ルナスマジック
世界が軌道に乗り始め、首都に作られた城は建築業についた神々によって、日々改築増築が繰り返さてゆく。謁見の間も地上には存在しない美しく高技術の素材を惜しげもなく使われている。
真紅の絨毯が中央へ敷かれ、両脇には陛下が重鎮として選んだ人々が並ぶ。一番奥には立派な玉座。そこへ肩肘をつき、気怠そうに椅子にもたれかかる皇帝陛下がいた。
その姿は怠惰でも
今も女が跪いている前で、陛下は堂々たる態度で話を聞いている。
「そうか。仕事は何につくのだ?」
「小学校の国語教師になろうと思っております」
「日々精進するがよい」
待っている人が大勢訪れて多忙な陛下の脇に控えていた、お付きの者が名簿から次の人を呼ぼうとすると、女が綺麗な顔を上げて、戸惑い気味に引き止めた。
「あ、あの……」
「どうかしたか?」
「実はご相談がありまして……」
「何だ? 申せ」
女は笑顔ではっきりと、陛下に取り立てていただけるよう伝えた。
「
「そうか」
しかし、陛下は表情にも出さず、ただ相づちを打ったが、心の中ではこう思っていた。
(これで十人目だ。月主命と結婚をしたいと申した女は……)
いくら皇帝陛下でも、個人の結婚にどうこう口出しをする立場ではない。月主命がどう考えているかも知らないし、聞くつもりもない。自由なのだから。
女から視線を上げ、陛下はお付きの者に向けた。それは終わりの合図。次の名前が呼ばれ、女は礼儀正しく頭を下げ、謁見の間から出ていった。
人々がより幸せになる統治をするためにも、できるだけ多くの者に出会い、話を聞くことが大切だとご判断されている陛下の日々は、自然と玉座に座っている時間を長くさせた。
*
そうして、数日後。出身はどここなのか、どのような生活を送っていたのかなどを聞いた、赤い絨毯の上に跪いている女が綺麗な顔を上げて、真摯な眼差しを向けてきた。
「陛下、実はお話があります」
「どうした?」
「月主命さんと結婚したいと思っています」
「そうか」
陛下は顔には出さなかったが、心の中でため息をつき、次は少しだけ微笑んだ。
(あれから、来る女が全員、月主命と結婚したいと申す。これで九十人目だ。おかしい。なぜだ?)
誰一人としてもれず、女たちが陛下に願い申し上げるものだから、悪を一人で倒したお強い陛下でも、心に波紋がさすがに広がった。
*
ある日の城の廊下。マゼンダ色の長い髪は陛下に失礼がないよう、いつもよりも綺麗に縛られ、多くの人が行き交う絨毯の上を、ロングブーツで歩いていた。
「本日は苗字を
人当たりのよさそうなニコニコのまぶたに隠されたヴァイオレットの瞳が姿を現すことはなく、月のように美しい肌を持つ男――月主命が通り過ぎてゆく。
しかし、彼の背後で突如、女の悲鳴が上がった。
「きゃあっ!」
特に驚くわけでもなかったが、他の人たちが騒然とし、一気に廊下は慌ただしくなった。
「な、何だ?」
「どうした?」
「どうかされたんですか?」
月主命の白いブラウスは振り返り、そこで見たものは、さっきすれ違った女が床に倒れているところだった。初めての出来事を前にして、彼が小首を傾げると、マゼンダ色の長い髪は肩からさらっと落ちた。
「おや? どうかしたんでしょうか?」
女のそばにいた男が少しかがんで声をかける。
「これ、もしもし?」
しばらく、まわりを取り囲んでいた男たちは待っていたが、女はぴくりとも動かなかった。
「目を閉じたまま動かない」
「どうしたことか?」
「気絶ではありませんか?」
人間界では当たり前の言葉だったが、病気も怪我もない神界では、見知らぬ言葉だった。聞かされた人々は不思議そうな顔をする。
「キゼツとはどのようなものですか?」
「肉体を持つ人間ではよくあることで、自身の意思に関係なく、眠っているのと同じような状態になり、その間の記憶がなくなるものです」
人々はのんびりとうなずき、未だに倒れたままの女に視線を落とし、心配する。
「どのようにしたら目を覚ますのでしょうか?」
「さぁ?」
「人間が飲んでいる薬というものが必要なのか?」
「ですが、そのようなものはこの世界にはありませんよ」
「確かにそうだ。病気というものも怪我もないからな」
「とにかくここでは何だから、どこかへ運んで寝かせておこう」
