真夏の犬

 今ではすっかり見なくなったが、その昔、地元・四国某所には野犬はあちこちどこでも目に付くほどたくさんいた。

 だから小学生の俺もいることには気に留めなかった。


 それでも野犬は、怖かった。

 いつも腹を空かせ、薄い皮が肋骨や背骨に張り付く身体。手入れのされない牙や爪は獲物を捕らえ切り裂くため、人に使役される前の姿を体現していた。

 止めどなく噴き出す涎には狂犬病の原因も潜んでいたし、伸び放題の毛皮にはダニやノミもうじゃうじゃいた。

 だから近寄らないよう親にきつく言われる前から、本能的に近づこうとも思わなかった。

 

 その夏は、いつもよりも蒸し暑い時期だった。

 現代ほど温暖化や異常気象が叫ばれる時代ではなかったが、思い返すとおかしいほど暑かった。

 熱中症患者が全国で過去最高だったことを覚えている。


 人間でも倒れ、灼かれる程なんだから犬なんか堪ったもんじゃない。

 路上で眠ったように野垂死ぬ野犬が続出した。

 まだ息がある犬も毎日見かけたが、手をさしのべる人なんていなかった。


 それは、病気持ちだからとか噛まれるからとかではなかった。

 もっと単純明快、住民全員が「金を掛けずに駆除できる」と思ったからだ。

 野犬なんてごみを漁り畑を荒らし家畜を襲い、時には子供に喰い掛かったり、人に迷惑しか掛けないんだから助けるなんてもってのほか。

 被害の鬱憤と異常な暑さへの苛つきが重なり、混ざり合った負の感情は全て生きているだけの野犬たちに注ぎ込まれていった。

 

 セミが元気な真夏の8月。

 周囲の家々は盆の準備で大忙し。我が家もお供え物や祭の支度をしていて、両親は家を空けることが多かった。

 友達も親の手伝いとかで遊べず、でも同じように家の手伝いなんかしたくなかった俺は、自宅を出て近所の田舎道をぶらついた。


 天気は晴天。当然、灼熱の光が降り注ぐ中を歩けば、十数秒で汗が服に染みていく。 

 あてもなく歩を進め、肩に提げた水筒から水分補給をしていると、畑と田んばと家に囲まれた空き地があった。

 そこは放置畑で年中草が伸び放題。夏場は特に当時の俺の腰より高い雑草が生い茂っていた。

 

 ――カマキリでも探すか。

 

 なんとなくそう思った。

 ここらの草むらではバッタやキリギリス、それとお気に入りのカマキリが良く採れた。

 両手で草むらを漕ごうとして、足を止めた。セミの大合唱に紛れて、恐怖を引き起こす声が聞こえた。


 グルルルルゥゥ……。


 ヴヴヴヴゥ………ハァッハァッハッ……。


 聞き覚えがあった。

 生暖かい呼吸音。飢えと渇きに怒る呻き。


 例の野犬が近くにいる。しかも数頭。

 

 ――やめようかな……いや、でもちょっと……


 正直、興味もあった。


 夏休みの高揚感か、単に暑さにやられて感覚が鈍っていたのかはわからない。

 普段だったら絶対近づかない恐ろしい存在に接近してみたかったのだ。


 気を持ち直し、止めた手足を動かし始める。


 ミーンミーンミーン、ジジジジジジ、ジャージャージャー。


 なぜだか、セミの鳴き声で少し勇気が出た。

 一面緑の敷地のどこに目当てがいるか、慎重に耳を澄ました。


 ……さっきよりも近くにいると確信した。

 足取りが速くなる。

 


 いつの間にか暑さを忘れていた。

 セミの声が、シンっと消えていた。

 

 空き地の奥、草地が開けた空間に出た。

 廃材が積まれた山の前に探していたものがいた。


「え、はあ?」

 

 気の抜けた声が出てしまった。

 

 野犬は3匹いた。

 3匹とも、歯をむき出し、血走った目が俺を睨みつける。

 そして耳が取れていたり、鼻から血が出ていたり、顔に大きな切傷があった。

 

 彼らは頭だけが地面から生えていた。

 なぜか首から下は埋まっていた。あれは――


「埋められてる……?」


 誰かがわざと犬たちを埋めたのは明かだった。

 しかも、こちらを向く3匹の目の前には腐った肉が皿の上に載せられていた。

 見た目が真っ黒になるくらい蝿が集っていた。


 餌? だとしたらおかしい。

 皿は犬が届かない位置にある。 



 目にした光景は普通ではなかった。

 非日常が過ぎる、異界の景色。


 俺が怯えていると、急に犬たちが興奮し始めた。

 ワンワン吠え始め、顔を振り回し、歯を舌舐めずりして肉に食らいつこうとする。

 

 でも届かない。

 不満がたまり続ける。

 この炎天下で何日も飲まず食わずで過ごしている。

 

 徐々に動きが激しくなる。

 首から下、地中の手足と胴体ものたうち回っているみたいだった。


 グガァ、ハァッギャンッググ、ルウウゥゥゥ。


 ここにいたらまずい。気がおかしくなりそうだ。

 俺はもう十分過ぎるほど好奇心を満たしていた。

 目はその光景からなかなか離せなかったが、無理矢理身体を捻り来た道を引き返そうとした時、

 

 ギャァッ!!

 

 暴れ狂っていた1匹の犬の首が弾け飛んだ。

 そして一直線にこっちに向かって牙が光った。

 

 道まで全速力で走った。

 


 ガアッエグァァア!


 

 犬かどうかもわからない鳴き声が、頭のすぐ後ろで聞こえてくる。

 

 俺は両手おもいっきり振り回し、空き地を抜け出すと、そのままぜえぜえと家まで駆け込んだ。

 玄関の引き戸を開けて中に転がり込んだ。


「はあ、はあ、んん……はあ」


 呼吸を荒げながら戸の方を振り返ったが、犬の首はどこにもなかった。


「ッ! 痛ってぇ」


 思い出したように手足を鋭い痛みが通った。 

 両腕を見ると、数えられないくらいの切傷が。両足も同様だった。


 空き地の草で何度も切ったみたいだ。

 痛さとさっきまでの恐怖で半泣きになりながら洗面所に向かった。



 風呂場で傷口を洗い、救急箱を持ってきて消毒をした。

 


 

 網戸の外からはセミの合唱が、また聞こえてきた。

 

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