空似は方向音痴だ

 男性教師は算数の教科書を片手に、窓から差し込む夏の日差しに目を細める。


「いい天気ね、今日も」


 地球十個分の広さのある長い廊下を進もうとすると、保護者であろう男がひとり行き止まりの廊下で左右に顔をやっている姿を見つけた。


「何やってんの? あいつ」


 最低限の筋肉しかついていないすらっとした体躯で、銀の髪が人目を引く。しばらくあたりを見渡していたが、教師に向かってくるように廊下を足早に歩き出した。視線が合うわけでもないどころか、気づいていないようだった。


「また戻ってきて……。声かけちゃう?」


 算数教師の男は、校内に入り込んでいる男に的確な言葉を投げかけた。


森羅万象むげん 焉貴これたかと申します。失礼ですが、どなたのお父さんでいらっしゃいますか?」

「明智 隆醒りゅうせいの父、れんと申します」


 呼び止められた父は、革靴を履く足のかかとをそろえて、深々と丁寧に頭を下げた。焉貴は頭をゆっくりと上げる蓮を見て、生まれて初めての体験をした。


(世の中こんなに似てるやつっているんだね。他人の空似ってやつ。運命感じるね)


 髪の色と形、そうして、瞳の色は違う。背丈は若干焉貴のほうが大きかったが、鏡に映したみたいにそっくりだった。


 滅多に驚かない蓮も、山吹色のボブ髪と黄緑色の瞳を見つけて、思わず息を飲んだ。


「っ!」


 スラッと背の高い保護者と教師は、小学校の廊下でじっと見つめ合う。


(なぜこんなに似ている? どうなっている?)

(驚いてるみたい)


