第36話 夢の終わり

 今日一日のことをマナカに指摘されて。

 改めて今日という日を振り返ってみて。


 そうして俺は気付いてしまったのだ。


 マナカといると楽しい、嬉しい、心が安らぐ――そんな温かく穏やかな気持ちを抱くようになってしまっていたことに。


 しかし同時に俺の心中には、そんな甘えた自分を激しく糾弾する、もうひとりの自分が存在していて――。


 だから俺は笑顔によって――表面的な愛想笑いによって――本心を、本当の気持ちを隠そうとしたのだ。


 だって優しい世界にひたることは、俺には決して許されないことだから――。


 あの時、全てを見捨てて逃げ隠れた俺は、もう2度と逃げてはならないのだから。


 笑顔は最大の防波堤だ。

 相手との距離をとるための心の防壁。


 だからこれでいいんだ。


 燦燦さんさんと輝く太陽の下で優しく生きるマナカと。

 暗い情念を燃やしながら闇の世界に生きる日陰者の俺は。


 本来、交わるべきではなかったのだから。


 だから俺は今、安堵するべきなのだ。

 俺にとっての日常は明るい世界では決してなく、ただ一つの目的に向かって突き進む、過酷な戦いの世界であるべきなのだから。


 そうでなくてはならないのだから。


 《想念獣》と戦って、戦って、戦い抜いて、そうして、いつか奴と相まみえる。


 一時、楽しい時を過ごしたとしても、最後には必ずそこに至らなければならないのだ。


 それこそが俺の生きる意義であり、果たすべき使命であり、全てを賭してでも負うべき責務なのだから――。


 だからマナカと離れることは、歓迎すべきことでこそあれ、悲しむことではないんだ。


 マナカの持つ不可思議な力は確かに惜しい。


 でもこれ以上は俺の心がダメになる。

 マナカのいる優しい世界にほだされてしまう。


 それではダメなんだ。


 優しい世界に守られたまま、必死に縮こまって隠れて逃げた幼いあの時に戻ってしまう――それではダメなんだ。


 だからこれでいい。

 これでいいんだ。


 短い夢が覚めてしまった、ただそれだけのこと。


「俺はこれまでと変わらない。そしてこれからも変わらない――」


 明日からは、また元の状態に戻るだけなのだから――。


 クロが何事か言おうとして、しかし途中でやめたのが気配で分かった――。


 …………

 ……


 その夜。


 俺はひたすらに自宅のサンドバッグと向きあい続けた。


 ロー、ミドル、ハイ。


 基本の蹴りを終えると、次は回り込みながらのミドルや、ミドルの軌道からハイへ移行したり、ロー連打からのハイといったように、実戦を想定した動きを確認していく。


 パンチのコンビネーションも加えて、様々な攻撃バリエーションをひたすらに反復練習し続けた。


「くそっ、なんだってんだ――」


 胸の中がもやもやした。

 まるで濃霧の山道を歩いているような不安と焦燥感。


 こんな気持ちを抱いたのはいつ以来だろうか。


「ユウト、そろそろ上がりにしなよ」

 見かねたクロが声をかけてくるが、


「もう少しやってからだ」

 言い捨ててると、俺はただひたすらにサンドバッグを打ち込んでいく。


「そんな揺れた心じゃ、練習の意味なんてなくなっちゃうよ」

 言われなくてもそんなことは分かってる。

 あまりに雑な動き。


 心ここに非ずの練習なぞ、むしろ悪い癖がつくだけで百害あって一利なしの愚行だろう。


 それでも俺は、一心不乱にサンドバッグを叩き続ける。

 そうすれば、いつかこの心の中のモヤモヤが晴れると信じて――。

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