ナイフの向こうに憎しみがある
修正が不可能になってしまった、家族の末路を歩いんでいこうとする。記憶が消え去る――正気を失う前に、江は正常な自分を必死で探し出す。
(コウが前に言ってた。人を脅すのは一番してはいけないことだって。人の心を物のように扱って、それを自覚しながら、自分の思い通りに動かそうとすることだから)
水色をした辞書のような本の表紙に彫られたような白い十字――聖書がすぐそばに置いてあった。
(
鋭い銀色をした刃先は未だに家族に向けられたままで、まわりが何を言おうと、彼女の心にはどんな言葉も届かなかった。
(その時、私は心の底から人を脅すことはいけないと納得した。決してしないと思った。それなのに、今自分は人に刃物を向けて、私を排除しようとする家族を、強制的に言うことを聞かせようとしてる)
彼女はまだおかしいと気づけなかった。褒められることなど一度もなく育った家庭の中で受けた、言葉の暴力は彼女の心を深く
(それを守れないほど、自分はやっぱり弱い人間だったんだ。それなら、誰からも見捨てられて当然だ。生きる価値もない。自分はこの世界にいらない)
泣きたいはずなのに、頭にくるという言葉通り、怒りは頭に登っていて、熱い頬のまま誰かが自分の体を使って怒鳴り散らしている――。まるで映画でも見ているような感覚だった。
(だから、やっぱり死んでしまおう。それがいい。誰かを傷つける前に死んでしまおう)
底無し沼の水面から顔を出しては息を吸って、また沈んでいき、もがき苦しんではい上がって、もう一度引き金になった出来事を最初から思い出した。
それは三日前の午後――
夏の暑い日。クーラーをかけながら、田舎の真っ直ぐな国道を、落ち着きのなさ全開で、江は縫うように車で走っていた。
「ん〜、やっぱりいいね。映画観て、買い物するなんて」
お気に入りの曲を聞きながら、小さな弟たちと、見えないながらも助手席に座っている緑とともに、ご機嫌だった。
「外国産のお菓子とチーズとか買っちゃった」
大きなトラックの後ろで停車して、信号が青になるのを待つ。
「ふふ〜ん♪」
動き出したと思ったが、ブレーキを踏み完全に停車した時、
「おっと、すぐに止まっちゃ――っ!」
急発進する音が背後から聞こえ、
キキーッッッ!!!!
ガシャーンッッ!!!!
背後から後続車に激突されたのだった。滅多に悲鳴など上げない彼女だったが、思わず黄色い声を出し、
「きゃあっ!」
助手席に座っているだろう、我が夫――いや守護する神に意見を求めた。
「え……? 緑さん、これで合ってますか?」
彼女はまだ甘かった。自分の愛する夫が神であっても、他の人と何ら関係なく平等に扱われていると気づいていなかった。緑の優しげな声が心の中で響く。
「えぇ、合っていますよ」
帝国の人間である以上、陛下の命令は絶対。守護神はどんなに数を少なく見積もっても、人間の数以上いる。つまりは江一人のために地球は回っていないのだ。
しかも、未来の見える神である緑の心の中は、冷静さだけを持ち合わせる彼らしく、かなりシビアだった。
(たくさんの人々のために、あなたにはこちらで強制的に動いていただきます)
広い世界で見れば、神の上にも神はいるが永遠に続いている。ということは、緑も大きな運命の歯車のひとつに取り込まれているのだ。
陛下はマキャヴェリズム。人間一人の幸せのために、多くの人を犠牲にすることはしないのだ。それは裏を返せば、たくさんの人の幸せのために、人間一人は組み込まれる――言い方は決して良くないが、利用されるのだ。
しかしそれでも、彼女の心はとても澄んでいた。
(神の手足となれたことを、感謝いたします)
それから数時間後、江はいつもと違った視界の高い車の助手席に揺られていた。
(結局、車は走れる状態ではなく、レッカー車で運んでもらって、代車で家に帰る)
