最後の恋は神様とでした

明智 颯茄

恋のプレリュード

 教会の扉が開くと、パイプオルガンの神聖な音色が穏やかな春風に乗せられ、桜の花びらと一緒に、透き通る青空へと舞い上がった。

 

 中から何人かの人々が祈りを終え、ドアへやってくると、春の日差しに目を細める。最後に出てきた男はすらっと背が高く、逆三角形の体躯で、落ちてきてしまった紺の後れ毛を、神経質な指先で耳にかけ、空を仰いだ。


 祈るばかりの日々が、今は感謝するばかりの日々に変わったこと。うれい色の瞳は今は至福の時に満たされている。あまりの心地よさに、男は思わず目をつむった。


 ――私たちが住む世界は、みなさんがご存知の通り、皇帝陛下と女王陛下によっておさめられています。神が私たちの生活を毎日、天から見守ってくださり、私たち人間は平和に暮らしています。


 その神の上にも神がおり、そのまた上にも神がいる。世界はそのように上へ上へと連なっているという話は、もうすでに周知の通りです。


 しかしながら、私はある日、自身が神と呼ばれていることを知りました。私たちが住む世界の下には、霊界と物質界があるのです。


 物質界には、私たちとは生きる法則の違う人間が暮らして――いいえ、正確には生きています。肉体という物質に魂が宿り、それは限りあるもので、いつかは死というものを迎え、霊界へと帰ってくるのだそうです。


 私たちを神が見守ってくださっているように、物質界の人間を守護するという仕事があるそうです。


 しかしながら、私は様々な事情から自身の生活で手一杯であり、他のどなたかのために力を貸すことなどできる身の上ではありません。ですから、地球という場所のことに関してはまったく無関係でした。


 そんなある日、私は人間である彼女に出会った――いいえ、正確には出会わされたのです。


 彼女は私のことを神と呼んでいました。私は彼女の守護神としてそばへ行ったわけではありません。ですから、彼女を守ることも導くことも何もしませんでした。彼女から見えない場所で、毎日ただ彼女を見ていただけです。


 もちろん、私は彼女のことを何とも想っていませんでした。その時はすでに心に決めた女性がいましたからね。


 しかしながら、季節がいくつか過ぎ、私は彼女を愛したのです。彼女は私が十四年間も思い悩んでいたことから開放してくださった一人です。今は住む世界が違っても、いつかは彼女も私たちと同じ世界で人間として生きてゆくでしょう。


 ですから、私は彼女と結婚したのです――


 教会の鐘がゴーンゴーンと幸せの音を鳴らす。男はそっと瞳を開けて、不意に吹いてきた暖かな風に花びらが舞い踊る。


 彼は階段を降り、ロングブーツのかかとをカツカツと軽やかに鳴らしながら、石畳の上を歩き出すかと思いきや、すうっと瞬間移動でいなくなった。


    *


 一瞬のブラックアウトのあと、木漏れ日が差す大きな玄関ドアの前に立っていた。ドアノブを回すことなく、もう一度目の前の景色が途切れると、次は赤い絨毯を敷いた屋敷の廊下の上に、男のロングブーツは立っていた。


「ただいま戻りましたよ」

「パパだ!」


 小さな足音が奥の廊下からいくつも聞こえてきた。男はあっという間に十人近くの子供たちに囲まれてしまった。


「お帰りなさ〜い!」


 大人は誰もいなかったが、すうっと一人瞬間移動してきて、女が一人いつの間にかそばにいた。帰宅した夫に妻はにっこりと微笑む。


「お帰りなさい」

「えぇ」


 優雅にうなずくと、男は土足のまま廊下を妻と子供たちと一緒に歩き出した。


「ねぇ、ねぇ? パパ、今日学校でね?」

「えぇ、どのようなことがあったのですか?」


 男は子供の一人を軽々と抱き抱えて、家族たちの声が小さくなってゆく。そうして、リビングのドアが開き、パタンと閉まると、廊下には誰もいなくなった。それどころか、靴跡はどこにもなかった。汚れなど絨毯についていなかった。


 ドアから人が入ったり出たりを繰り返し、陽は次第に西へ傾き、美しい星空を連れて夜がやって来た。紫の月明かりが、廊下の電気と床の上でエレガントに交わる。


 白い着物みたいな服が大人の歩幅でやって来て、そばを横切ろうとしていた子供をつかまえた。


「ねぇ? パパ、いつ帰って来た?」

「……パパ」


 子供は顔を見上げて、男をそう呼ぶ。目の前に立っている男は、教会から戻って来た男とは別の人物だ。それなのに、子供は父親だと平然と言った。


「パパと話したのは、夕飯の前? あと?」

「え〜っとね……? パパが帰って来た時は……?」


 遊んでいてそんなことは忘れてしまい、子供は難しい顔をして首を左右に傾ける。すると、そばにいた別の子供が代わりに答えた。


「お夕飯の前」

「そう。ありがとう」


 パパは廊下の角を曲がったようだったが、クロスしている床に、白い着物はやって来なかった。それを見ている別の男が廊下の角にいた。


「子供に聞いていました。瞬間移動を使った。それでは、僕も行きま――」

「パパ!」


 ロングブーツは絨毯の上に立ち止まったまま、男はニコニコの笑みを、小さな人へ向けた。


「どうかしたんですか〜?」


 子供が呼ばなければ、女性かと勘違いするような男で、夕方家に戻ってきたロングブーツとは違っていた。


「絵本読んでほしいの」


 脇に抱えていた本を子供は差し出した。男が首を傾げると、長い髪が背中からサラッと落ちる。


「少々待っていただけますか〜? 彼女のところへ行って来ますから」


 さっきから、名前が出ていないのに、誰の話をしているのかわかっている、この家にいる人々には。子供は目をパチパチと不思議そうにまばたかせた。


「地球のママのところ?」

「えぇ」


 何人目かわからないパパがにっこり微笑むと、子供たちは両手を上げて、元気よく叫んだ。


「僕たちも行きた〜い!」


 しかし、パパはさっきのパパを追いたいのだ。どうしても譲れないことがあって。子供たちにさりげなく阻止をかける。


「大人の話をしますから、待っていていただけませんか。すぐに戻って来ます〜」

「うん、わかった!」


 子供が素直にすぐうなずくと、すうっとパパは瞬間移動で消え去った。頭にティアラを載せていた女の子が集まっていた兄弟たちに話しかける。


「ね? パパたち全員ママのところに行ったのかな?」


 いつものことで、子供たちはパパッとあたりに飛び散り、リビングから暖炉のある部屋、玄関ロビーまで、小さな瞳でうかがったが、


「こっちはいないいない」

「こっちもいない」


 統制の取れた軍のように、パパがいないことを素早く確認した。ぽわんとした感じの男の子がみんなの顔を見回す。


「ということは、守護のお仕事ってこと?」

「みんなで話すんじゃないのか?」


 少しかすれ気味の個性的な声の男の子がそう言うと、子供たちは無邪気な笑顔で微笑み合った。


「仲良しだね!」


 月がえ渡る空の下。住宅街の一角で、子供たちは大勢で、自分たちの部屋へ向かって歩き出した。パパとママが幸せでいる、そんな穏やかな夜に包まれて。

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