77話 腐の香りがつきまとう人生

 人生最大のストレスがおとずれていた。


 これはきっと俺の『こだわり』のようなものが原因のストレスなのだろう。無意識下にきざまれていたもの……本来ならばきざまれるべきでないものが原因の、ストレスなのだ。


 しかし俺にはその『きざまれたもの』を取り払うのに多大なる労力が必要だった。

 こんなことを思ってしまうのはおかしい、間違っている……そう思うのに、どうしたって心の中に『でもなあ』がよぎってしまう。そういうものなのだった。


 自分でもおどろいたが――


 俺は、カリナに頼み事をするの、めっちゃイヤ……!


 こればっかりは自分でも醜い心根だと認めざるを得ないが、俺はカリナを無意識に『下』に見ていたようだった。

 相手は年上で、漫画家先生だ。

 俺の周囲の三大夢追い人の一角を成す偉大なるルーキー漫画家なのである。


 でも、なんか、『下』……!


 そもそも『他者と自分とのあいだに上下関係を見いだす』ということ自体が愚かだ。

 くだらない上下関係にこだわって命を落としてきた連中はいくらでもいる――俺自体も『下』の立場にこだわるあまり、命を落としたことがあるぐらいだ。


 個性ある知的生命のあいだに『上下』はない。

 瞬間的に発生することはありうるかもしれないが、『あいつはあいつだから下』とか『あいつはあいつだから上』なんてことはありえない。


 学校の勉強にかんして間違いなく俺が上だが――

 漫画という道にかんしては、間違いなく相手が上だ。


 このように見方を変えれば瞬間的に発生するのが上下であり、それは能力間で起こりうるものではあっても、人格間で起こりうるものではない。


 でもなんだろう――


 この、『カリナに頼み事をする』と思っただけで心に発生する、多大なるストレスは……!


 そうだ、想像できてしまうのだ。俺がなにかを頼んだあと、めっちゃ調子にのるカリナが……それがイヤ。すごくイヤ。


 しかし俺は教師だった。

 文芸部の顧問だ。


 文芸部……それは名前から察するに、きっと文学を愛する少年少女が、書について語らったり書をしたためたりする集まりだと思っていた。

 だから俺も有名どころの文学はあらかじめ予習したし、そのつもりで顧問としてあいさつをした。


 しかしその実態は、めちゃくちゃ、オタサー。


 文芸書いてる時間より漫画描いてる時間のほうが多い。

 そして女子比率が高い。


 運命的なものを感じたぐらいだ。逃れられぬ腐の海の香り。一度ハマった沼から抜け出したと思いきや、進んだ先が別の沼だったという末路。


 しかも俺が不用意にこぼした『あ、その漫画描いてる人知ってる』という一言から、二つの沼はつながろうとしていて、架け橋は俺なのだった。


 生き抜くことが目的なのだが猛烈に死にたい。


『死ぬ気があればなんでもできる』とかいうおためごかしを信じるわけではないが、俺の中に他に使えそうなエネルギーがなかったので、この死にたい気持ちを利用してカリナに連絡をした。


 実は文芸部という女子オタサーの顧問になったんだけれど、カリナ先生に一回だけでもご指導たまわれないかと思いまして。あっ、ご多忙ですか? ご多忙ですよね? じゃあいいです。


「えっ、そんなん絶対行くんだけど……」


 絶対行くって。


「生の女子中学生と触れあいたい」


 危ないおっさんみたいな動機でカリナが部活に来ることになった。


 生徒たちは喜んだ。


 めでたしめでたし。

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