第8話「天井に海面を見る」
(・・・随分とぐっすり眠ったなぁ)
目覚めた時、秋穂はそう思った。
体を起こすとパキパキッと骨が鳴り体の強ばりが解けた感じがする。体がすっきりと軽くて頭もクリアーで爽やかな気分だ。
時計を見ると10時を回っている。
「うわぁ・・・ははは。よく寝た。 ーーーでも、短いのか・・・」
今までは12時過ぎや14時過ぎに起き出していた。時間だけ見るとむしろ短いように思えるが、1人酒で3時4時までぐだぐだ起きていた頃と比べたらしっかり熟睡できているに違いない。
しっかり熟睡出来た満足感がある。
クマをそっとベッドに残し起きあがった秋穂は、ぐっと腕を伸ばし体を上へ引き伸ばす。気持ちが良い。カーテンを開けて部屋に光りを取り込んで顔を洗う。
顔も体もすっきりとして何が食べたいかと体に問うてみる。直ぐには浮かばず先にお米を研いでセットしてから再び考える。鮭は残していたが魚ではない、卵という感じでもなかった。
缶詰などのストックを置いている場所を見てみるとポーク缶が1個ぽつんと残っていた。
「うん、ポークちゃんぷるーにしよう」
秋穂の好きなチューリップの絵が描かれたポークの缶詰、秋穂の母が沖縄にいる秋穂のいとこに頼んで送ってくれた物だ。アンテナショップでも買えると言っても聞かず、1人では食べられない量を送ってよこす。
なんだかんだ言いながら、やはり嬉しかった。
届く度に母に連絡し「
母の質問の数々を交わしてから七海に電話をかけて、こちらとも長話になるのは度々だった。近況報告から母の攻撃と秋穂がどう迎撃したか本当に長々と話した。
(・・・そう言えば、最近母さんから電話無いな)
失恋の沼にハマりすぎて母からの電話のことすら覚えていないのだろうか・・・と記憶をたぐる。いや、電話はかかってきていない。多分、間違いない。
母なら色々と聞いてきて、話したくないことも聞き出そうとするだろうから嫌な記憶として残っていてもおかしくない。
(速人の事を聞いてこないはずがない)
あっ・・・・・・。
思い当たることがひとつ。
速人に別れを告げられたその夜、七海に電話をした。確かに電話した記憶がある。そうだ、あの後から電話がかかってきていない。
(七海が母さんに言ったのかな・・・)
いや、彼女から別れた事を言わなくても母は何か感づくだろう。質問責めにして七海の口を割らせるということは考えられた。きっと七海なら秋穂の母に釘を打つ事を忘れない。
「おばさん、今はそっとしておいてあげて! 電話なんかしちゃだめだからね!」
七海ならそう言うだろうと秋穂は思った。
沖縄の方角に手を合わせて感謝の気持ちを送り、食事の支度を始める。
ピーマンとキャベツと人参を取り出して切りポークも切っていく。包丁の音が懐かしい。炒める音も何だか楽しかった。
料理はよくする方だが秋穂は料理が得意と言うほどではなく、好きというわけでもなかった。ただ、気分転換に良い気がしたし、自分の好きな材料だけの料理を好きな味付けで食べられる所が良かった。
(何でポーク? なんて突っ込まれたら気分落ちるんだよね)
子供の頃からの馴染んだ味に「どうして」とか「変だよ」なんて言われたくない。
秋穂の母の作る卵焼きには塩が入っている。沖縄ではほとんどの家庭で塩入の卵焼きが出てくる。卵に砂糖を入れるか塩を入れるか論議なんてしたくない。秋穂はどちらが正しいなんて無いと思っている。
子供の頃から馴染んだ味がその人にとって美味しいならそれでいいと思うのだ。
ポークちゃんぷるーを頬張ってごはんも味わって、美味しかった。
「んーーっ、美味しいぃ・・・」
自然と笑顔になっていた。
「クマ君! 美味しいよぉー」
ベッドからクマを引きずってきてテーブルの向かいの椅子に座らせる。
「食べさせてあげられないけど、食事に付き合ってね」
真っ直ぐ見つめるクマに声をかけながらまた一口頬張る。時々クマと目を合わせながらモグモグと食べた。クマが笑っているように思える。
食べる事が楽しく美味しいと思って味わうことが出来て嬉しかった。
「だいぶ人間らしくなってきた」
クマに笑いかけると笑い返してくれる気がする。
食べて満腹になって満ち足りた気分に浸りながら珈琲を口にした。頭の隅々まで