 蓮は当然だが、焉貴の面影は陛下に似ているというもっぱらの噂だった。姫ノ館に初めて赴任した時に、父兄がざわついていたのも無理がないほどだ。


 さわやかな夏風が窓から入り込み、ふたりの髪をそれぞれ揺らす。蓮の綺麗な手に握られた紙がパサパサと音を立てた。


「息子さんの教室でしたら、突き当たりを左ですよ」

「?」


 まるで以心伝心みたいな焉貴の前で、蓮がぎこちなく首を傾げると、銀の長い前髪がサラサラと落ちて、鋭利なスミレ色の瞳が両方現れた。


 焉貴は気にせず、戦車で引っ張ってゆくように話を続ける。


「入学後初めての学校への訪問ですよね?」

「なぜ……?」


 宝石のように異様に輝く黄緑の瞳が、蓮の手元に向けられた。


「手に訪問の紙を持っています。教室の場所がわからないみたいでしたから、そうかと思いまして……」

「お気遣い、ありがとうございます」


 蓮がきちんと礼儀正しく頭を下げると、焉貴の砕けた服装も同じように頭を下げた。


「いいえ、こちらこそ」


 忘れることが起きない焉貴の頭脳の中には、子供たちの名前とクラス名が生徒数を何兆を越すのに、きちんと記録されていた。


 蓮は行き止まりまで歩いて行き、左に曲がると、もう姿を現すことはなかった。


    *


 それから、数ヶ月後――。


 銀の長い髪を持つ蓮は、小学校の同じ廊下をまたうろうろとしていた。算数の教科書を小脇に抱えた焉貴が、廊下に佇んで様子をうかがう。


「また? 今度どこ行く気?」


 数ヶ月前と同じように、廊下の行き止まりで左右を見渡していたが、しばらくすると、焉貴が立っている廊下を進み出した。


「戻ってきた。こっち玄関……」


 用がないのに子供が心配で来るような、親バカな人物ではなく、また手に紙を持っているのを、焉貴は見つけた。


「失礼ですけど、今日はどのお子さんの訪問ですか?」


 イライラしているようで、声をかけられて、蓮は焉貴に初めて気づいた。立ち止まり、丁寧に頭を下げて、


「先日はありがとうございました。今日は、百叡びゃくえいです」


 臨月を迎えるのは翌日。早ければ、一人入学したら、翌日また別の子が入学するなんてことは起こり得ることだった。


 新入生のデータを追加してゆくだけですむ焉貴の頭脳から、明智 百叡のクラスを割り出した。


「息子さんの教室でしたら、突き当たりを右ですよ」

「ありがとうございます」


 蓮は頭を下げると、また行き止まりまで歩いて行き、右へ曲がったっきり、姿を表さなかった。


 無事に教室のドアを開け、中にいた同僚の月主命るなすのみことのマゼンダ色の髪が小さく揺れているのを見届けて、焉貴は自分が立っている長い廊下の両端を左右に眺める。


「あいつさ、ってやつ? 正面玄関からまっすぐ入って、突き当たりに教室並んでんだけど……。どうやったら、迷うわけ?」


 全てを記憶する頭脳の持ち主――焉貴にとっては不思議なことだった。途中に曲がる廊下もなく、一本道なのに迷っている。おそらく、帰り道は子供に正しい廊下を教えられているのかもしれない。


 それが返って、三百億年生きてきた男には新鮮だった。ナルシスト的に微笑んで、日の短い冬空を見上げる。


「面白いじゃん、あいつ」


 窓に近寄って鍵を開ける。寒さいっぱいの風にボブ髪を揺らしながら、サッシに両腕を預けて、斜めに寄り掛かった。


「いいね、あいつと友達になりたいね」


 教科書はさっさと瞬間移動をして、職員室へ戻してしまった。奥さんが向かいの渡り廊下を生徒たちに囲まれながら歩いてゆく。それに軽く手を振ると、生徒たちが可愛く応えた。


 三十分もせずに、蓮は百叡を連れて一緒に突き当たりの廊下へやってきて、真っ直ぐそのまま通り過ぎようとした。百叡に腕を引っ張られて、正面玄関へと続く廊下と訂正され、歩いてくる。焉貴へ向かって。


