第7話 幼馴染

 とにかく今日のところは、和葉が彼の家のドアの前にいることを許された。家の中はどうしても駄目らしい。なんでも、同居人が彼以外の人間と顔を合わせることができないとのことだ。和葉はドアの前に茣蓙ござを引いて、体育座りをした。

「悪いね、本当に。外に寝させちまって……せめて飯だけでも食ってくれ」

 そう言って彼はコッペパンを差し出した。どこか薄汚れていて、普段なら迷わず捨てていただろう。しかし、それが今の彼女にとっては御馳走のように感じられた。かぶりついた瞬間、ミルクの香りが体全体に行き渡っていく。こんなにパンはおいしかっただろうかと感動した。そしてたった数時間しか食べていないだけなのに、ひどく腹が減っていたことに気が付いた。

 ユリウスはコッペパンを渡してすぐに、「おやすみ」とだけ言って家の中に入って行った。気づいたら外は真っ暗で、家の中からわずかに漏れる光だけが頼りだった。パンを食べた瞬間から感じていた感情が、彼がいなくなった瞬間にあふれ出た。

「おいしい。おいしい」

 泣きながら食べるので、時々むせてしまっている。食べておいしいと思うのも、泣いてむせるのも生きている証拠だ。それすらも嬉しい。

 コッペパンを食べ終わるのはあっという間だった。食べ盛りの中学生にとって量は少なかったが、疲労のせいですぐに眠気が来た。しかしここは外。安全のために起きていようという気持ちと、さっさと眠ってしまいたい気持ちとの間で揺れ動く。

 和葉がウトウトと夢と現の間を行ったり来たりしていると、いきなり額を指ではじかれた。驚いて上を見上げると、下からライトの光が当たっている男の顔が暗闇に浮かんだ。

「ぎゃああ! すみません、すみません。お金は持ってないんです……」

 和葉が手をあちこちに振って後ずさると、男は呆れたようにため息をつき、持っていたランプを顔の横に移動させた。

「あ、周さん? なぜここに……」

「ああ? この家の奴が電話掛けてきたんだよ。迷子のお嬢様がいるから迎えに来いってさ。ったく、迷惑かけやがって。だいたいお前は計画性がなさすぎる。金持たずに一人で飛び出して、何ができるってんだよ」

「本当におっしゃる通りで……すみません。……って、なんでユリウスさんが周さんの電話番号知ってるんですか?」

「同い年で幼馴染なんだ」

 家のドアから出てきたユリウスはそう言った。

「ユリウス。起こしちまってわりいな」

「いやいや、俺ずっと起きてたし。こっちこそ夜に電話して悪かったな。来るのは明日でいいって言ってたのに、まさかすぐ来るとは思ってなかったけど。それよりこの子、捻挫しちゃってさ。筒音つつねとちょっとやりあってね」

「はあ? お前何やってんだ」

 周が怪訝そうな顔で和葉に問いかえる。

「筒音って、さっきの女の子のことですか?」

「そうだよ。三雲みくもっていう子の妹なんだ。三雲は俺の幼馴染。だからその妹とも長い付き合いなんだ。今3人で暮らしてる。あんたを家に入らせなかったのは、その妹と顔を合わせない方がいいかと思ったからっていうのもあるんだけど、その三雲のこともあって……」

「おい、こいつに三雲のこと言う気か? 今日会ったばっかりだし、言ったところで何もならねえだだろ」

 周が驚いたようにユリウスに詰め寄った。するとユリウスは困ったように眉尻を下げて軽く笑った。若い見た目の割に、大人びた悲しい笑い方をする。大人でもしないかもしれない。

「この子が今大学生って聞いた時から少し考えてたんだ。年の近い女の子とだったら、少しは楽しく話ができるんじゃないかって。昔の三雲を知ってる人とじゃなくて、初対面の人との方が話せると思うんだ。それに、もう三雲は限界に近づいてる。確実に病気を治せる方法が見つかる前に、三雲は死んじまうかもしれない。昨日もナイフで手首を切ろうとしたんだ。それならもうどんな手段でもいいから、あいつの不安を取り除きたいと思ったんだ。悲しい気持ちで死んでほしくない。笑顔が見たい。俺はそのために仕事をして、金稼いで、周からも金借りて、でも全然足りなくて。まだ手術費の四分の一も貯まってない。間に合わないかもしれないんだ。だから」

 そう言って彼は和葉の肩を掴んだ。彼は顔をしわくちゃにして、何かに耐えたような表情をしている。

「だから、あいつと話をしてみてほしい。壁越しに。気軽に……とはいかないかもしれないけど、目的は三雲の気分転換だから。頼めるか?」

 和葉は勢いよく頷いた。そして恐る恐る気になっていたことを聞いた。

「もしかして、三雲さんの病気って」

 ユリウスは唇を震わせながら答えた。

「ああ。ヘレニウム病だ。最初は信じなかったけどな。自殺未遂を繰り返して、口数が減って、情緒不安定。確実な見分け方はないが、医者が言うならそうなんだろう」


 もう三雲は寝ているため、会話は明日にすることになった。そして周はユリウスに、もう遅いから泊っていくように言われ、階段の隅で寝ることになった。外の空気は蒸し暑いにも関わらず、階段はひんやりとして冷たい。和葉の周辺はあまり人がいないのか、妙に静かだ。遠くからは人々の騒ぎ声が聞こえる。

 いざ寝ようとしても、なかなか和葉は眠れなかった。茣蓙がチクチクするから、という理由だけではない。寝ようとしても、ユリウスの顔を思い出してしまったのだ。何かに耐えているような顔、悲しそうな笑み。

 何度も寝返りを打っていることに気づいたのか、周が眠れないのかと聞いてきた。

「あいつは本当に三雲のことが大切なんだろうな。ずっと昔から、生まれた時から一緒にいたらしい。俺は五歳くらいの時にあいつらと出会ったけど、あんな笑い方するやつじゃなかった。特に三雲は自信家で、いつだって輪の中心にいた。太陽みたいな奴だった。戦争がなかったら、今でも太陽みたいに、この薄暗いスラム街を照らしてくれてたんじゃねえかな」

 今までの荒っぽい話し方とは少し違ったしんみりとした口調に、和葉は戸惑って何も言い返すことができなかった。なんと返せば正解なのか分からなかった。考えをめぐらせていると、階段から笑ったような声が聞こえた。

「ただの独り言だ。返事しなくていい。おやすみ」

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