起きたことは起きたこととして、月主命の頭脳にきちんと記録され、姿を現していたヴァイオレットの瞳に、人々によって運ばれてゆく女が映っていた。
*
そうして、またある日の城の廊下。マゼンダ色の髪を縛る水色のリボンは、横へピンと緊張感を表すように、綺麗に引っ張られていた。
通い慣れた謁見の間までの廊下を、茶色のロングブーツはかかとの音を赤い絨毯に吸い込まれながら進んでゆく。
「本日は担当科目を歴史に変えましたので、陛下にご報告に上がりましょう」
反対側から来た女が脇を通り過ぎと、すぐに背後で悲鳴を上げ、
「きゃあっ!」
倒れる風圧で、マゼンダ色の長い髪が揺れた。進行方向と逆の場所での出来事で、他の人たちが先に反応し、集まって来る。
「どうした?」
「これは気絶というものではありませんか?」
「最近、おかしなことが起きる」
「どうなっているんだ?」
「とにかく運びましょう」
振り返ると、ヴァイオレットの瞳に、すれ違った女が目を閉じたまま、他の人々に運ばれる様子がまた映っていた。月主命は人差し指をこめかめに当て、困った顔をする。
「おや〜? 気絶がまた起きました。おかしいみたいです〜」
何も知らない他の人々が全員立ち止まり、驚いたり不思議な顔をする。嵐の予感が、神界に漂っていた。
*
あれから恋愛シミレーションゲームを片っ端からやっている、
床暖房のぬくぬく感に浸りながら、ケーキにハチミツをかけた甘々なお菓子を頬張ると、壁の向こうからコウの声が響いた。
「今日はマジでおかしな話を持ってきてやったぞ」
「マジで? いつも神様の話は、人と違っておかしいけどね」
砂糖なしの紅茶をごくごくと飲んで、ゲームを一時停止すると、コウが全貌を現した。
「月主命がいただろう?」
「うん、いたね。それがどうしたの?」
噂の神がモデルとして出ている、RPGゲームを購入していない奇跡来は、恐れも知らず平然と聞き返した。
こうして、コウの口から城で起きている摩訶不思議現象が、この世にもたらされる。
「陛下の元に挨拶に来る女が全員、月主命と結婚したいと言う、マジでおかしなことが起きてる」
口に入れようとしていたケーキが、白い線を描いて床に転がり落ちた。
「全員が結婚したい!?!?」
慌ててティッシュで拭きとって、ゴミ箱にポンと投げると、見事に中に入り、奇跡来はウキウキな気持ちになって、まだ見ぬ神を想像する。
「それほど、イケメンってことだ」
人は見た目で判断しがちだと、よく言う。そんな女の頭を、コウはぴしゃんと軽く叩くが、奇跡来に痛みはなかった。
「心が澄んでる神様が見た目で判断するわけがないだろう! 魂の濁った人間じゃあるまいし」
「あぁ、そうか。女の神様たちは月主命さんの心を見てるんだね。じゃあ、性格が女性受けするとか?」
赤と青のくりっとした瞳は横へ揺れた。
「いや、それもない。頭はいいが、女に特に好かれるような性格でもない」
「あぁ、そう。じゃあ、女性の知り合いがいっぱいいたとか?」
銀の長い髪が今度は横へ揺れる。
「いや、月主はたぶん、女たちのことを知らないぞ。というか、話したこともないだろうな。ただすれ違ったか、どこかで見かけられただけだろう」
「一目惚れされた……?」
奇跡来は口にしてみたが、どうも違和感がひどく、フォークをくわえたままぼんやりした。人間の女の手にあるそれを、コウは次元の違うところで奪い取り、皿に残っていたケーキを遠慮なしに頬張る。
「もぐもぐ……」
神界でのケーキはどんどん消えてゆくが、どこかずれているクルミ色の瞳に映る同じものはなくならない。
「一目惚れもおかしいなぁ。全員はならないよね? じゃあ、何が原因で、そんなにモテてるんだろう?」
あっという間にケーキをたいらげたコウは、膨らんだお腹をポンポンと叩いた。
「だから、マジでおかしなことなんだろう」
「本当だ。マジでおかしいわ」
ゲーム画面のイケメンを見つめながら、奇跡来はケーキを口に入れようとしたが、よそ見していたお陰で、今度はスカートの上にころっと落ちた。
それでも、彼女は気にすることなく、ティッシュを再び取って、拭き拭きする。
「うん、何かいいことがあるんだ。ケーキが何回も落ちるんだからさ。これは意味があるね!」
先走りとコウに言われても、バカだと言われても、確かにそうだと前向きに納得して、何でも乗り越えていってしまう奇跡来という魂。