暮れてゆく西の空を眺めながら、背骨がずれているところが治ったのは喜ばしかったが、体の違和感は他にも当然あった。ブレーキとアクセルを踏み間違った車が後ろからぶつかってきたのだから。
(これは首をやられてるな。追突されると、おかしくなるって言うもんね。止まってるところに突っ込まれたから、ゼロ十。こっちの保険会社は動かない。かかる費用は向こうが全て持つ。後遺症が出たら大変だから、病院に行こう)
翌日、乗り慣れない代車でウロウロとしていた。東京に上京した時から十年以上も経って、国道の位置がずれたお陰で、町並みが変わってしまった実家周辺。
暑さに弱い彼女だったが、何とか病院を見つけ、診察を終えて大きくため息をついた。
(リハビリだって。向こうの保険会社と交渉しないと……)
結婚している間は、配偶者が何でも手を先に出してやってしまう、父と娘みたいな関係だった。それが原因で、江は何もできない大人になってしまった。
(勝手に出かけて事故に巻き込まれたんだろうって、家族に言われて、誰も手伝ってはくれない。まぁ、それを頼りにするのも
それでも、彼女は何とか前向きに、新しいことを覚えられる機会に恵まれたと納得することにした。
そうして、翌日の事件当日。全てのことが一気に重なった。今までのすれ違いの日々で生まれた憎しみと恨み。事故の怪我。治すためにリハビリに通う当面の未来。
手一杯のところに、江は遊んでいないで、裏手にある空き家の掃除をしろと、父親に怒鳴りつけられたのだ。
三十四年あまりの怒りが爆発し、修羅場を迎えた。彼女は至って、今まで大人しく、理不尽なことも、納得できないことも、黙って言うことを聞いてきた。反抗期もない、いわゆるできた子供だった。
しかし、それが自分の心を歪めている原因となるのなら、いやそれを解消するために、実家に戻ってきたのだ。それがなければ、彼女はどこかで一人で暮らしていたのだ。
目的を果たすために、今の彼女なりの方法で挑む。初めての出来事で、心臓がバクバクと大きく脈を打つが、江は遅い反抗期になり、怒鳴り散らした。
「私は小さい頃からいつも思ってた! 世間体などどうでもいい! 大切なのは心だ! ただ言わなかっただけ。だから、あなたたちとは価値観が違う!」
両親は唖然としていた。彼らにしてみれば驚くだろう。自分と同じだと信じて疑わなかった娘が、いきなり違うと言い出したのだから。
「一人きりだといつも思ってた! 自分は誰からも必要とされてない! 毎日、死ぬことばかり考えてた!」
しかし、両親は弱かった。自分と価値観の違うものは、こうやって排除しようとするのだ。
「だったら死ねばいいだろう――!」
父親の暴言に、何度も自分の中で再生されていた暴力を実行してしまった。江は右腕を大きく振りかぶって、
「っ!」
顔面にパンチをした。それを見ていた母親が目を吊り上げてヒステリックに叫ぶ。
「悪魔だ! 悪魔みたいな顔してる!」
江の怒りはぐつぐつと煮えたぎった。
「心を無視するやつに、言う権利などない!」
母親の両腕を両手で強くつかんで何度も揺すぶり、壁に向かって突き飛ばした。
そのあとのことは、もう覚えていない。江はただひとつ学びを得た。
――暴力を振るっても、人は自分を理解しない。
暴力を振るっても、人は自分の話を聞かない。
聞く耳を持たない人に話しても、時間と労力の無駄。
だから、二度と暴力は振るわない。
憎しみと恨みは今も消えないけど、とりあえずそれは置いておこう。
――この事件について、家族に罪を問われた。母親の腕にはあざができていたと聞かされたが、人ごとのように思えた。
それは憎しみから生まれる、仕返しをしたと言う気持ちから来るものではなく、まったく違うことのような気もしたが、彼女に答えは見つけ出せなかった。
*
そうして、家族は江を腫れ物を扱うようにして、裏手にある空き家に一人で住むことにさせた。
