3
秋の長雨が、宵闇の劇場を包んでいた。
細く開けられた窓から流れ込む生ぬるい湿気の中に、たしかな秋の肌寒さが感じられる。
いつもの派手な化粧とタイトなドレスに身を包んだ椿月は、頬杖をついて窓の外を塗り潰す黒をながめていた。黒の中に薄ぼんやりと、雨ににじむ街灯の連なる姿がある。
ゴブラン織りが張られたアンティークデザインの椅子に腰掛けた、非常に絵になるその姿。
その横顔には憂いが翳(かげ)っている。それもまた絵になる理由の一つと白状してしまっては、本人に眉をひそめられるかもしれない。
読んでいた雑誌から顔を上げ、彼女をちらりと横目に見た神矢はそう思った。
ここは神矢の楽屋。夜公演を控える椿月が、珍しく彼の楽屋を訪ねてきたのだった。
誠一郎が姿を見せなくなってから半月が経った。
しばらく会いに来られなくなるということは伝えられていたが、具体的な期間と、肝心の内容をはっきり告げられていないせいで、椿月は様々な悪い想像に心を乱されていた。
神矢の楽屋に来たのも、別に彼と話したかったというより、誰かと話すことで制御できない自動思考を止めたかったからだと思われる。
「誰か、他の女の子のところに行っちゃったりしてるのかな……」
椿月が誰にともなくつぶやいた一言。
神矢は心の中で「んなわけないだろ」と瞬時につっこむ。あの一途で誠実な誠一郎に限っては、天地がひっくり返ってもそんなことはないと明言できる。
「センセーは多分、椿月に何か贈り物をしたくて仕事でもしにいってるんだと思うよ」と椿月に教えてしまっても良かったのだけれど、どうにも誠一郎はその目論見を黙っていてほしそうで。
神矢は同性の肩を持って何も言わないままだった。男として、誠一郎の気持ちは分かるつもりだ。
恋愛経験に乏しくお堅い彼のことだから、きっと何か物を贈り交際を申し込むというような、もはや何時代の文化か分からないようなことを真剣に考えているのだろう。神矢はこれまでの誠一郎との付き合いから、そんなことまで見通していた。
でも、それで好きな女を不安にさせたら意味がないだろう、とも思う。その不器用さも誠一郎らしさだとは思うのだが、そうだとしても。
そもそも“交際を申し込む”だなんて、そんな形式ばったことに何の意味があるのだろう。二人が想いあっていることはもう、傍(はた)から見ても間違いないのに。
というか、付き合うとは一体何なのだろう。互いが好き合っていると確認すること? 他の人とはデートをしないと約束させること? そんな約束なんてしなくても、二人は既にそうではないか。
口に出せない分、脳内でいろいろ考えてしまう神矢。自分の思考がまるで誠一郎の小説の文章のようになってきたな、と気づく。
ずっと伏し目がちの椿月が、しばらくぶりに口を開いた。
「ねえ。……“しばらく”ってどのくらいだと思う?」
いじらしい問いかけだった。
誰かを想う横顔は、思わず横取りしたくなってしまうような危険な魅力を持っている。
以前の自分なら見境なく動いていたかもしれないが、さすがに友人となった人の想い人に本気で迫るわけにはいかない。
揺れてしまう自分の気持ちをごまかすように、神矢は話を逸らす。
「……そういやセンセー、椿月に『欲しいものはないか』って訊いてただろ。もしかしたら近々何かくれるのかもしれないぞ。椿月もセンセーに何かあげてみたらどうだ?」
思わぬ提案に、椿月は久々に神矢の顔を正面から見た。瞳をぱちくりさせる。
「えっ、そうね……。何がいいのかしら……」
小さなあご先に細い指先を添えて思案する。
あまり高すぎるものを贈っても負担になるかもしれないし、そもそも男の人が何をもらったら喜ぶのかよく分からない。
失礼ながら参考にはならないかもと覚悟しつつ、椿月は神矢に尋ねた。
「辰巳が今欲しいものはなあに?」
「ドイツ製の時計」
本当に参考にならなかった。
そんなもの、手が届く届かないという次元の問題ではない。
椿月は質問の仕方を変えることにした。
「じゃあ、今までもらって一番嬉しかったのは?」
「そりゃあ、私を丸ごと――」
途中まで言いかけた神矢の言葉を、椿月の軽蔑するような冷たいまなざしが押しとどめる。
