいていいんですか?」
そう言うと、周は呆れたようにため息をついた。
「お前、後先考えない癖、治した方がいいぞ。一人で見ず知らずの土地でやっていけないことくらい、ここ数日で学んだだろ。ただでさえお前は鈍くさくて世間知らずなんだからよ」
「こう見えて、周はお前さんのことを心配してるんだよ。二人で昨晩話し合ったんだ。二ホンから来た人の話が収録されている『ヘレンの書』の続きは、二ホン人のお前さん自身が知っておかなきゃいけないだろうって。あの話は前編に載っていたけど、後編にも詳しく書かれているかもしれないからな。今から俺たちは『ヘレンの書』の調査の旅に出るけど、人手は多いに越したことはない。一緒に来ないか? お前さんも二ホンに帰る新しい手掛かりが掴めるかもしれないし、飯も食えるし、一石二鳥じゃないか?」
「おい、先生。提案するんじゃなくて、こいつに決めさせろって言っただろ。周りに流されっぱなしの甘ったれじゃ駄目なんだ。んで? どうする」
周は気難しそうな顔で、アーネストはいつもの飄々とした表情で問いかけた。和葉は正座した膝の上にある握りこぶしをぎゅっと握りしめ、彷徨わせていた目線を二人の顔に定めた。
「よろしくお願いします! 私、周さんやアーネストさんと一緒に旅をしたいです! お願いします!」
勢いよく頭を下げると、二人は少し面食らったようだ。少しの沈黙のあと、アーネストが笑い始めた。
「元気があるのはいいことだなあ。その心意気があれば何とかなるだろ。さ、決まり決まり」
「ちょっとでも変な真似したら、即、その場で置き捨てるからな。あと、飯の分は働けよ。俺たちは調査をするために旅に出るんだからな」
なんとかこの先のことが決まったようで、和葉は胸をなでおろした。「ヘレンの書」の続きも気になっていたので、その本を探す二人と一緒にいることができるのは、和葉にとって僥倖だった。
何度も感謝の言葉を述べ、ドアの向こうで勉強をしている筒音たちに今後のことを伝えに行った。3人は和葉と離れることを残念がり、それと同時に彼女のこれからの幸福を祈った。和葉はというと、数日とはいえ、濃い日々を共に送った彼らと離れることを実感し、涙が止まらない。ユリウスがすかさずハンカチで涙を拭きとり、それを和葉に渡した。
「このハンカチ、三雲の涙も拭いたやつだ。これを大学の研究施設に売れば金になる。今までの礼だよ。ありがとな」
「ユリウス、旅の資金には余裕がある。こいつにひもじい思いをさせることはないから、これはお前がとっておけよ。色々これから必要だろ」
「いいから。今まで貯めてきた分の金もあるし。なんか、三雲の涙を売るのに抵抗あるんだよなあ。だから貰ってくれよ」
ユリウスは和葉の手に無理やり押し込めて、太陽のように笑った。周は、お前がそう言うなら……と納得した様子だ。三雲もにこやかに笑って頷いている。一方、筒音は意地の悪い顔でニヤニヤと和葉を見ている。
「和葉! もういたいけな少女に暴力振るっちゃだめだぞ!」
「最初に会ったときの話? 今掘り返すのかあ……。ごめんってば! 本当に反省してるよ……」
「冗談だって、冗談! 旅が終わったらまたこの街に帰ってきてよ。そん時はタダで靴磨きしてあげるからさ。絶対だよ」
憎まれ口は、彼女の照れ隠しか、寂しさを隠すものだろう。初日の険悪な雰囲気はもうない。和葉の頬をつねる様子は、まるで兄弟に甘噛みをする子猫のようだ。
名残惜しい気持ちを振り切って、周、アーネスト、和葉はこの街を去った。道中、美しい琥珀色の瞳を持つ汚れた猫が、子どもたちに囲まれて体を綺麗にされているのを見かけた。
(あ、あの猫、ここに来たばかりのときに見た猫だ……)
最初は嫌がる素振りを見せた猫も、綺麗になった時には満更でもない表情をしていた。その様子を見た子どもたちも、嬉しそうに歓声を上げる。
日本とは全く違うと思っていたが、意外とそうではないのかもしれない。未知の世界の割に妙に現実的で、そして変なところでファンタジーなこの国を、和葉はいつの間にか気に入っていた。それでも日本に帰りたい気持ちは変わらない。5人中2人分の涙が染み込んだハンカチを握りしめ、和葉は新たな地へ向けて歩き出した。
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