 すっかり冷えてしまった窓を閉めて、蓮と百叡が通り過ぎようとすると、焉貴は振り返って声をかけた。


「明智さん?」

「はい?」


 百叡のくりっとした瞳が、不思議そうにパチパチとまばたきされた。銀髪不機嫌王子に、舞踏会でダンスを申し込むように片膝をつくように、焉貴はナルシスト的に微笑む。


「お時間よろしかったら、今度フルーツのおいしい店に行きませんか? 見た目が似ているのも何かの縁かと思いまして、いかかでしょうか?」

「…………」


 蓮は微動だにせず、鋭利なスミレ色の瞳は焉貴を凝視したままだった。


 百叡は先生の話はよくわかったが、パパの反応がいまいちピンと来なかった。さっきより激しく瞬きをする。


 焉貴は蓮を上から下までまじまじと見た。


「何それ? 返事もないし、リアクションもない。俺わかんないんだけど……」

「ふんっ!」


 蓮は腰のあたりで両腕を組み、焉貴から顔を背けた。百叡にはパパが何をしているのかわからなかったが、先生はまるで運命みたいによく意思が伝わっていた。


「『わかった』って言葉言いたくないってこと?」

「…………」


 蓮の鋭利なスミレ色の瞳は落ち着きなくあちこち向けられて、気まずそうに咳払いをした。


「んんっ! いい」

「そう」


 ナルシスト的な笑みはデジタルに消え失せ、無機質な返事がマダラ模様の声で待った。それに似ているように、奥行きがある低めの声は人間の最低限の発音で返した。


「ん」


 間に立っていた百叡の顔が見る見る笑顔になってゆく。パパと先生が友達になったのだと思って。


    *


 その週の学校が休みの日。いつか孔明を高級ホテル前から拉致した、中心街にあるフルーツパーラーへ、焉貴と蓮はプライベートでやって来ていた。


「ここって来る?」

「いや」

「そう」


 マスカット大盛りの皿から、翡翠色の実を一粒つまみ上げて、焉貴はポンと口の中へ入れた。


 湯気が上がるティーカップをスプーンでかき混ぜ終えた蓮は、顔は似ているが性格の違う男を鋭利なスミレ色の瞳で捉えた。


「なぜ、誘った?」

「俺さ、遠くの宇宙から来てて、友達探してんの。だから、お前と友達したくてさ、声かけた」

「ふーん」


 一口飲んで、ソーサーへ戻すと砂糖をまた入れて、蓮はコーヒーをかき混ぜた。ロンググラスに入った氷をストローで、焉貴はカラカラと鳴らす。


「お前は何でついてきたの?」

「俺が何をしようと俺の勝手だ。お前には関係ない」


 そっぽを向く蓮の前で、無機質な焉貴は怒るでもなく、残念がるでもなく、「そう」とただ短くうなづいて、


「っていうか、お前そういうやつなのね。ひねくれてる。まぁ、ある意味、自分に正直ってことね」

「なぜ、そんなことを言う?」


 焉貴はつまんでいたマスカットを、斜め上に持ち上げるように見せつけた。


「そうじゃん? 俺とお前が話してから、お礼を言ったのは二回。道に迷ってるのに誰にも聞かないのは、ひねくれてるでしょ?」

「なぜだ?」


 砂糖の袋をまた開けて、蓮はカップの中へ注ぎ込む。焉貴は飲み物を飲んで、理論派であると証明するように話し出した。


「聞くのが一番早いじゃん。教師そこらへんに歩いてるんだからさ。それをしないのって、お前が意地張ってんでしょ? 自分で見つけてやるとかなんとか、そんな気持ちで」

「なぜわかる?」


 目の前にいる男は超能力でも使っているように、言い当ててくるのだった。しかし、全てを記憶する焉貴の異名は策士なのである。


「そう聞いちゃうと、認めたと一緒。だから、お前は自分に正直」


 蓮は手のひらでバンとテーブルを不機嫌に叩く。


「そんなことはいいから、理由をきちんと答えろ」


 と言ったのに、焉貴は無意識の直感――策略で平然と違う話へ持っていった。


「お前いくつ?」

「二十三だ」


 答えてしまった蓮は気づいていなかった。目の前にいる男は、あのマゼンダ色の長い髪を持つ、女性をプロポーズへと次々と導いた過去のある男と、ある意味同じくらい危険だと。


 右の道へ行こうとしていたのに、気づいたら左へ進んでいる焉貴は、自分が策を張ったことなどに気づいても、いつもの無機質で何事もなかったように物事は進んでゆく。


「そう。実際の年齢、それ? 二十三の言動じゃないよね?」

「三年しか生きていない」


 蓮の言葉はこれだけだったのに、焉貴はこう導き出した。


「そう。陛下から分身したってことね?」

「なぜわかる?」

「陛下に似てる。三年しか生きてない。突然子供は大きくならない。だから、分身したしかないでしょ?」

「…………」


 蓮の綺麗な唇は動かないままだった。理論で考えれば、もう答えは出ていたのだ。学校には、霊界から上がってきた子供がどこかの家の養子となって、入学してくることもよくあることだ。


 そんな子供たちのもっぱらの噂は、霊界から神界へ上がる時に、目の前にいる男の義理の父親――明智本家に養子に入るのがブームなのだそうだ。


 有名な家であるのは確かで、焉貴は必要な記憶を脳裏の浅い部分に引き上げた。


「義理の父親も分身してたよね?」

「そうだ」

「生みの親は同じで、今は親子。そういうことね?」


 不思議な関係が成り立っていた。しかし、蓮は別のことが気になり、唇に指を当ててつぶやく。


「同じ……?」


 生み出された日以来会っていない陛下を思い出す。そうして、おまけの倫礼が持っている過去の記憶と並べてみた。


すめら様の姉妹から生まれたのが、光命ひかりのみこと夕霧命ゆうぎりのみことだ。ふたりは従兄弟だ。誕生日もほとんど変わらない。そうなると、夕霧命も光命と同じ。そういうことになる……)