しばらく誰も住んでいないため、家の中でも靴でないと歩けないほどだった。しかし、江は緑と楽しそうに会話をしながら、一人で二階建ての家を全て片付け、荷物を運び入れた。
好きなワインと外国産のチーズを囲んで、小さな弟や妹たちと一緒に、一人暮らしに乾杯と洒落込んだが、
「よう! 修羅場を経験した、お前に朗報だ」
赤と青のくりっとした瞳が、ブルーチーズをかじっていた江が振り返ったそこにあった。
「何?」
彼女の態度は可愛らしいものではなく、気品高く堂々としたものになっていた。
「また
四度目の魂変更、澄藍再び――。
さっきまでだったら、飛び上がって喜びそうな雰囲気だったのに、携帯電話を手で拾い上げ、着信履歴をたどる。
感情はさておき、冷静な頭脳が的確に動き出す。喧嘩をして別れていないものだから、彼女のクルミ色の瞳に映るのは、元旦那からの着信ばかりだった。
「あぁ、そうか。じゃあ、配偶者の元へ戻らないといけないね」
澄藍が神界で結婚しているのが、元旦那なのだ。それが娘の江になったから、魂を大切にしている彼女は、父と娘が結婚しているのはおかしいと納得して離婚したのだ。
神様が何を考えているのかはわからないが、妻になったのなら、離れて生きているのはおかしいことと、澄藍にはなるのだった。
人間の女を前にして、コウは素知らぬふりでうなずく。
「そうかもしれないな。そこは、お前で考えろ」
守護をする神様はいても、選択肢を決めるのはあくまでも人間だ。それは、責任を取るのも、人間ということだ。神様はどの未来になったとしても対応できるようにしているのだ。
「うん」
必要とされない家族よりも、話が伝わる人のそばにいたいと、彼女は自然と思った。リダイアルをタッチする。
「連絡しよう、元旦那のところに」
もう一度やり直す方向に話は進み始め、来年の三月に引っ越しの日は決まった。東京で一緒に暮らす。
見えないものを信じていない家族。信じている人がいたとしても、魂が入れ替わったから、元に戻るなど通じるはずもなかった。
話せば、家族から言葉の暴力が来るのは目に見えている。それに耐えられるほどの余裕は、今の澄藍にはなかった。
やり直すことは家族の誰にも言わず、時期が来るのを彼女は、この世界では一人きりの一軒家で、神界に住む子供たちと一緒に楽しく過ごして待った。
ある晩、パソコンで動画サイトを見ていた彼女は急に笑い出した。
「あははははっ!」
スペースキーを叩いて、動画を一時停止する。
「おかしいなぁ〜。絶対に笑ってしまう、BL。あははははっ!」
グラスに入った赤ワインを飲み、ドライフルーツを口に放り込む。
「ファンの方々には大変申し訳ないけど、ギャグにしか見えないんだよなぁ〜」
若さゆえの視野の狭さで、他人の本気の気持ちを認めることが、彼女はできずにいた。憧れてやまない、青の王子――
人間の女と神である光命の距離は、まるで澄藍という魂によって、お互いが目に触れない場所へ引き離されているようだった。
澄藍の価値観は変わらないまま、東京へ行く当日となった。すぐ裏手にある家から、内緒で荷物を運び出す作業が行われてゆく。
澄藍は途中で見つかって、止められそうになったなら、どんな手を使っても出ていこうと決死の覚悟をしていた。
しかし、不思議なことに、まったく気づかれず、引っ越しのトラックが先に出発するのを目で追いながら、彼女は唇を固く噛みしめた。
「もう二度とこの地は踏まない――」
新しく買い直す椅子。古いものはそのまま置き去り。たったひとつの忘形見として、小さな手紙に、
――さようなら。
ただそれだけ書いて、彼女は上りの列車に乗り、元旦那と再会したあとすぐに、携帯電話の番号もメールアドレスも全て変え、完全に家族から失踪した。三十六歳になる春だった――――
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