9.影鬼
ざざ ざざざざ ざざざ
近づいてくる影の気配。
(もう駄目だ……)
がっちりと目を瞑っていた色把の目の前に、さらりと風が起き、同時に鈍い音が響き渡る。痛みが来ると身構えていた色把は、恐る恐る瞼を開いた。
影と色把の間に、哭士が立ちはだかっていた。大きな影の方が離れた所でもがいているところを見ると、哭士が弾き飛ばしたらしい。
目まぐるしい事態の変化に色把は付いていけなくなっていた。
突如現れた邪魔者に影は激昂し吠え立てた。後から現れた小さな影が、まっすぐに哭士に向かってくる。
怯むことなく哭士は右腕を大きく横に振ると、指に引っかかった影は引き千切られ、蒸発するように空気中に溶けていった。
「……」
目を見開いて自分の右手の平を見つめる哭士。あっけなく消えてしまったことにやや驚いている様だ。影と対峙するのが初めてなのだろうか。色把は哭士と影の動向を見守った。
※
先ほど哭士に弾き飛ばされた影が体勢を立て直し哭士に面する。
哭士は振り返り、影と向かい合った。
先に動いたのは影だった。影は哭士の前で飛び上がると、牙をむき出し哭士へ襲い掛かる。
哭士は腕を突き出すが、影は空中で身を転じて更に上へと舞い上がる。
重さを感じないその動作は人間や動物とは明らかに違う為、加減が分からない。
「チッ……」
苛立ちを覚えながらも、哭士は影を見据える。影はまたもや哭士に照準を合わせ中空から哭士に向かってくる。先ほどの影と同じように手で掻き取ろうと構えた。
突如、空中の影から数本、針のようなものが発射された。
唐突な攻撃に思わず哭士は咄嗟に両腕で顔を防ぐ。左腕に数本針が刺さると、酸が溶けるような嫌な音と共に刺さった針は消えていった。
小さくうめき声を上げながらも、哭士は影に接近し、手刀で影を横に振り払った。
二つに分かれた影は砂嵐のような耳障りな音を立てながら、先ほどの小さな影と同じように空中に掻き消えていった。
影が完全に消えたことを見届けると、哭士は息を小さく吐き出し色把に向き直った。
「立てるか」
瞬く間の事に色把はまだ驚いている。
色把は哭士を見上げ、辛うじて首を縦に振る。未だに右足からは血が出ていたが、壁伝いによろよろと色把は立ち上がった。
先ほどの一連の出来事も然る事ながら、昼間あれほど拒絶した哭士が自分を助けに来たことが驚きだった。
色把は哭士の左腕を取り、自分の前に引き寄せる。急な色把の行動に身構え、一瞬腕に力がこもった哭士だが、腕の傷を見るための行動と分かり、腕を色把に任せた。
長袖の生地にも穴が開いている。いそいそと色把が腕を捲くってみると刺が刺さった数箇所の部分は痛々しく
『どうしよう……あんな物がいるなんて、知らなくて……』
自分を助けに来た者が怪我を負ったことに色把は後悔をしているようだった。。
「この程度ならすぐ治る」
色把の手から腕を外すと、哭士は捲くっていた袖を下げた。
「これで危険だということが分かったか。……祖母を待つんだろ。戻るぞ」
実際に影鬼に襲われ、自身に及ぶ危険は痛いほど分かっただろう。まずは安全な屋敷に戻そうと、哭士は色把に声をかけ先を行こうとする。
だが、色把は動かない。
背後で動かない色把の気配に哭士は思わずため息を付いた。
「お前、この期に及んでまだ……」
訝しげに振り返る哭士に、色把はゆるゆると首を振った。
色把の両の目から、ぽろぽろと涙が零れていた。哭士の言葉が止まる。
『ごめんなさい……ごめんなさい。私、本当は分かってました。お婆様がもうこの世に居ないんだって事……』
色把の言葉に、哭士は目を細めた。否定も肯定もしない。
『お昼、貴方の腕を掴んだ時です。良く分からないのだけど、沢山の映像が私の中になだれ込んできました。そして一番私の知りたかった事。……お婆様はもう居ないんだって事が、貴方と菊塵さんが話している場面が見えて分かりました。……本当の事だっていう事も何故か分かりました。……信じたくなかった。だから……』
自分の足で、目で、確かめようとしたのだろう。菊塵が言っていた、比良野家は巫女の家系という事。色把にもその血が流れている。人の心を読み取る力が僅かながらあるのだろう。
『……勝手な事して、ごめんなさい。貴方に怪我まで負わせてしまった……』
色把の両の手が顔を覆う。小さな嗚咽が哭士の耳に届く。
肩を震わせている色把の前に、暫くの間哭士は立ち尽くしていた。
暫しの間をおいて緩やかに、哭士の口が開いた。
「俺はお前の護衛を任された。先ほどの影からお前を護るように、とな」
自分でも驚くほど静かな声が出た。色把はその言葉に顔を上げ、頷く。
言葉の先の意味を汲み取ったのだろう、今度こそ大人しく屋敷の方へと足を進める。
「……ただ、護れと命令されただけだ。お前を連れ戻せとは言われてない」
今、選んだ選択肢は命令違反だ。だが、色把を目の前にしてまた妙な感情が湧き上がって来ていた。
今までの自分であれば絶対に言う言葉ではない。無理矢理にでも色把を連れ戻していたであろう。
命令を遂行するはずだった。護衛をする必要が無い安全な屋敷へ連れ戻すつもりで此処に来た。
だが、泣き笑いの表情を浮かべる色把に、これ以上哭士は何も言えなかった。
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