 おおやけになっている話でもなく、おまけの倫礼が記憶しているだけ。トップシークレットのようなもので、蓮のスミレ色の瞳は焦点がいつまでも合わなかった。


「何、どうしたの?」


 焉貴のマダラ模様の声が割って入ってきた。蓮は唇から指を離して、何も答えず聞き返した。


「お前はいくつだ?」

「俺はお前の数百億倍生きてる」

「嘘をつくな」


 蓮の可愛らしい顔が険しくなった。焉貴はまったく動じずに、ナンパで軽薄的に否定する。


「嘘じゃないよ。三百億歳超してるからね。それに、無意識の直感もある。だから、ピンと来ちゃったわけ。何か運命的なものがあるのかもね、お前と俺」

「運命? お前、独身か?」


 ジャケットとタンクトップという身軽な先生に問うてみた。


「奥さんと子供三人いるけど? お前は?」

「俺は妻と子供が四人だ」

「そう」

「ん……。六人家族――いや、六点一人だ……」


 おかしな言い直しをするものだと思って、焉貴は食べていた手を止めた。


「何それ? ゼロ点一って、どんな人の数え方?」

「地球という場所に、妻の魂の波動を受けた人間がいる。だから、点一人だ」


 守護神である蓮としては、大きく譲って、この数え方で十分だと満足していた。また一粒マスカットを口の中へ入れて、「そう」と、焉貴は無機質にうなずき、


「そんな存在ってよくあんの?」

「いや、あれ一人だ」


 蓮はコーヒーを飲んだが、また砂糖の袋を開けて、さーっと琥珀色に水面みなもに流し込むと、スプーンでくるくると混ぜた。


「いつか会わせてくんない? その女と」

「地球へは守護の資格がないといけない。それは俺の一存ではどうすることもできない」


 自分は陛下の命令で、例外的におまけの倫礼のそばにいけたが、結局のところ、本人に言われて、筋が通っていないと思い、今は晴れて胸を張って守護神だと言い切れた。


 存在を知らない人もいるが、知っている人は知っている仕事。守護神の募集というものもいつもかかっていて、焉貴も当然記憶していた。


「守護の資格って、地球で生きてたことがあるか、同等の経験をしたことがあるかだよね?」

「そうだ」


 遠くの宇宙から、宇宙船を一週間も乗り続けてやってきた、破天荒教師は長く生きているだけあって、経験は豊富だった。


「それなら、俺あるよ。むか〜し、やったことある。地球じゃないけどさ」

「…………」


 蓮は無言のまま考える。おまけの倫礼が見えるのか。どういう反応をするのか。神界育ちみたいなこの男と価値観があうのか。


 焉貴はテーブルに肘をついて、気だるく山吹色のボブ髪を両手でかき上げた。


「今すぐじゃなくていいよ。会ってみたいんだよね、ってものを持ってる人間にさ」


 このフルーツパーラーで、同じ席に座っていた漆黒の長い髪を持ち、聡明な瑠璃紺色の瞳で頭の良さ全開で話してくる男を思い出す。


(孔明を理解したいんだよね)


 違反していれば、途中で止められるだろう。焉貴にとっても、おまけの倫礼にとってもいい影響がなければ、それも同様の措置が取られる。


 そうやって、地球は邪神界の影響が未だにある場所として、隔離されていると言っても過言ではなかった。


「ん」


 蓮は短くうなずき、コーヒーにさらに砂糖を入れた。さっきから見ていた焉貴は、ジュースのストローをつまみながら、今日初めて一緒に過ごす男を観察していた。


「お前、甘党なの?」

「苦いのが得じゃないだけだ」


 ひねくれ蓮は言い方までがねじれていて、焉貴はカラになった砂糖の袋を拾い集めてゆくと、二十個を超していた。


「コーヒーじゃないでしょ? これ。砂糖こんなに入れちゃってさ」


 砂糖水と呼んだほうがいいと、焉貴は思った。テーブルの上に乗っている砂糖スティックの入れ物はとうの昔にカラになっているのに、次々に蓮の手元には砂糖が現れてくるのだった。


