陸の人魚は嘘をつく2
メリッサがカイルに拾われてから一ヶ月が過ぎた。その間にマーガレットは一度だけ発作を起こしたが、幸いなことにすぐに治まった。メリッサのほうはジョアンナから仕事を教わり、屋敷の生活にも慣れてきた。
屋敷の仕事をしながら、時々カイルに呼ばれて商会の雑用も手伝うこともあった。屋敷の仕事が苦痛というわけでは決してないが、文字や数字をあつかう商会の仕事のほうがメリッサには向いているような気がしていた。
そもそも薬師の仕事は配合表どおりに材料を計って調合することなので、文字や数字を見るのは得意なのだ。
そして、天気のよい日は必ず夜の海に出て、カイルと会うのが日課になっていた。きちんと約束をしているわけではないが、カイルは毎晩砂浜にやってくる。毎日海に入らないと干からびるというわけではないのに、メリッサも海へ向かう。
カイルは一度も海に近づくことはなく、ただ浜辺に腰を下ろしてくだらない話をするだけだった。人魚であると知っていて、捕まえることもなく、話を聞いてくれるカイルの存在は、メリッサが自分でも気がつかないうちにとても大きなものになっていた。
故郷の村から逃げなくてはならなかったメリッサに、仕事と住むところを与えてくれ、人魚のルーナには安全な海を与えてくれたのだから、彼を特別に思うのはある意味当然だった。
「お兄様! 約束したのに」
メリッサが洗濯の仕事を終えて玄関ホールの前をとおりかかると、マーガレットの大きな声が聞こえた。仲のよい兄妹が言い争うのはめずらしい。
「すまない。急な商談が入ってしまったんだ」
「でも、でも……」
「本当にすまない。だが、今日はどうしても。……みやげを買ってくるから、な?」
カイルはマーガレットに諭すような口調で優しく告げる。
「……そうね、ごめんなさい。我がままを言ってしまって」
兄の困った表情を見て、どうにもならないと思ったのか、マーガレットはすぐに引き下がった。
「いってらっしゃいませ、お兄様」
彼女は笑っていた。それを見て安堵した様子のカイルは、妹の頭をなで、屋敷をあとにする。
兄が去ったあと、マーガレットは急にその表情を曇らせる。本当は納得しているわけではないのだ。それでも、彼女は笑顔で兄を送り出すほうを選んだ。
「マーガレット様……」
「なによ! 見ていいなんて言ってないわ」
私室に戻ろうとするマーガレットの大きな瞳にはこぼれ落ちる寸前の涙がたまっていた。慌ててメリッサがハンカチを差し出すと、彼女はそれを素直に受け取る。
「今日は、今日はダンスの先生がいらっしゃるのに……」
私室に戻り、窓際のソファに埋もれるように座ったマーガレットは、メリッサのハンカチで顔をこすりながら、ぽつりぽつりと気持ちをはき出す。
今日は午後からダンスのレッスンの予定だった。身体の弱い彼女だが、もうじき成人の十六になる。そのときには屋敷で盛大に祝いの宴が催される予定だ。
彼女としては、それまでにきちんとダンスを踊れるようにしておきたいと考えていたが、近頃よく体調を崩すのでなかなか練習ができなかった。
せっかく、ダンスの先生を呼んで、カイルもそれにつき合ってくれる約束をしていたのに、彼に外せない予定が入ってしまったのだ。
「ロバートはピアノで伴奏をするから、一緒には踊れない。ギュルセルは、ギュルセルとは踊りたくない」
「えっ?」
それは、メリッサにとっては意外な言葉だった。マーガレットはギュルセルに好意を抱いているのだと思っていたからだ。
「なによ?」
「マーガレット様はギュルセルさんのことが嫌いなのですか?」
「……メリッサは、すぐにここを去るのよね?」
「はい、そのつもりです」
「あのね、病気に詳しいなら知っているかもしれないけど、あと何回か発作を起こしたら、私はね……」
「そんなこと!」
薄々気がついていたことだが、マーガレット自身の口からそういう言葉が出てきたことがメリッサの胸に刺さる。
「だから、思うの。ギュルセルとはなるべく思い出を作りたくないって」
「なんで……」
