Half truth

雪乃 直

第1話 始まりの移籍

 「このグループを卒業します」

 私たちアイドルにとってこの言葉を発することがゴールでありスタートである。

 

 私には夢がある。歌手としてずっと歌い続けたいと言う夢が。でも、グループでの活動や個人でお仕事をしていくうちに段々と他にも挑戦したい事や自分を試してみたいと思える事が増えてくる。

 グループに所属している事で沢山のことから守られて、恵まれてきた。そしてその分、多くのことを制限され縛られてきた。いつまでここにいるのか…、きっとずっとここにいれば慣れ親しんだ環境で楽しく活動できるはず。多少の我慢さえすればずっとそれが続き変に傷付くこともないはず。

 それでもここから離れる決断をするのはなぜだろうか。私は、先にここを離れて行った彼女たちの本当の決断の理由を心のどこかで知りたいと思っていた……。

 「私、夏目由香はグループを卒業します」私がこの言葉を発したのは半年前。そして、昨日でアイドルの夏目由香が終わった。あたり一面が真っ赤に染まったあの景色。見慣れたはずのペンライトがこんなにも綺麗にひとつの光を演出するなんてきっと忘れないだろうな。そんな事を思い出しながら本当はまだ昨日の卒業コンサートの余韻に浸っていたいけど、今日はこれからある人たちと会う約束がある。昨日までお世話になっていたマネージャーさんと合流して都内の綺麗なビルに入っていく。

 大手なだけあって名前はよく耳にしてたけど、実際に会社に来ることなんて無かったから想像以上に綺麗で驚いた。通された応接室は、白を基調としてテーブルやイスがカラフルで凄くお洒落。

「緊張してる?」

「うん、ちょっとだけ」

「大丈夫、もう了承は得てるから今日は念の為の挨拶みたいなものだから」

「…うん」

 私は今日、新しく所属する事務所を見つける為に面談に来ている。業界でも大手と言われるこの芸能事務所に。

「お待たせしました」

そう言って入って来たこじゃれたおじさん。

「小野社長、本日はお忙しい中、お時間を頂き誠に有難うございます」

「いやいや、中原さんにお願いされたら断れないからね。気にしないで」

 この人社長だったんだ。おじさんだけど、若い方のおじさんなのに凄い。所属していたアイドルグループの運営責任者である中原さんとも知り合いなんだ。

「夏目由香さんだね? アイドル活動はよく目にしてたよ。とっても歌が上手いんだね」

「えっ、あ、有難うございます」

「まぁ、そんなに緊張しないで。中原さんからは、ぜひうちで預かって欲しいとお話頂いてるけど、どうしますか? うちの事務所で大丈夫ですか?」

 正直、グループを卒業してから私の事を欲しいと言ってくれる事務所があるが不安だった。新しい所属先が見つからず【引退】しか選択肢がないかもしれないと怖かった。でも、中原さんから「夏目は卒業して何がやりたいの?」って聞かれた時に本心を話せた事で、この事務所を紹介してもらえた。「この事務所、きっと夏目に合うと思うよ」そう言って下さった。

「ここでまた、新たに頑張りたいです。宜しくお願いします」

「分かりました」

 小野社長は優しい笑顔で私を受け入れてくれた。その後は、所属のタイミングやメディアへの公表時期など色々な事を打ち合わせして、段々とここに所属することに現実味が出てきた。

 本当は、既に大人たちの間で私の所属は決まっていたのだろうけど、こうやってちゃんと面談の機会を作ってくれた事に優しさを感じる。


「失礼します」

「佐野くん、早かったね」

「はい、撮影が巻きで終わったのでそのまま来ました。まだ打ち合わせ中でしたか?」

「いや、大体の事は決まったからもう大丈夫だよ」

「はい」

「夏目さん、紹介するね。うちのスタッフの佐野さん。夏目さんの担当予定だから宜しくね」

「初めまして、夏目由香です」

「初めまして、佐野なおです。これから宜しくお願いします」

 新しいマネージャーさん。爽やかで良い人そうで良かった。

「夏目さん、早速ですが連絡先お伺いしてもいいですか? 次の打ち合わせなど後で色々ご連絡したくて」

「あ、はい」

「ありがとうございます」

 佐野さんの笑顔ってなんだかあたたかい。この笑顔で営業したら沢山仕事取ってくるんだろうな。

 新しい所属先も決まって、新しいマネージャーさんも良い人そうで安心した。ご飯食べて行こうかって言う元マネージャーの提案に賛成して、六本木にラーメンを食べに行くことにした。以前、番組でお世話になったあのお店にお忍びだ。