すっきりと覚醒する感覚が脳内を駆け巡る感じを秋穂は堪能して幸せに思った。
ゆっくりじっくり香りを楽しんで明るい隣の部屋へ目を向けた。光に当たってきらきらとした浮遊物が見える。それは多分埃だ。
酒浸りの日々でも洗濯はしていたし掃除もしていた。しかし、隅々まで丁寧には掃除機をかけていなかったように思う。心此処にあらずでただ掃除機を前後させても隅に集まって溜まっているのかもしれない。
「よしっ、掃除しよう」
秋穂は立ち上がってクマに声をかける。
掃除は上から下へ。
大掃除までではないけれど目立つ所から手を着けて軽く整理整頓して掃除機をかける。掃除機は丹念に隅の隅までかけた。
「あぁーーーっ、終わったぁ」
窓を全開にして大の字に横たわって終了宣言。時計を見ると4時半を回っていた。
綺麗になった部屋を風が吹き抜けていく。外から見られないようにと引いたままのレースのカーテンが、見上げる秋穂の顔の前をひらひらと揺れる。
(海岸の波を見てるみたい・・・)
寄せては返す波のように風に
「・・・・・・あ」
傾いた日差しを外の何かが反射させて天井にレースの影が映っていた。それはまるで海面の様に揺らめいて思わず秋穂の目尻から一筋の涙がこぼれた。
「何か・・・綺麗・・・」
部屋全体が明るい。
レースの波が寄せては返し、レースの引いた後に見える天井を見上げ揺れる海面をしばらく見ていた。素潜りして見上げた海面を思い出す。沖縄の澄んだ青い海・・・。
クマにも見せようと椅子から引きずって来て気付く。クマも汚れていた。
「汚ッ・・・」
それはそうだ、道に捨てられているのを拾ってきたのだ。明るい所で見ると随分と汚れている。それに気付かず抱きしめて泣きついていた自分に驚く。
よく見てみれ片耳の付け根が破け綿が見えているし、わき腹からも綿が顔を出していた。
耳と脇を縫い止めてクマの全身を除菌ティッシュで拭きまくり、除菌消臭スプレーをたっぷりかけてベランダへ引きずり出した。
「はぁーーー・・・」
ベランダの床に置くと汚れそうで椅子を一脚出してクマを乗せる。たっぷり消臭スプレーをかけられたクマは少し重くなっていた。
風が心地良い。
だいぶ傾いた太陽が道向かいのアパートの窓ガラスからこちらを見ている。
「おっ! 熊、やっぱり拾ってくれてたんですね!」
突然間近から男の人の声が聞こえて秋穂はぎょっとした。
左隣のベランダに男の人が立っていた。秋穂は混乱してしばし固まる。
(え? 隣は・・・確か女の人のはず。彼氏?)
「良かったぁ、帰るまでそのままだったら僕が持って帰ろうと思ってたんですよ。やっぱり浅川さんが持って帰ってたんだ」
「???」
何を言っているのだろう。
(やっぱりって何? 名前まで知ってるなんて・・・いや、隣人の知り合いなら知っていてもおかしくないけど・・・)
「おつまみの袋落としてたから浅川さんかなぁって思ってたんですけど、そうですか。良かった」
(おつまみ・・・?)
「あっ!」
男の人を指さす秋穂。
「コンビニの!」
「僕の入れたスッパイイマンが入ってたから浅川さんのだってすぐ分かって、帰りがけにドアノブにかけときました」
無くしたおつまみ入り袋の謎が解けた。
いつも出会う所でなら気付いても隣のベランダで私服だと気付かないものだな・・・と、秋穂はまじまじと彼を眺めた後、思い出してお礼を言う。
「・・・あ、有り難うございます」
「浅川さん僕のこと覚えてないですよね」
「いえ、コンビニではお世話になってます・・・」
秋穂が最近存在を確認した相手が隣のベランダにいる。しかも相手は結構前からこちらを認識していたに違いない。ただのお客さんと言うだけではなくお隣さんとしても・・・。そう思うと凄く居心地が悪かった。
「コンビニ・・・って言うより、引っ越して来て挨拶したの・・・覚えてます?」
(引っ越し!? お隣さんは同棲を始めていたのか!)
秋穂が停滞していた間に世間は結構変化していた事に驚く。
「改めて・・・、
差し出された手に慌てて秋穂も手を差し出す。秋穂は愛想笑いと苦笑いの混ざった笑顔を返すしかなかった。
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