第1話「いつもと同じ別れ」
1話「いつもと同じ別れ」
「ごめん……他に好きな人が出来た。だから、別れてくれないかな。」
水無瀬夕映がそう恋人に告げられたのは、冬も終わり、少しずつ春風が吹き始めた頃だった。
夕映に話があると言って、自宅に来た今の恋人が話したのは別れ話だったけれど、夕映はたいして驚きもしなかった。
会社の取引相手なのか、時々見かける夕映を見て気になってくれたらしく、声を掛けられたのが今の恋人との始まりだった。
優しくて、笑うと子ども見たいで可愛く愛嬌のある年下の男性だった。読書が趣味で、よく本屋や図書館に一緒に行ったり、デートも落ち着いた雰囲気の場所を選んで出掛けていた。
仲は良かったと思う。
けれど、それだけだった。
今年入ってから、彼と会う時間が少なくなってきた。
会っていても、少しぎこちなかったし、悲しげな顔をしている事が多かった。
そして、付き合って約半年で別れを告げられたのだ。
夕映はとても冷静で、好きな人が出来たから会う回数が少なくなってたのか。と、思っていた。
「うん。…………わかった。」
夕映がそう言うと、彼は少しポカンとした後に、苦笑した。
「付き合う前、夕映は「付き合ってから恋をしたい。」と言ったよね。…………俺と付き合って、恋愛は出来ていた?」
「……………うん。出来たよ、ありがとう。」
夕映が少し迷いながら返事をすると、「それならよかったよ。」と、苦い顔のまま夕映の前から去っていった。
彼が去った後に、夕映は窓を開けて部屋の中に温かい風を入れる。そのお陰で少しだけ、気持ちが和らいできた。
「ごめんなさい。………本当は、好きだったのかもわからないの。」
彼といて、楽しいこともあったし、柔らかな気持ちになれた。それは彼ともっといたいという気持ちがなかったわけでもない。
けれど、それが「好き」という気持ちなのかと思うと、それは違っていたように夕映は感じていた。
「もう、あんなに夢中になれる恋は、出来ないのかな………。」
そう呟きながら思い出すのは、学生の頃の恋人だった。
その時、彼の事を考えない時はなかった。
彼といる時間はいつもドキドキしたし、幸せに満ちていて、視線が合うだけで嬉しかった。
キスをされれば、瞳が潤んでしまうほど幸せで、抱き締められると鼓動が早くなっていた。
彼以外で、そんな風に好きになる人が出来るのだろうか?と、夕映はいつも思っていた。
だからこそ、告白されれば付き合ってみたけれど、彼ほどに夢中になれる相手は現れなかった。
1年以上に続いたのは彼以外に1人だけだった。
「斎…………嫌いになったはずなのにね………もう別れてから6年も経つんだよね。こんな風に思ってしまうのは、未練がましいのかな。」
独り言を春風にのせると、その言葉はあっという間に消えてしまう。
夕映は、開けたばかりの窓をゆっくりと閉めた。
その頃には、先ほどまで恋人だった彼と別れ話をした事は、頭の隅っこに追いやられてしまっていた。
そんな物思いにふけった後。
夕映は、自宅で仕事をしていた。夕映の職業は翻訳家。外国語が好きで、子どもの頃から遊びながら学んでいたため、語学は達者だった。
それに、昔の彼の影響もあるのだ。
そう思うと、今の自分は全て彼で出来ているのではないかと思ってしまうぐらいだった。
パソコンでカタカタと英文を日本語に訳していく。今回は若者向けの小説なので、読みやすいように、話し言葉に近い文章に直していった。
翻訳家になったのは、洋画や洋書で勉強していたので、自分もそういう人達が学ぶのに役だちたかったからだ。
夕映は、有名映画の翻訳をする事だった。
まだまだその夢は叶うことはなかったけれど、今の仕事が楽しくて仕方がなかった。
自宅で出来る仕事となると、起きる時間や休む時間も自由なため不規則な生活になりがちだと言われるが、夕映も少しそれに当てはまっていた。
休憩の時間をほとんどせずに1日中仕事をしてしまう事が多々あるのだった。
今日は、世間では休日だったけれど、夕映には関係なかった。
恋人が別れを告げに来た後も、普通に仕事をしていた。自分でも「悲しいとも感じないなんて、酷い人だ。」なんて思ってもいたけれど、仕事を始めれば忘れてしまう事が出来た。
そんな、夕映だったけれど、今日は仕事だけの予定ではなかった。
昼過ぎにアラームがなった。