「それに、お前、砂糖どっから持ってきたの?」

「わからない」


 理論的に成り立たない。それでも、この世界ではひとつだけ、ない物を持ってくることができる方法があった。


 他人の空似の男は、銀の長い前髪をサラサラと揺らして、鋭利なスミレ色の瞳を持っているが、焉貴はもうひとつの正体を口にした。


使、いるんだね?」

「魔法?」


 テレビ番組で子供がよく見て騒いでいるもので、実在するはずがないと、蓮は思った。マスカットをつまんだ指先を、焉貴は斜め上へ持ち上げる。


「だってそうじゃん? 自分のもの以外は、どこにあるかを知らないと、瞬間移動がかけらんない。動かしたいものとの距離が測れないからさ。店の砂糖のストックがどこにあるか、お前知ってんの?」

「いや」

「それなのに、お前、砂糖ここに出してるじゃん。それって、魔法だよね?」


 理論的に説明されて、蓮は空いている砂糖の紙袋をつまんではじっと見つめて、つまんではじっと見つめてを繰り返す。


「…………」


 その言動から、焉貴は蓮の心を読み切った。


「魔法が使えるって今知ったってことね」

「…………」


 超不機嫌顔だった蓮は口の端を上へ持ち上げて、にっこり微笑んだ。子供が新しいことをできるようになったようにとても喜んだ、無邪気な笑みだった。


 自分に正直だと思いながら、焉貴はストローでカラカラと氷をかき混ぜる。鋭利なスミレ色の瞳にはさっきから、不可解な行動が映っていた。


「なぜフルーツを頼んだ上に、フルーツジュースを飲む?」


 しかも、どっちもマスカット。どれだけマスカットを食べる気だと、蓮は言いたかったが、焉貴が当たり前というように言った。


「俺、フルーツしか基本口にしないの〜」


 ケーキにハチミツをかけたみたいな甘さダラダラの口調を前にして、蓮は真顔に戻って少しだけ吹き出した。


「ぷっ!」

「何?」


 のどに詰まらせるなど、そんな現象は起きない神界。焉貴はマスカットをつまんだまま聞き返した。それに答えず、蓮の表情が歪む。


「ぷぷぷ……!」

「笑ってんの?」

「あははははっ!」


 フルーツパーラーにいた他の客たちが、一斉にこっちへ顔を向けた。蓮にとってはそんなことはどうでもよくて、口を大きく開けて、子供がはしゃぐみたいに高らかに笑う。


「どこがおかしかったの?」


 焉貴は生まれてこの方、笑ったことがない。微笑むことはあっても、笑い声を上げたことがない。


 蓮の綺麗な指先は、焉貴の前にあるフルーツの皿とグラスを交互に指すが、


「フルーツとフルーツが……! あははははっ!」


 まったく話になっていなかった。


「お前、それ言葉になってないんだけど……」

「あははははっ!」


 笑い声が止む気配はなく、焉貴は無機質な表情で、事実をそのまま口にした。


「ツボにはまってるってやつね」


 しばらく、フルーツパーラーに蓮の笑い声が響いていたが、何とか平常に戻ってきた、三歳なのに二十三歳の妻子持ちは、数学教師にこんな言葉を送った。


「他の誰といるよりも、お前といると楽しい。こんなことは初めてだ」

「そう」


 焉貴は思う。目の前にいる男は、自身の言っている意味を理解しているのか。それとも正直にただ伝えただけなのか。どっちなのだろうかと。


    *


 また新しい春が来て、蓮は訪問のプリント用紙を持って、正面玄関から真正面にある突き当たりの廊下で見渡していた。


「明智さん、教室は右ですよ」


 マダラ模様の声ではなく、凛とした澄んだ女性的だが男性の響きが左隣から聞こえた。マゼンダ色の長い髪とニコニコの笑みを見つけて、蓮はその人の名前を口にしようとしたが、