マーガレットはギュルセルに淡い恋心を抱いている。そしてギュルセルもおそらくは小さな主のことを憎からず思っているのだ。それなのに思い出を作りたくないという彼女の気持ちがメリッサにはよくわからない。
「私って、本当になんの役にも立たない子供なのよ。だからね、ギュルセルとは踊らない。だって、私にとっての楽しい思い出は、残る人を悲しませるもの」
メリッサはマーガレットの言葉の意味が少しだけわかった気がした。マーガレットは長くは生きられないことを知って、彼女が消えてしまったあとに近しい人々ができるだけ悲しまないようにしたいのだろう。
「ひどく矛盾しているでしょ? 誕生パーティーはしたいのに、ギュルセルとは踊らない」
特別な思い出を、大好きな人たちになるべく残さないようにしようというのがマーガレットの優しさなら、それはとても悲しい優しさだ。
約束をやぶられたのに、笑顔で兄を送り出したのも、ギュルセルと踊らないのも、そしておそらく最初にメリッサを拒絶したのも。すべては残される人々のことを彼女なりに考えての行動なのだろう。
カイルや家族同然の使用人たちはそんなことを望んでいない。メリッサがそう言ってしまうのは簡単だが、口には出せなかった。カイルはマーガレットのことを一番に考えて行動をする。そしてマーガレットも同じなのだ。互いを想い合う兄妹のそれぞれの行動に、新参者の使用人が口を出せるはずがない。
「わかりました! じゃあ、私がお相手をします。私のほうが少しだけ背が高いですし、すぐにここからいなくなる人間ですから!」
人魚は人前では泣けない。それでよかったとメリッサは思った。
マーガレットがメリッサに望んでいるものは「すぐにいなくなって、マーガレットのことなど忘れてしまう使用人」なのだろう。
「あなた、バカなの……?」
「それ、カイル様にも言われました」
冗談めかしてメリッサが笑うと、マーガレットも少しだけつられて笑う。二人の関係はきっとこれでいいのだ。
§
午後のダンスレッスンに合わせて、メリッサは執事のロバートに相談をする。
そもそもメリッサはダンスを踊ったことなどないのだ。つけ焼き刃でもパートナーの足をふまない程度にどうにかしたかった。
「練習するのは二曲だけですので、なんとかなると思いますよ」
マーガレットは体力がなく、すぐに体調を崩すので簡単なステップの二曲を誕生会までに踊れることが目標なのだという。そして何度か先生を招く予定を入れるたびに風邪を引き、今日が二回目のレッスンだった。だから、初心者のメリッサでもなんとかなる。
ロバートは優秀な執事で、今すぐ片づける必要のない仕事をあと回しにし、できないものを急いで片づけたり、ジョアンナやギュルセルに割りふったりしてから、メリッサのために時間を作ってくれた。
そしてカイルが幼いころに着ていたベストとキュロットを引っぱり出してメリッサに渡す。
「まずはかたちが大切です」
にっこりとほほえみ、着替えるようにうながす。
「なんかちょっと恥ずかしいですけど、がんばります!」
地味眼鏡という名前でカイルから呼ばれているメリッサだが、いちおう年頃の娘だ。足のラインが見えてしまう男性の服装はさすがに少し恥ずかしい。
「さあ、マギーお嬢様のため。メリッサさんには厳しく指導いたしましょう」
ロバートがそう宣言し、屋敷の広間でたっぷり二時間の特訓がはじまった。二人で大きな鏡の前に立ち、ロバートと同じステップをふめるまで、繰り返し練習をする。
正午になるころには、ロバートの鼻歌に合わせて上手に足をふみ出せるほどになっていた。
「これなら、十分にお相手が務まります」
ロバートにお墨つきをもらったのと同時に、メリッサの腹の虫が鳴る。
「本番は午後ですからね。しっかり昼食をとってきてくださいね」
「はい……」
しっかりロバートにその音を聞かれてしまったメリッサは、急いで食堂へ向かった。
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