そんなたくましい限りの彼女を、赤と青の瞳が密かに見つめていた。
「この現象について、陛下はこう言った」
「うん」
「あの気の流れでは、全員がプロポーズしてくるのも無理はない」
「気の流れ?」
ポンとゴミを投げると、またストライクで入った。しかし、予想もしない解釈が出てきて、奇跡来はまたケーキを落とした。
「うん、やっぱりいい意味がある〜!」
「お前、気の流れのことは学んだだろう?」
三度ティッシュで拭きながら、今の家に引っ越す前のことをふと思い出した。
「学んだよ。人を引きつける気の流れがどんなもので、どうやって作るのかも」
「霊感の周波数を変えれば、気の流れも見えるからな」
「相手の気の流れを自分へ引き込むこと。その方法のひとつは、相手に感謝をすること」
まさしくその気の流れを使って、ゴミ箱との距離を測り、生クリームに染まったティッシュは綺麗な軌跡を描いてポトンと中へ落ちた。
コウは床からふわふわと飛び上がり、奇跡来がいつも座っている椅子に腰掛ける。
「そうだ。よく覚えてた」
「でもさ、それだけじゃ、全員にプロポーズされるようにはならないよ。何だかおかしいなぁ〜」
自分が知っているような情報だ。世の中の人たちも大勢試しているだろう。そうなると、モテモテの人がもっといっぱいいるという話があってもおかしくない。
そんな考え方は奇跡来のバカがつくほど超前向きな単純発想では思いつかなかった。コウはマウスを操作して、ブラウザの画面を変える。
「それとは違う、強力な気の流れがあるんだろう?」
「どんな気の流れ?」
テレビゲームのホームページへ行き、赤と青のくりっとした瞳は、上半身の半分まである赤髪、非常に落ち着きのあるキャラクターを眺めていた。
「いつか教えてくれるやつに出会ったら、教えてもらえ」
「そうだね。神様の気の流れは人間には見えないから、見える大人の神様に会ったら聞いてみよう」
「そうしろ」
奇跡来は冬空を見上げる。上から下を見ることはできても、下から上を見ることができない霊界と神界。その絶対的なルールの向こうに何が待っているのか、ワクワクした。
「それから、こんなことも起きた」
「月主命さんの話はまだあるの?」
やっと食べられたケーキを口でもぐもぐして、奇跡来はとびきりの笑顔を見せた。
「月主が通り過ぎると、女が気絶する」
彼女はびっくりして、座ったまま飛び上がったように大声を上げた。
「えぇっ!? 怪我しないからいいけど、地球じゃ大変だ!」
「そうだ。城の中は騒然としてる」
手に負えないというような顔をしているコウの後ろで、呑気にケーキを食べていた奇跡来は何かに気づいて、ブラウンの髪を揺らした。
「でも待って、魂って気絶するの?」
「しない。気絶は肉体に起きるものだ。しかし、魂も強い衝撃などを受けると、気絶することはまれに起きるぞ」
「なるほどね」
紅茶をごくごくと一気飲みしている人間の女に振り返り、コウはニヤニヤする。
「気づいてないんだな。お前もよく気絶してる」
「え? いつ?」
自分は至って健康で、倒れたことなど今までの人生でない。それなのにこんなことを言われて、奇跡来はぽかんとした。
「
天敵を突きつけたように、コウがはっきり告げると、奇跡来はケーキの皿をひっくり返し、持っていたカップから紅茶をジャバジャバとこぼし、何もかもがめちゃくちゃになった。言葉遣いもおかしくなる。
「きゃあっ! あれはちょっと困るんです! どうしてだかわからないんですが……」
大した言葉でもないのに、オーバーリアクションをしている奇跡来を見ずに、コウの赤と青の瞳はなぜか床に視線を落としていた。
「今も倒れてるぞ。後ろを見ろ」
いつもの癖で振り返ることなく、霊感の視点を百八十度回した。肉体からはみ出している魂を見つけて、今は奇跡来と呼んでいいかわからない女は納得する。
「あ、本当だ。魂が気絶しても、肉体は平気なんだね」
「そうだ。霊感は脳を使うから、肉体ってことだ。自分の魂も客観的にこうやって見れる」
「なるほど……」
不思議な現象をあちこちから落ち着きなくうかがっていると、コウはいきなりこんなこと言った。
「やっぱりお前じゃないんだな」
「何の話?」