「月主命せんせ――!」

「どうかしたんですか?」


 頭の上に緑色のものが乗っているのを見つけてしまった。


「…………」


 鋭利なスミレ色の瞳に、大きなくりっとした目がふたつ映っている。月主命が首を傾げると、マゼンダ色の長い髪が肩からサラッと落ちた。


「明智さん?」

「ぷっ!」


 立ち止まったまま、綺麗な唇からは音が吹き出されて、月主命のヴァイオレットの瞳は珍しくまぶたから姿を現した。


「ぷ……?」

「あははははっ!」


 廊下を歩いていた小学生たちが不思議そうな顔で立ち止まって、蓮と月主命先生を見つめ始めた。


「おや〜? 何がおかしいんですか〜?」

「あははははっ!」


 月主命はこめかみに人差し指を突き立てて、珍しく表情を曇らせる。


「困りましたね〜。ツボにはまってしまったみたいで、笑いが止まらない――」

「カエル……」


 頭の上に乗っているものの正体を、蓮は口にした。


「止まりました」

「なぜ、それを被っていらっしゃるんですか?」


 カエルのかぶり物をしている教師に向かって、保護者は質問をした。月主命は女性的な含み笑いをする。


「うふふふっ。子供が笑ってくれたら、私は幸せなんです」

「お疲れ様です」


 蓮は両足をそろえて、きちんと仕事をしている教師にねぎらいの気持ちを持って、礼儀正しく頭を下げた。


 子供と同じように笑う大人がいる。いや男がいる。月主命は心が温かくなり、あの鋭いアッシュグレーの瞳を持つ男が言ってきたように、鋭利なスミレ色の瞳をした男を誘ってみた。


「もしよかったら、と一緒に放課後お茶を飲みに行きませんか?」

「構わない」


 超不機嫌はどこかへ消え去っていて、蓮は自分の口調が変わっていることにも気づかなかった。全てを記憶している月主命は、ヴァイオレットの瞳をまぶたの裏に隠す。


は感性の人みたいです〜」

「??」


 どこからそんな話が出てきたのかと、蓮は思ったが、月主命は不気味に含み笑いをするだけで、決して教えてくれようとはしなかった。


「うふふふっ」


 その後、蓮は時々、ふたりの教師と個人的に別々に会っては、お茶をするという日々を過ごしていった。


    *


 平和で幸せな我が家で、パジャマに着替えて、蓮はソファーで焉貴と月主命とのやり取りを思い出しては、思わず吹き出してしまうのだった。


「な〜に〜? 一人で笑って〜。何かいいことでも学校であった?」


 寝そべって、雑誌を読んでいた妻――倫礼の声が急に割って入って、蓮は不機嫌な顔に戻った。


「お前には関係ない」

「あら、そう」

「先に寝る」


 蓮はリビングのドアを開けるのではなく、その場から瞬間移動で子供達が眠る寝室へと行ってしまった。


 夫はある意味わかりやすい性格で、妻は姿を消した場所をじっと見つめた。


「何だか変なのよね? 学校に蓮が行くようになってから、嬉しそうな顔して家に戻ってくるの。子供たちに聞いても、先生と楽しく話してたって――!」


 そこで、衝撃的な事実を、妻はひらめいてしまった。


「まさか、そういうこと? 思い出してみると、最初に焉貴先生と月主先生に会った時からよね? ってことは、……。そういうことになるわね」


 めくっていたページをパラパラと力なく落として、足をパタパタさせる。


「でも変ね? 蓮は誠実だから、きちんと責任取ろうとするわよね? 私に隠したりもしない。それに、先生たちも結婚してるものね? 結婚してるのに、結婚するなんて……! 二重に結婚する? 何か引っかかるわね?」


 小さな違和感。結婚生活は順調で、地球にいる人間の女も順調で、幸せに囲まれた日々。


 あえていうなら、自分たちの仕事がまだ決まっていないことぐらい。しかしそれも、地上ほどの焦りは必要ない。物々交換で物流は成り立っている。働かなくても生きていけるような世の中だ。


 ただ、誰かの役に立ったという、本当の幸せが自分にやって来ることはあまりない。だからこそ、妻と夫は自身を生かせる仕事を探し続けるのだった。

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