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真逆木たまさか
泣く女
糸のような白く細い煙がゆるゆる立ち昇っていく。周りの空気に身を委ね、揺らめいているうちに、端の方から溶けていく。
ロビーにはすでに多くの参列者が集まっている。いずれも黒い衣装で身を包んでおり、数珠を手にしている人がいたり、真珠の首飾りをした女性がいたり、ハンカチが手放せない女性がいたりする。時折赤らんだ目頭を押さえている。
参列者の中に面識ある人はおらず、遺族と対面するのも今日がはじめてだという吉見は、コーヒー片手に壁際に一人佇み、人々の話に聞き耳を立てていた。
人々がそこかしこに点々と集まっている。点というのは、かつて故人も所属していたコミュニティであり、それぞれが吉見の知る由もない思い出話に花を咲かせている。本人がいないのをいいことに、好き勝手言っているようにも聞こえる。頬が緩むことはあっても、笑いの中心をどうしようもなく欠いているので、話に落ちが着くことはない。喋っている途中で声が詰まってしまいあとが続かず、会話はそのまま尻切れトンボになる。尻が切れたことで身軽になったトンボは、透けた羽根をはためかせて、首尾よく開いた自動ドアの隙間から屋外へと飛び去っていった。
話に耳を傾けているうちに、故人がそれぞれの場所で築いていた関係性というものが見えてきた。ところ変われば、人もまた変わる。早い話が、そういうことらしかった。呼び名からして多様だった。苗字にさん付けだったり、下の名前だったり、変なニックネームだったり。
ところで当人はというと、祭壇手前の棺の中。両手は胸の上で組まれ、頭を北にし、寝かしつけられている。供えられた茶碗には、ご飯が山盛りによそわれ、その頂に箸が突き刺さっている。
各コミュニティによって交わされる話題は当然異なる。仕事のこと、趣味のこと、過去の、あるいは最近のこと。そのどれもに故人の人となりが垣間見られる。時として本当に同じ人物のエピソードなのか、疑う余地があるくらいに内容は多岐にわたっていた。それほどまでに各自が思い思いの印象を持っていた。人間というもの、多面性があり、相対する人が変われば、見え方も変わってくるということらしい。吉見はそのうちの一側面、横顔しか見ていなかったのだということに、今頃になって気がついた。するとどうだろう、この場における故人像とはまるで……。
自動ドアが開いたので何気なくそちらへ目をやると、知った顔が入ってきた。少し遅れてあちらも、吉見の存在を認めた。出入り口付近に設けられた受付で記帳して、香典を渡すなり真っ直ぐこちらに向かってきた。
「あれ、抹香臭いのが苦手だから行かないとか、誰かさん言ってなかったっけ?」
近づいてきた日下に言う。
「来るつもりはなかったんだけどな。でもあとになって、やっぱ行っときゃよかった、なんて後悔しても、もう遅いだろ?」
「それはそうだ」
「しかしなんだ? 開始時刻は過ぎているから、てっきりすでにはじまっているものかと思ったんだが……そうでもないみたいだな」
「どうも、経をあげる人間が渋滞に巻き込まれているらしい」
さっき小耳に挟んだ情報を教える。
「それじゃあ、はじめたくてもはじまらないな。俺もコーヒー欲しい」
コーヒーサーバーの在り処を指差して、ついでにおかわりを頼む。
しばらくして、両手にコップを持って戻ってきた。
「それにしても、葬式だけは慣れないな。誰のであろうと、何度となく来ていたとしても、場違いなところにいるような、そんな感じがする」
「慣れてしまうよりはマシだ」
「それはそうなんだけどさ」
「せっかく来たことなんだし、とりあえず挨拶くらいしてこいよ」
ん、そうする。日下はそう言って、コップを持ったまま祭壇に歩み寄っていく。そばに座る遺族に声をかける。顔を拝もうという段になって、コップを手にしてることに気づいた日下は、慌てて置き場所を探す。どうするものかと見守っていると、整列した先頭の椅子に置いた。
