渋滞待ち
男はイラついていた。
仕事の関係で遠出をした後、せっかく17時には業務を終えて帰宅できるはずだったのに高速で渋滞に巻き込まれていたのだ。
もう1時間は同じ場所でエンジンを吹かしている。
ラジオによると渋滞の原因は、玉突き事故のようだ。しかも帰宅ラッシュ時の、である。大渋滞の発生は至極当然な時間帯と状況だった。
頭ではわかっているものの、どうしても苛つきが収まらない。
なんとか落ち着けようと、何本目かの煙草に火をつける。
ライターのオイルも残り少ない。煙草が切れたらどうなることやら。
ふぅーっとストレスと一緒に煙を吐きだす。
肌寒くて一度閉めた窓を再び開けて、外に煙草を持つ右手をぶら下げる。ふと、右を見ると隣車線の車両がちょうど男の車と平行に止っていた。
運転手の様子はというと、ハンドルに頭をつけ、うな垂れている。
”何かこの後用事でもあったのだろう。キャンセルしなきゃいけない状況で絶望するのも仕方ない。”
男はそんなことを思いながら、人の不幸を糧に気持ちを落ち着かせていた。
少しだけ気分が良くなった男は、他の車の運転手はどうだろうかと思い、今度は左の車線に目を向けた。
左車線には、ついこの間発売された新車種が止っていた。
ただその割りには、車体の擦り傷、塗装剥げ、へこみが目立った。
”どんだけ運転下手なんだよ。”
心の中で運転手を鼻で笑いながら、その運転席をちらりと見ると、
真っ白な顔がガラスに張り付いていた。
男は思わず右手を引っ込めた。
”なんだあれ!?”
血流が加速する。なのに手足の末端から冷えていくのを感じた。
恐る恐る、もう一度左に目をやると、
まだ顔があった。
女だ。
しかも笑顔の。
ピンポン球ほどの眼が、あり得ないほど上向きに弧を描き、口角は耳横くらいまで吊上がって血まみれの歯が見えた。
白色のニコちゃんマークをイメージして欲しい。あれがそのままリアルな人間で表現されていたら――
血が通っていないのは誰が見ても明らかだ。
人の顔じゃなかった。あれは、もう……。
男は数秒と直視できなかった。
今後何度も思い返しては吐き気を催す、と確信していた。
思い出したように煙草を口に持って行くと、一息で残りを吸い終えた。
大きく紫煙を吐き出しても、痙攣する指に挟んだ煙草の吸い殻から灰がボロボロこぼれ落ちた。
もう、渋滞の苛立ちなど消滅していた。
……あれから何分経っただろうか。
煙草は全て吸い尽くした。
微動だにしない車中で、ラジオの声が唯一の救いだった。
渋滞は、まだ続くようだ。
男は疲れ切っていた。
気付いたら、前方の車の後ろ、つまり男の目の前に白い笑顔が移動していたのだ。
先ほどまで隣にあった傷ついた新車種も無くなっていた。
その代わり目の前の車が廃車のように変わっていた。
怖い、寒い、気持ち悪い。
嗚咽を繰り返しながら、男はなぜか顔から眼を逸らせなかった。
見なくてはいけない理由なんて無いはずなのに。
男の頭の中は、無事に帰れることだけを考えていた。
その時、白い笑顔を口が初めて動いた。
突然の出来事に男は驚いた。しかしただ見つめるしかできなかった。
白い顔は、眼を三日月形にしたまま口だけ動かした。
口角を元に戻し、丸くすぼめて口を開けた。
次に、一度口を閉じ、また少し大きく開け直した。
その次は、舌を少し動かし、同様に口を開いた……。
――男は、思った。
”こいつ、なにか話してる、のか?”
言葉を話している、不思議と言葉を受け取らなければと感じた。
白い顔は何度も、同じ動きを順番に繰り返した。
男は必死にその口の動きを真似して、意図を読み取ろうとした。
”これが分ればここの状況から解放される”そう漠然と思っていたからだ。
そして、何度繰り返したか分らない。男は疲労困憊の頭でついに何を言っているのか気付いた。
”お”
”ま”
”え”
”も”
”し”
”ね”
「あっ」
気付いたときには遅かった。
いつの間にか抜けていた渋滞。
高速のど真ん中で突然停車した男の車に、後方からノーブレーキでトラックが突っ込んできた。
そしてそのまま前の車にまでぶつかって、男の車は大破。まるでサンドイッチだった。
その後ろには、また渋滞が発生していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます