58話 寛容さの習得

 俺の趣味はBL同人誌の制作指揮だ。


 というよりも、指揮官願望があったのかもしれない。

 たしかに、カリナに『趣味だ』と言われてちょっと冷静にBL同人誌の制作指揮をしている自分を客観的に観察してみたところ、意味がわからないほどハイテンションだし、すごくいきいきしていた。


 俺は誰かを率いるのが好きで、たてたスケジュール通りにことを運ぶのが好きだった。


 なぜかと考えてみれば、『率いる』のも『スケジュール通りにことを運ぶ』のも、今までの百万回の人生でできなかったことだからだろう。


 そしてふと思う。

 かつての人生でできなかったことが、小規模ながらも、今の人生ではできているのだ。


 不和もなく、軋轢もない。

 カリナたちは新人もふくめてよく俺の指揮に従うし、モチベーションも高い。


 ……なるほど、完全に理解した。


 これは――罠だ。


 俺は気持ちよくBL同人誌の制作指揮をしている。

 締め切りがめっちゃ近いので言葉づかいは乱暴になるし、怒鳴るし、みんな極限状態だから泣いたりキレたりするけれど、それでも最終的には俺のたてたスケジュールに従ってみんな動いてくれている。


 これに気をよくした俺を、どこかで裏切ろうという『敵』の算段なのだ。


『敵』はどこにいるのか?


 カリナとそのサークルのメンバーか?

 あるいは同人誌即売会の運営か?


 わからない。


 だが、そろそろ来ると思っていた――俺は油断していた。十九年間、なにごともなかったから、この世界は平和なんだと思い始めていた。

 もちろん緊張を忘れないようにつとめていたけれど、それでも俺の脆弱な精神はすぐに安心したがり、『今』という『恵まれた毎日』を、『当たり前のこと』だと思いこもうとする。


 危なかった。


 油断し、『敵』なんかいないと思ったころにこそ――『敵』は現われるのだ。


 これに気づかず調子にのって、カリナたちへの気配りを忘れようものなら、俺はきっと手ひどい復讐をされ、カリナたちと別離の道を進むところだったろう。


 生ききるためには敵を増やさないことが肝要だ。


 そのためになにができるか?


 俺はパンケーキを焼いた。


 俺たちのスケジュールは意味がわからないほど切迫している。

 むしろ祭り一回ごとにギリギリ感がましていき、『本当にさっさと俺を呼べ。さっさと作業を開始しろ。そのうち「ペンを音速で動かせれば間に合う」ぐらいまで追い詰められるぞマジで』と思っているぐらいなのだが……


 栄養ドリンクとエナジーポーションだけでは気が立つし、肌も荒れるし、心も荒れる。


 俺自身コスプレ衣装作製で時間的余裕はまったくないのだが、それでも俺はパンケーキを焼いた。クリームとフルーツをあしらって、ハチミツをかけた。


 小麦色に焼けたパンケーキの上をトロリとしたハチミツが滑り落ちて……『落とす』は禁句なので……流れていく光景には、ささくれだった精神を保湿する効果がある。


 俺はみんなに呼びかけた。スケジュールに余裕はないけれど、ティータイムにしよう。


 みんな最初はいやがったけれど、無理矢理にでもパンケーキを食べさせ、お茶を飲ませると、それまで張り詰めきっていた精神が弛緩したらしい。空気はなごやかになり、おしゃべりが始まった。


 おしゃべりが終わらない。


 え、いつまで続くの? パンケーキ食べたらいいところで切り上げて充溢した心身で作業に戻ろうよ……

 俺は一人で焦っていた。けれどカリナたちはしゃべり始めると長い……どうしよう、俺が用意したパンケーキのせいでガンガン命にもひとしい時間が失われていく。


 いよいよどう計算しても絶対に締め切りまで間に合わない段階になった時、俺は悟った。


 ――ああ、そうか。すべてに『成功』する必要なんか、ないんだ。


 失敗してもいいんだ。


 俺の人生に足りないのは、『失敗』を許容する寛容さだったんだなって――


 俺は、コピー本用のマックスを人数分用意しながら、思うのだった。

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