やはり全然参考にならなかった。
椿月はふたたび窓の外に視線を戻すと、深いため息をついた。
拭いきれない憂いを帯びたその横顔は、完全に悪女のそれではない。
「……物なんて、いらないのにな……」
ポツリとつぶやかれた本音。
神矢は心から、美しい横顔だ、と思った。そして、こうやって少女は女になっていくのかと、妙に納得してしまった。
センセー、こんな健気でかわいい子を放って、どこで何をやってるんだよ。
神矢は何も言わず、ふたたび雑誌に視線を落とした。
この仕事が始まってどのくらい経っただろうか。
午前はほぼ無人の展示室で読書、午後からは自室で執筆。代わり映えしない日々。
凪いだ水面のような生活がすっかり日常と化した、ある日のことだった。
誠一郎は午前の当番を終え、いつものように望月に一方的に絡まれながら当番を交代した。それから望月と入れ替わるように食堂で食事をもらい、自室に戻ろうとしたところで、本を借りるつもりだったことを思い出した。
展示室にいる間はずっと読書をしているので、信じられない早さで本を読みきってしまう。自宅から持ってきた本はとっくに読みきり、最近ではこの屋敷に置いてある本を片っ端から借りていた。
二階の自分の客間へ向かっていた足を一階に戻し、本のある部屋へ向かうことに。
長い廊下に広く取られた窓からは、日の光が差し込んでいる。
この家は周りの家と距離があるためか、目隠しの樹木などがほとんど植えられておらず、どこも非常に見通しがいい。部屋の窓からは専属の庭師によって手入れの行き届いた和風庭園が見え、廊下側では西洋風に整えられた玄関前の広場が見える。
そんな穏やかな景色を横目に、誠一郎が廊下を歩いていたとき。
――パリン。
小さく何か聞こえた気がした。
空耳と思うほど本当に小さな音だったので、ともすれば聞き逃していただろう。
それでも彼が足を止めたのは、何となく嫌な予感がしたからだった。
自分の身動きを止めて、音の再来を待つ。
――ガシャン。
聞こえた。
――ガシャンガシャン。
今度は連続して聞こえる。そのおかげで音する方角が何となく分かった。
遠い。壁を隔てて音がくぐもっている。
今いる廊下のもっと奥の方の部屋だろう。聞き逃さないように足音を殺しながら、音を頼りにゆっくりと歩みを進める。
その不穏な音は勢いを増して何度か続いたかと思うと、その後は聞こえなくなった。
廊下を探るようにゆっくりと途中まで進んでから、誠一郎はハッと気が付いて、駆けた。
この廊下の一番奥は、展示室だ。
飛び込んだ室内で、するはずのない風の流れを感じた。
まず視界に飛び込んできたのは、ガラスを派手に割られた窓。
慌てて部屋を見回すと。
「小峰さん!」
部屋の隅に腰を抜かしている小峰の姿があった。
すぐに駆け寄り、小峰の背中に手を添えて支える。混乱と恐怖からか、小峰の体は小刻みに震えていた。
小峰は誠一郎が駆けつけたことにも驚きつつ、震える指先で目の前の割れた窓をさし、次に展示物が飾ってある台座の一つを指差した。
「窓ガラスを叩き割って、覆面の男が……。あ、あそこの壷を奪って……」
誠一郎が午前にここにいた時、たしかに全ての台座の上に壷が飾られていた。それははっきり覚えている。
しかし今、小峰が指し示した台座の上にあった壷は、跡形もなく奪い去られていた。
誠一郎は小峰に断り、彼の体を壁にもたれさせ、空となった台座のもとに寄った。
展示物が見やすいよう、大人の男のへそのあたりまでの高さがある石製の円柱状の台座。たしかこの上には、白地に青の模様が入った壷が飾られていたはず。
壷は細身ではあったものの、ちょうど誠一郎の目の高さくらいまであったはずだから、大きさとしてはけして小さいほうではない。重さもあるし、小柄な者や力の弱い者が抱えて走るのは難しいだろう。
そんなところに何もあるわけがないと分かっていても、とっさに台座のふもとや自分の足元を確認してしまう。
誠一郎は割られた窓にも近づいた。窓の近くのじゅうたんの上には、弾け飛んだ小さなガラスの欠片が女性の耳飾りのようにキラキラ光っている。
