162話 二度と会わない彼より
八十代終盤となった春の暮れ、俺とミリムはついにブラッドの家へと引っ越すことになった。
今まで過ごしていた家は引き払われるらしい。俺の過ごした実家と同じように、知らない人が買い取って、彼らの人生を過ごしていくのだろう。
ミリムが引っ越しを承諾した理由はいくつかあったが、そのうち大きな一つが、もう完全に、ディベートでサラに勝てなくなったことだと思われる。
俺より一つ若いとはいえ、もう九十も間近にせまった老人なのだ。
六十代なりたての若者に口と頭で勝てる道理はない。
ましてや最近両親が亡くなったばかりのブラッドに「もう、父母と呼べるのはあなたたちだけだから」と説得されては心情の面でも拒否は難しい。
超多忙のあいまを縫って家に招くためだけに俺たちをたずねたならなおさらだし、外でSPと送迎車が待っているとくればもはや詰みだ。
そういうわけで俺は手続きやらなんやらを済ますために『やることメモ』の十七番を開いたりもしたのだが、そのへんの手続きはブラッドが全部やってくれて、俺たちは身一つ、家と一部の家具以外なにも処分することなくブラッド邸へと移ったのだった。
ブラッド邸にはエマ夫妻も住んでおり、当然ながらひ孫もいる。
さらにゲル・ザ・ブッチャー二世もいた。
二世とは言うがブッチャーが死んでからもう二十年ぐらい経っている。
エマは多感な時期にペットロスをしたせいでスライムを飼えない状態になっていたのだが、俺にとってのひ孫がねだるので、このたびめでたくブッチャー二世が飼われる運びとなったのだった。
名前、ブッチャーにする必要ある?
俺はそのあたり強烈に疑問だったが、いきなり来た化石みたいな老人がペットの名前に異を唱えるのも感じ悪いだろうし、飲み込んだ。
まあ同じ名前をつけたぐらいだからエマもペットロスから立ち直っているだろうし、別な名があるスライムをうっかりブッチャー呼びしてエマのトラウマを刺激しないでいいのは楽だ。
俺たちにあたえられたのは、かつて、サラとブラッドが過ごしていた部屋だった。
ブッチャーに乗った小さなエマの姿が、目を閉じるとはっきりと思い浮かぶ。
「手狭かもしれませんが、こちらを寝室になさってください。持ち込んだ荷物は別な部屋に運んでおきますので、そちらも自由にしてください。模様替えなどありましたら、家の者に命じていただければ」
ブラッドはやけに俺たちを厚遇しているようだった。
俺に話しかける時など膝をつくほどだ。
しかし大人になったブラッドはでかくて、目の前でしゃがまれるとこれからプロレス技でもかけられるんじゃないかと、する必要のない心配が頭をよぎる。
ブラッドのこのうやうやしすぎる態度に……思い返せば、俺がこの家に来た時はだいたいこんな感じだった気もするが……疑問を覚え、こっそりとサラに真意をたずねてみた。
「実際、父さんは小さいころからブラッドとよく遊んでたでしょ。父親なんだよ、本当に」
アレが『父親』に対する普通の態度だとしたって、そうとうな厳しい教育が垣間見える感じなのだけれど……
まあ、きっとサラの言ったことは裏のない事実なのだろう。
ブラッドも『敬愛する父』に対するものとして普通の態度をとっているつもりなのだろう。
ただ、育ちが違いすぎて、俺が受け止めきれないだけだ。
これもたぶん、もう一生受け止めきれないやつだろう。
あと、ブラッドはでかくて、俺はなんだか縮んでしまっている。
そして九十間近の俺の声は小さいので、膝をついて耳を寄せないと、俺の声が聞き取りにくいというのはあるのだと思う。
俺はうっかり「大きくなったなあ」とつぶやく。
そんな時に俺の脳裏にあるのは、初等科に通っていたころの、俺とゲームをしていた小さなブラッドの姿だった。
もう六十代の立派な紳士だというのにおかしな話もあったものだ。……ああ、本当に、どうして昔の記憶はすんなり出てくるのに、今を認識するのにはワンテンポかかるのだろう。
俺の中では若く美しいアンナさんと、気の強さを隠そうともしない中等科ぐらいのシーラと、それから、幼く小さかったブラッドが、一緒にいた。
時系列的にありえないのに、俺より年上の人は少女と女性の中間ぐらいに思えてならないし、俺と同世代は中等科ぐらいな気がするし、俺より下の世代はみんな、十歳ぐらいの子供なのだった。
そうなると俺の描く俺の姿は中等科課程に通っているぐらいでないとおかしいのだけれど、どうにもその美しい思い出の中で、俺だけが老人で――
ミリムの姿が、どこにもない。
死んでいる人だけが若やいだ姿で記憶にきざまれるのだろうか?
いや、それはない。ブラッドもサラもいる。エマも生きている。
不可思議だ。俺の頭の中では世界が若いまま止まっているのに、俺だけ歳をとるし、ミリムの存在は本当にどこにもなくって、現実の、目の前にいるまま、すんなりと彼女の姿をミリムだと認識できる。
「マーティンさんのお葬式には、呼んでもらえなかったね」
部屋に落ち着いたあと、彼女はそんなことを言った。
葬式、あったのか。
訃報は担当の広報機関があって、特段の拒否がない限り、そこで告示される。
たぶんミリムはそれを見てマーティンの死を知ったのだろう。
俺は『そうか』とつぶやいた。
たぶん親族に俺を呼ばないよう、マーティンが遺言を遺したのだ。
俺たちのわかれはあの日、済んでいた。
二度と会わないというのが誓いだったのだから、彼はそれを守った。
もしくは、あいつは未だ『転生』に賭けていて、来世で会った時に俺を殴るつもりで死んだのかもしれない。
ならば俺は煙となることに賭けるだけだ。
あと少し、ほんの少し。
八十代の終わりはそうして過ぎていく。
最後の最後で親友からもらった熱意を糧に生きていこう。
俺たちに来世はいらない。
今生だけでも、充分に、楽しかったから。
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