運命は明日やって来る

 どこかずれているクルミ色の瞳は、開かれた分厚い本に向けられていた。


「ん〜? 夕飯の支度、今日はね、このページに書いてある――」

「よう!」


 背後から子供の声が不意に響いた。しかし、マンションの内扉のガラスには、女が一人映っているだけで、他に誰もいない。


 あらかじめ用意しておいた砂糖を鍋の中に入れて、箸でサラサラとかき混ぜながら、彼女にとってはよくある現象で、気にした様子もなく話し始める。


「どうしたの? もう大人の神様のところに帰ったんじゃないの? それとも邪神界じゃしんかいが襲ってきたとか?」


 ぐつぐつと煮立つ鍋に、次は醤油を入れようとしたところで、子供の怒っているような口調が聞こえてきた。


「人と話す時は目を合わせろよな」

「ちょっと待って、火を止めて……」


 つまみを回すと、ガスの青い炎は小さくなって消えた。女は振り返って、思わず目を見開く。


「え……?」


 そこにはこんな子供が宙に浮いていたからだ。銀のサラサラの長い髪は腰までの長さ。くりっと丸い目は、右が青で左が赤。背丈は五十センチと言ったところだ。


 それでも、内扉のガラスには、女が一人何もないところを見て、ぽかんとした顔をしている姿だけが映っていた。しかし、彼女が驚いているのはそこではなく、彼の容姿だった。


(神様の子供? 誰の? 初めて見たよ、こんな子。今までいなかったよね?)


 いくら神様の子供だって、人間の心の声は聞こえない。それなのに、その子供は平然と言い返す。


「人を見た目で判断するのはよくないぞ。お前が子供しか見えないって言うから、わざわざちっこくなってやったんだ」


 態度はこの上なくデカかったが、気持ちの優しさはよく伝わってきて、女は珍しく微笑む。


「あ、そうか。ありがとう」

「ありがとうじゃない! ありがとうございます、だ!」

「ありがとうございます。名前は?」


 にっこりするわけでもなく、ずいぶん無愛想なのに、ひどく綺麗で神聖な子供が言う。


「コウだ」

「どんな字書くの?」

「人間のお前に、高貴な俺の漢字など教えない! 呼べるだけ、ありがたく思え」


 女は目を閉じ、握った拳をワナワナと振るわせる。


(カチンと来るな)


 小さな人差し指を突きつけられ、神様用語が当たり前に出てくる。


「そう思うのは、人間ができてない証拠だ。つまり、が低いってことだ」


 女は今まで子供たちを通して学んできたことを、もう一度確認するように言った。


「霊層は魂の透明度を表すもの。低いってことは、魂が濁ってるってことだ」

「そうだ。思い知ったか!」


 偉そうに胸を張った子供から、女はキッチンへ振り返って、ガスを再びつけようとした。


「はいはい。で、遊びにきたの?」


 適当にあしらおうとしたが、キンキンと耳をつんざくような声が憤慨ふんがいした。


「俺はガキじゃない! 話があって来たんだ」


 女は手を止めて、真顔に戻る。


「どんな?」

「お前が大人の神様が見えるようになるまで、俺がコーチしてやる」


 霊感を持って半年。一度も、大人の神様なんて見えた試しがない。女は腕組みをして、深くため息をつく。


「なるのかな? そんな日が来るのかな?」

「お前バカだな。やってみなきゃわからないだろう? 挑戦することが人生には大切なんだぞ」


 来月には三十歳。今までの人生で、自分がやって来たものなど、何ひとつ形になっていない。計画性ゼロの女は、表情を曇らせたままだった。


「ん〜?」

「何でもネガティブに考えるから、霊層が低いんだ。もっとポジティブにしろ!」


 コウは女の頭をぽかんと殴ったが、現実には痛みどころか、感覚もなかった。しかしそれが、カンフル剤にでもなったように、女はパッと表情を明るくして、丁寧に頭を下げた。


「じゃあ、よろしく」

「おう! 任せとけ。運命の日が明日来るからな」


 かなり意味深な言葉を残して、さっきから同じ背の高さで浮いていた子供の銀の髪や赤と青の瞳はすうっと消え去った。


 菜箸を持ったまま、女は戸惑い気味にうなずく。


「あぁ……うん。運命の日? どういうことだろう?」


 マンションの狭いキッチンで、オレンジ色のダウンライトを浴びながら、女はしばらく考えていた。子供じゃないと言う、大人の神様からの予言みたいなものを。


 しかし、人間に未来など見えるはずもなく、暮れゆく空を小さな窓に見つけて、急いでガスに火をつけた。


「とりあえず、夕飯だ。現実は現実、旦那が帰ってきちゃうからね」


 平和な日常の一コマ。地上では何ひとつ変わらないのに、目に見えない世界では天変地異が起ころうとしていた。

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