「あ、そろそろ時間だな………。」
1人暮らし特有の独り言を呟いた後、パソコンの電源を切って、出掛ける準備をした。
カールが掛かった茶色の長い髪を頭の上の方で結びポニーテールにする。
メイクも直した後、着替えや使うものを準備した後、近くのスポーツジムに向かった。
そのジムでは、外でテニスやバスケット、サッカーが出来る施設でもあり、夕映は歩いてそこのテニスコートへと向かった。
少人数限定のテニススクールに通っているのだ。
夕映は、中学の頃からテニスをしており、部活では全国でも入賞したことがあるほどの腕前だった。
大学生のサークルまで続けており、その後社会人になってやらなくなるのは寂しくなり、社会人2年目ぐらいからこのテニススクールにお世話になっていた。
子ども向けや初心者、シニアなど、いろいろなコースがあるけれど、夕映は何故か選手向けのコースに入っていたのだ。
初心者でも中級者でも、コーチに勿体ないと言われてしまい、プロになるつもりもないのに、選手コースに入会していた。
そのため、数人しかおらず、いろいろ教えてもらったり試合を沢山出来るのは良かった事かもしれない。
ここで1時間汗を流すのが、夕映の週に1度の楽しみだった。
「水無瀬さん、こんばんは。」
コーチが手を上げて呼んでいたので、そちらに向かって小走りで近寄った。
「松コーチ、よろしくお願いいたします。……今日は私だけですか?」
「今日は、試験前だったり、体調不良とかで水無瀬さんだけなんですよ。」
「わぁー寂しいけど、コーチを独占して試合出来るのは嬉しいです。」
「水無瀬さん、強いからなー……お手柔らかに。」
松コーチは、笑いながらそう言うと、「準備体操をしましょうか。」と言って、2人で軽く体を動かした。
松コーチは、夕映より若い男性の先生だった。体育大学を卒業して、プロとして活躍しながらも、このジムで働いているのだ。
背が高く、日焼けした肌、そして優しい顔つきで、とてもカッコいい人だった。松コーチに指導してほしくて、プロコースを希望する人も多いそうだ。
レッスンがスタートする時、夕映の視界の脇に何かが入り込んできた。
他のコートに誰かが入ったようだった。
「あ、今日はユースの子ども達の指導の日ですね。」
「………そうですね。九条コーチもテニス強いからね。」
「そう、ですね。」
2人が見つめる目線の先。
少し離れたらコートに、数名の男子学生と1人のコーチが入ってきた。
あちらも今から練習なのか準備体操や軽めのランニングをしていた。
そんな中でも特に背が高く、目を惹く容姿の男性がいた。
黒のジャンパーに、白のジャージのパンツを履いた細めだけれども鍛えてると一目でわかる体つきをしていた。
そして、太陽の光を受けて銀色とも少し緑色が混ざった灰色にもみえる不思議な色をした髪色、色白の肌に小さな顔、スッとした切れ長の瞳は綺麗なライトブルーの色だった。
コートの近くを通った人達は男女問わずに、みんな振り返ったり、その場で立ち止まったりしており、視線を集めていた。
けれど、本人は慣れているから平然とテニスの指導をしているのだ。
「今日も見ていくの?九条コーチのプレイ。」
「はい……。彼のテニスしている姿はとても整っているのに、優雅で綺麗なので見たくなっちゃうんですよね。」
「そうだね。基礎がしっかりしているからこそのフォームだと思うよ。テニスはプロ級で、そしてかっこいい。それだけでもすごいのに、九条財閥の息子で、彼自身もいくつもの会社を持ってる。……すごい人だよね。」
「………そうですね。」
九条斎。
九条財閥は、誰もが知っている会社の1つで、マンションやショッピングモール、ホテルなどを日本中に展開している大手すぎる企業だった。
彼自身も、幼い頃から英才教育として語学だけではなく、株取引や会社経営を学生のうちから実践しており、今では大きな会社を運営している敏腕社長だった。
そして、テニスもプロ顔負けの腕前だけれど、プロになる事はなく、テニス界は「日本のテニス界の大きな損失」だと嘆いていた。
そんなことから、試合に出れない代わりにユースの子どもの指導を斎がすることになっていたのだった。
そんな有名すぎる斎が、夕映の元恋人なのだった。
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