「佐野さん良い人そうで良かった」

「佐野さんって凄く評判良いんだよ? 顔良し性格良し仕事良し。完璧なんだよね」

「そうなんだ。じゃ、私もこれからきっと忙しくなるだろうなー」

「冗談抜きで本当にそうなると思うよ、応援してる」

「ありがとう。皆にもちゃんと報告しなきゃ」

「うん、ちゃんとしてあげてね。今皆、由香ロスだから」

「えー、なにそれ」

「二期、三期は特に由香先輩ロスが凄いみたい。寂しいんだって。偶にでいいから連絡してあげて」

「ふふっ、皆可愛いなー」

 久しぶりに食べたラーメンはとても美味しくて、こんなにゆっくり過ごすのもいつぶりだろうと思う。

「じゃ、何かあったらいつでも連絡してね」

「うん、ありがとうございます」

「それじゃ、お疲れ様」

「お疲れ様です」

 幾度となく送り迎えをしてくれたマネージャーさんに別れを告げて自宅マンションに入る。静か。とっても静か。グループの一員として毎日毎日大人数で過ごしてきた私は、家に居る時が一人になれる唯一の時間で唯一の空間だった。だから、家に帰ってきて扉を開けた瞬間の静寂が好きだったのに……。さみしい…。

 不意にさみしさが溢れて涙が止まらなくなった。何に対してか分からないけど、どうしようもなくさみしくて不安で仕方がない…。何か目に見えないものに飲み込まれて自分自身が消えて無くなってしまいそうで怖い。私はこれからずっと一人なんだ……

 どうにも消えない不安を掻き消すように鳴り響く着信音。涙が止まらないまま通話ボタンを押して相手の声を待つ。

「もしもし、お疲れ様です。佐野です」

「…」

「もしもし?」

「…佐野さん」

 誰かがいる。電話越しに聴こえる声に私は一人じゃないと安心できた。

「夏目さん? どうしたんですか?」

「…なんでもないです」

「泣いてるでしょ?」

「…」

「今、ご自宅ですか?」

「はい…」

「…渡したい資料や書いていただきたいアンケートがあるのでお持ちしますね」

「えっ…」

「ご自宅の場所は、引継ぎ資料に記載があったので分かります。今から行きますから、待っててください」

「…はい」

 電話を切って気付く、涙が止まっていることに。「待っててください」この言葉に私は来てほしいと思った。佐野さんに来て欲しかった。

 面白くもないテレビはさっきからずっと一人で喋り続けている。内容なんて頭に入ってくる訳もない。でも、別にそれでよかった。今はただ、一人じゃないと誰かの存在を感じられるようにテレビから流れるその声に安心できるからとそんな事を思っていた矢先、やっとインターホンが鳴った。

「すみません、遅くなりました」

「…いえ、大丈夫です」

「…これ来週の打ち合わせの詳細と資料です。時間がある時に読んでおいてください。あと――」

「佐野さん」

「はい」

「お茶いれますね」

「えっ…あ、いや結構です。もう帰りますから」

「…」

「…少しだけ、お邪魔します」

 玄関先で淡々と資料の説明を始めた佐野さんが嫌だった。何かを期待していた訳じゃないけど、私を想って来てくれたと思っていたのに…。

「聞いていいのか、躊躇してしまって…」

 キッチンからはソファーに座っている佐野さんの背中しか見えなくて佐野さんがどんな表情でそんな事を言っているのか分からない。だから、分からないから知りたくなった。

「聞いてくれないんですか?」

 キッチンからリビングへゆっくりと足を進めて温かい紅茶が入ったマグカップをソファー前のローテーブルに置いて私から聞いてみる。

「電話した時、声で泣いていると分かりました。グループを卒業した翌日に面談したり、知らない奴が急に担当になったり色々と気持ちが追いつけていないのかなって…今までの環境とこれからの環境を比べて不安になってるのかもしれないって思いました。だから、もしそうなら大丈夫だよって、一人じゃないよって伝えたくて、待っててくださいなんて…。でも、冷静になって考えたらこれから担当になると言っても今日いきなり会った奴にズカズカ踏み込んで来られるのは嫌かなと…」

「一人じゃないですか…。今まではずっとメンバーが傍に居てくれた。辛い事も苦しい事もメンバーの皆が居てくれたから頑張れたんです。でも、これからは私一人じゃないですか…」

「…スタッフは仲間じゃありませんか?」

「えっ…」

「大人数じゃないけど、これからは私がずっと傍に居ます。なんだってします。夏目さんのためならなんだって。だから、一人だなんて言わないでください」


 ふわっと優しい香りに包まれたかと思えば、佐野さんに抱きしめられてた。私はまだ、【佐野なお】のことを何も知らない。それなのにどこか安心するのは、ずっと傍にいた彼女と同じ香りが貴女からするからなのか…。貴女が彼女に似ているからなのか…。

 私はまだ、何も知らない。

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