どこかずれているクルミ色の瞳が視線を合わせようとしたが、コウは倒れている魂をじっと見ながら文句を言う。
「それはこっちのセリフだ。話を元に戻せ」
「え……?」
きょとんとすると、魂が意識を取り戻して、肉体へすうっと簡単に戻った。たどれないほど話がそれてしまっていて、コウは的確に告げる。
「魂が強い衝撃を受けると気絶するだ!」
「あぁ、そうだったね。そうなると、月主命さんが通っただけで強い衝撃が来たってことか。ここまでくると、ルナスマジックだね」
綺麗にまとめた人間の女を前にして、子供に見える神様は偉そうに言う。
「いい名をつけた。褒めて遣わす!」
「ありがとうございます」
ひれ伏しそうになったが、奇跡来は何かに気づき、ピタリと動きを止めた。
「あ、ちょっと待った! 見えるようになったら、月主命さんと話す時は気をつけないとね。気絶するかもしれないから」
奇跡来は先走りを発揮して、心配する。さっきみたいに肉体から魂がはみ出しては、何か問題が起きないとも限らな――
「お前はならないぞ」
「どうして?」
コウの意外な言葉に、奇跡来は考えていることをもやめた。神様は未来が見えるということを証明するように、銀の長い髪を持つ小さな神は言ってのけた。
「いつか理由はわかる」
「そうなの?」
「倒れるようじゃ、やっていけないからな」
「守護する神様になるってことかな?」
ゲームのコントローラーを取り上げて、真面目に神様の雰囲気をつかむという作業をし始めた、奇跡来は未来を見ることのできない人間らしく、思いっきり見誤っていた。そう気づくのは、だいぶあとになってからのことだった。
*
夕闇が広がり始めたカフェで、男二人は向かい合って、約束通りのお茶をしていた。
「――って、聞いたぜ」
エスプレッソの小さなカップに添えられていた手は上品に止めれ、人差し指をこめかみに当て、ルナスマジックを放つ男は珍しく表情を曇らせた。
「そちらは僕も少々困っているんです〜。僕は彼女たちと話したことも会ったこともなければ、特別な感情を抱いてもいません。ですがなぜか、彼女たちが勝手に結婚したいと言っているみたいなんです〜」
ウサギと踊るわ、カエルはかぶるわで、シリアスシーンを次々になぎ倒してゆく、三百億年も生きている男。そんな彼を前にして、明引呼はふっと鼻で笑う。
「からよ、てめぇに近寄っと危ねぇんだろ。それからよ、女気絶させたって聞いたぜ」
地獄の扉のように開いたまぶたから、ヴァイオレットの瞳が姿を現した。凛とした澄んだ女性的な声なのに、地をえぐり取るようなほど低かった。
「君も人聞きが悪いですね。僕はただ城の廊下を歩いていただけなんですが、七人もの女性が通り過ぎたあと倒れたんです〜。なぜ、このようなことになるんでしょうか〜?」
「ピアノ線張ってるとか、罠仕掛けてんじゃねぇだろうな?」
「こちらの出来事に関しては、僕は何もしていませんよ〜」
明引呼はブランデー入りの紅茶を一口飲み、言葉は違っても、ネタバラシをしてくる月主命にさらに面白みを覚えた。
「っつうことは普通は罠仕掛けるってか?」
「うふふふっ」
小学生の前ではあんなに模範的な優しい先生なのに、大人たちには鞭を振るような極悪非道という言葉が、悪がなくなったはずのこの世界でまかり通りそうな月主命だった。
「マジでヤバい話だぜ」
カップから節々のはっきりした手が離れると、太いシルバーリングがかちゃかちゃとかすれる音を、店のBGMににじませた。
家路へと急ぐ人が通り過ぎるカフェの窓を眺めながら、女みたいな頭のいい男は軽いため息をつく。
「あちらのことも関係しているのかもしれませんね」
「他にも何かあるってか?」
ジーパンの長い足はテーブルの下で組み直された。それとは対照的に茶色のロングブーツのかかとは座った時からずっと、行儀よくそろえられたまま。
「違うかもしれませんが……」
「話してみろや」
「――僕は失敗することをしてみたいんです〜」
この男はやはり面白いと、明引呼は思う。こうやって、自分が突っ込むことをさせるようなことを、次々に言ってくるのだから。
「ドMだろ」
ニコニコのまぶたから、ヴァイオレットの瞳は解禁された。十分暖かいカフェの中なのに、なぜか寒気がする。
「僕はマゾではありません。成功することはみなさんがします。ですから、他の方がしない失敗することをして、どのようになるのか知りたいんです〜」