犯人は相当慌てていたのか、ガラスの割られ方はだいぶ雑で、まんべんなく窓枠内を全て割っているわけでなく、とりあえず人ひとりが何とか通れればいい、というような破壊具合だった。大きな尖りを持った窓ガラスが、まだいくつも窓枠に張り付いている。
窓の外も覗いてみるが、やはり大きなガラス片が均(なら)された中庭の土の上に沢山落ちていた。
これを不幸中の幸いと言ってしまっていいのか分からないが、盗まれた品は初日に小峰が説明してくれたいくつかある高価な壷の一つではなかった。
事態をひとしきり確認して冷静になった誠一郎は、ふとあることに気が付いた。小峰のそばに戻り、目線の高さを合わせ、尋ねる。
「あの……望月さんはどちらに?」
この午後の時間帯は望月が展示室にいるはずだ。
けれど、この部屋には小峰以外の姿はない。
「それが……ちょっと外したいからと、たまたま見回りに来た私にここを頼んで、どこかへ……」
戸惑いを含んだ小峰の答えに、誠一郎は再度問う。
「望月さんとここを代わったのは、どのくらい前のことですか?」
「二十分から、二十五分くらい前ですかね……」
厠にしては少し長い時間だ。何か用事だったのだろうか。
その時、ちょうど望月が戻ってきた。
どことなく顔色があまり良くなかったが、彼は部屋の割れた窓を視界に入れるなり目を見張った。腰を抜かさんばかりに情けない声を上げる。
「えっ、えぇええぇえ?!」
そしてすぐに、壁に寄りかかる小峰とそばに付き添う誠一郎に気づいた。
「えっ、えっ。な、何があったんだ……?」
オロオロと慌てふためく望月。何か自分にとってまずそうな気配は感じとっているようで、及び腰になっている。
今の小峰に答えさせるのは酷だと思い、誠一郎が代わりに口を開く。
「……強盗が入ったようです」
誠一郎は望月の様子をじっと観察しながら事態の説明をした。
話を聞いた望月はサッと顔面を青くさせ、
「う、うそだ……こんな、誰も来ないところに強盗なんて……盗まれたなんて、うそだろ。僕をからかってるんだろう? いつも僕に言い返せない憂さを晴らそうと、罠にはめようとしてるんだろう?」
と、うろうろと歩き回って瞳をキョロキョロと動かし、室内をくまなく探す。
だがそもそもこの部屋は、簡単な机と椅子、台座と展示物以外は何も置いておらず、収納するような場所やどこかに続くような扉もない。
冗談でもいたずらでも、壷を隠せるような場所などあるわけがない。
室内のどこを探してもその壷がないことで、ようやく盗難の事実を受け入れるようになったのか、望月は忙しなく歩き回る足を止めた。
そしてブツブツと、自分自身と喋るように小声で何かを言い出す。いつもの上から来る態度が嘘のように、落ち着きなく親指の爪を噛んでいる。
「困るよ……なんで僕の時なんだよ……冗談じゃないよ……」
すると、ふと何か思いついたのか、望月は小峰に迫るように確認をした。
「いや、待ってくれ……。盗まれたあのツボは、たしかそんなに高価じゃないんだよな? な?」
「は、まぁ、一応は……」
他の高いものと比べてさほど高価でないとはいえ、ここに展示されている以上骨董品としての価値はあるものなのだ。小峰はなんとも言えなかったようで、あいまいな言葉を返す。
それだけ確認すると、望月は自分を落ち着かせるように「そうか、そうか。ならまぁ、きっと大丈夫……」とうなずきを繰り返す。
そして。
「ちょ、ちょっと失礼するよ。ハハ」
あせりで足がもつれそうになりながら、急いで部屋を出て行ってしまう。
余裕などまったくないはずなのに、何とか挟み込む乾いた笑いが痛々しい。
そもそも、午後の展示室の当番は望月だ。こんな事態になっているのに、「失礼するよ」などと居なくなっていいわけがない。
誠一郎は、自分の当番の時間帯ではないからと言い逃れるつもりはなかった。こんなことになってしまっては、担当の時間帯も何もないだろう。
小峰の体を支えながら、壷のなくなった台座と、割られた窓ガラスを繰り返し見つめる。
その目は真実の片鱗をとらえかけていた。
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