「研究者みてぇな発想だな」
明引呼は椅子の背もたれにもたれて、両腕を頭の後ろに回した。黄昏た気持ちで、彼は空を見上げる。
その場から動くこともできず、人間に手を貸すこともできない月日の中で、自分の長所など知ることもなかった。
統治者が代わり、とりあえずできるものをと、ついた人間界にもある研究職。その組織の中で、研究肌の他の人間が言っていた言葉が今身にしみてわかった。
そうして、同時に自分は研究職に向いていないという輪郭がまた深く刻まれた気がする。
シリアスな場面なのに、それをまたなぎ倒すように、月主命の話はどんどんおかしくなってゆく。
「どのようすれば実行できるのかを考えていると、必ず代わりにやってくださるという方がいらっしゃるんです〜」
「あぁ?」
明引呼が我に返って真正面に顔を戻すと、ヴァイオレットの瞳はまたニコニコのまぶたに隠れていた。
「ですが、会ったこともない方なんです〜。しかし、好意を無駄にしてはいけませんから、お言葉に甘えてお願いするんです〜」
「で、どうなんだよ?」
失敗したい人の計画。実行する人が別の人になるだけ。物質界では、時と場合によっては失敗は死を意味する。
それなのに、永遠の世界で生きて、死の恐怖を知らない月主命は、どこまでも残酷に不気味な含み笑いをした。
「うふふふっ、やはり失敗してしましたか〜、になるんです〜」
明引呼はテーブルの足に、ガツンと蹴りを入れた。
「このドS野郎! てめぇは痛い目に合わずに、結果だけ手に入るってか。マジでルナスマジックだな」
マゼンダの長い髪を背中になびかせ、両手でカップを大切に包み込むように持って、月のように澄んだ女性的な肌で嬉しそうに微笑む。
「それから、道端を歩いていると、いつも見ず知らずの方が金品を譲ってくれるんです〜。世の中親切な方がたくさんいらっしゃいますね〜?」
悪意が存在しない神様だけの世界で、三百億年も生きてきた人の価値観と境遇は、ついこの間まで明引呼が見ていた地上とはまったく違っていた。
「どうなってやがんだよ? てめぇの人生は」
「僕もなぜこのようなことになっているのか知りたいんです〜。ですが、説明できる方はいらっしゃらないんです」
そう言って、綺麗な花びらのような唇にカップをつけて、月主命はエスプレッソを味わった。紅茶から上がる湯気に混じって、立ち上るブランデーの香りを、明引呼は吸い込んで、
「魔法じゃねぇのか?」
頭がいいとの噂をもされている男は、曖昧なものや仮説の領域を出ない、つまりは事実ではないことには、まったく興味がなかった。
それなのに、自分と違ってガタイのいい男の中の男が言ってくると、なぜか自身の中に招き入れたくなるのだ。
「現実主義の僕とはかけ離れた発想……。僕にかけているものを補えば、新しい道が開けるかもしれませんね」
「変える気もねぇくせに、言いやがって」
月主命がおどけたように肩をすくめると、マゼンダの髪が白いブラウスの背中でサラサラと揺れた。
「おや? バレてしましまいたか〜」
「ったくよ」
まるで錠前と鍵。形が違うのに、ぴったりときて、どちらかひとつでは意味をなさないもの。
自分にないものを相手が持っていて、相手が持っていないものを自分が持っている。その心地よさに、テーブルひとつを間に挟んで、男二人はしばらく身を委ねた。
今は担任教師と保護者という関係から、一歩プライベートに踏み出ただけの男と男。カフェという公共の場で、他の人からはごくごくあり得る風景だった。
「今後も時々、このように一緒にお茶を飲みませんか?」
飲み物が残りわずかになると、月主命が何気なく切り出した。明引呼のフィーリングがザワリと音を立てる。
「いいぜ」
真っ白な雲の上に、青空しかなかったこの間までとは違い、建設中の高層ビルが夕暮れの光の中で頭角を現していた。時代の移り変わりは、人々の生活や心にも影響をもたらし続けてゆく。
*
歴史の教科書は月主命の胸に抱えられ、茶色のロングブーツは授業がすでに始っている、静かな廊下を進んでゆく。
クラス数が増えるたびに、教師の応募がされ、同僚が増えてゆく。最近では、教室同士の距離が遠く、子供たちはワープゾーンを使って移動しなければいけないほどだ。
新任の教師を、先生同士が把握していないということも起きている。世界の急成長に、学校という組織運営が追いつかないのだ。
それでも改善されてゆくのは目に見えている。それはよくわかっている、慌てることでもない。三百億年生きてきた間、いつだったそうだった。みな向上心があるのだから。
月主命はかぶっていたカエルを手で少し直し、廊下の角を曲がると、テンションの高い女の歌声が聞こえてきた。それは、ミュージカルみたいなものだった。
「♪数字〜 それは〜 みんなに幸せをもたらすもの〜♪」
教室をのぞくと、童話から出てきたお姫様みたいなドレスを着た女が教卓の前に立っていた。
「一さん、こんにちは!」
セリフみたいに言うと、1という数字が現実に形を持って本当に現れた。生徒たちは子供番組でも見ているように夢中で、教育された通り元気に挨拶をする。
「こんにちは!」
「三さん、こんにちは!」
すると、今度は反対の手のひらの上に、3という数字が白い煙が小さく弾けるように出てきた。
「こんにちは!」
「♪ラララ〜 仲良く一緒に歌いましょう〜♪」
女の両手に乗った、1と3が生徒が見えている前で近づいていき、隣り合わせになった。
「それでは、二人が手をつないだら、どんな数字が生まれますか?」
先生からの出題に、生徒たちは一斉に手を上げた。
「はいはい!」
「は〜い!」
先生は優しく微笑み、
「それでは、みんなで答えましょう! さんはい!」
「四!」
「正解で〜す!」
先生の手のひらの中で、1と3はハリケーンが起きたようにクルクルと激しく回り、ゆっくり止まると、4に変わっていた。
「幸せの魔法がかかりましたか〜?」
教室中に妖精が突然飛び回り、生徒たちを光のリボンで優しく包んでゆく。子供たちは元気な返事が響き渡った。
「かかった〜!」
「算数楽しい〜!」
「それでは、次の問題が馬車に乗って、やって来ま〜す」
女が腕を横へ伸ばすと、手のひらに小さな馬車が今度は現れた。
月主命のヴァイオレットの瞳はいつの間にか姿を現していて、夢中で生徒に教えている彼女を見つめる。
(人数は少ないと聞いたことがありますが、魔法を使える方……。メルヘンティック、ファンタジー、非現実的。僕と違う面を持っている……。可愛らしい女性ですね)
マゼンダ色の長い髪は女性的なのに、男の色香が思いっきり漂っていた。
*
台所のシンクで、ディスポーザーが動いているのを、どこかずれているクルミ色の瞳は見つめていた。
「便利だ。生ゴミを処理して、排水溝に流せるなんて……。素晴らしい」
カウンターキッチの上に、銀の長い髪を持つコウが霧が出るようにすうっと現れた。
「よし、今日もめでたい話だ」
「誰か結婚したの?」
奇跡来は振り返って、置いておいたクランベリージュースを飲む。
「どんどん神界の出来事に慣れてきたな。そうだ。今度は月主命だ」
「めでたいね、本当に」
メイプルクリームを挟んだクッキーを頬張って、呑気に噛み砕いていたが、前に聞いた話をふと思い出した。
「でも、ちょっと待って。結婚したいって言ってた女の人たちはどうしたの?」
「そんなの、すぐにあきらめたに決まってるだろう?」
神様のことをまだまだわかっていない奇跡来は、物質界という物差しで測ってしまった。
「え? 普通こうもっとさ……あんまり気持ちのいい出来事じゃないけど、ちょっと待ったとか言うことにならないの?」
「お前は本当に魂の濁った人間だな。本当に好きなやつが幸せになるなら、喜ぶことだろう? 運命の相手に出会ったんだからな。月主命は結婚した女と今後永遠に別れることはないんだ。冷静に考えて、あきらめるのが当前だろう?」
悲しかったり、迷惑だったりの一方通行は神世にはない。しかも、他人優先で性格もよく、美男美女ばかりの人たちが暮らす世界。奇跡来は自然と笑顔になった。
「そうだね。他の人たちにも運命の人はそれぞれいるってことだ」
「そうだ」
「いいね。家族が増えて、幸せも増えて、笑顔も増えて」
クッキーの粉がついた手をパンパンと払って、奇跡来は自室のパソコンへと向かってゆく。神様名簿というファイルを開いて、新しい名前と関係を入力するために。
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