故人に両手を合わせ、片膝をついて白布の角を摘み上げ、面と向かう。ややあって、もとあったように顔を白布で覆い隠した。コップを忘れずに持って帰ってくる。
「今の今まであいつの顔をまじまじ見たことなかったかもしれん……あんな顔をしてたんだな」
僧侶の姿が見えたので二人は、残ったコーヒーを一息に飲み干す。参列者は話を切り上げて、三々五々式場の中へと入っていく。吉見はその流れに逆らい、反対方向へと足を向けた。どこに行くんだ? 日下の声を背中で聞く。
「ちょっと花を摘みに」
式が執り行われる会場に吉見が足を踏み入れると、こっちこっちと最後列に座る日下が手招くので、その隣の席に着いた。
祭壇の正面に陣取った僧侶は、身の周りの支度をしている。座布団の上の木魚を叩き易い位置に調整する。二度、三度と試し打ちして音の感触を確かめる。
参列者皆着席をし、自身も準備を済ませたところで、僧侶が祭壇を背にして、「これより葬式の儀を執り行わさせていただきます。読経の途中、促しますので、そうしましたら喪主の方から、続いて御遺族様、御親族様。そのあとは、お席の前の方より順にお二人づつ御焼香して下さい」
祭壇に向き直り、蛇腹に折り畳まれた経を机の上に広げる。磨き抜かれたつややかな禿頭が照明を跳ね返す。撥で木魚の腹を一定のリズムで叩き、打音に合わせて経を、抑揚のない一本調子で読み上げていく。
一通り読み終えた折、それでは御焼香をお願いします。と、僧侶が手を差し伸べた。喪主が立ち上がり参列者に一礼し、続けて僧侶に一礼をくれる。祭壇に向かって合掌する。香を摘み、額に押しいただき、香炉に振りかける。二度三度と繰り返し、合掌をする。再度僧侶に対して、参列者に対して一礼をし、席に着いた。
あとに続く人たちも粛々と、同様の手続きをひたすらに踏んでいく。
変化に乏しい単調な反復に吉見は、いつしか眠気に襲われる。うつらうつらと半分眠りながらも直観する。この場における故人像とはまるで、キュビズムのようだ。
ポクポクポクという木魚の、間の抜けたリズムが呼び水となって、考え事していたことを思い出す。
人に対して抱く印象というのはつまるところ、その人の断片でしかない。普段は四方八方に散らばっており、自分の手元にあるのが一欠片であることにも気づかない。しかし今この場には、各自が持ち寄ったことにより一ヶ所に集まっている。的なことを考えた末に思い当たったのが、キュビズム。様々な人々が持つ破片の寄せ集めだから、もはや原型を留めないほど歪な顔になっている。吉見はそこに、きらびやかに乱反射する多彩な表情を見た。
反面、故人は自分自身をどういう風に捉えていたのかという自意識、内面は、他者が思い描く絵の表面には現れてこない。そして、窺い知る機会は永久に失われた。
脇腹に鈍い痛みが走る。
痛みの原因は、日下の肘打ちだった。吉見は、口角に溜まった唾をすする。
ようやく末席にまで順番が回ってきた。参列者が座る席の間を進む。参列者に一礼、僧侶に一礼、祭壇に合掌。三本指で香を摘み、額に押しいただいて、香も積もれば山と化した燻ぶる香炉に落とす。それを二度三度と繰り返す。合掌をし、僧侶に、参列者に一礼する。折り返して席へと戻る。指先にはざらつきが残った。
僧侶は最後の一行を一音一音、はっきりと区切りをつけて発音し、仕上げに輪を一つ鳴らす。澄んだ金属音が空間に響く。音の余韻が雲散し、静寂が訪れる。
僧侶が、「礼拝」と発した。
棺の中には、故人の思い出の品々が納められている。その上から一人ひとりが供花を、故人に別れの言葉をかけながら置いていく。一面が白や黄色の花に覆われ、顔だけがぽっかりと浮かぶ。
蓋が被せられる。葬儀屋があちこちに釘を打ち込んで封をする。男数人がかりで棺を持ち上げ、慎重な足取りで運び、霊柩車に無事納める。
喪主が参列者の前に歩み出る。おもむろに内ポケットから四つ折りにした紙片を取り出した。故人の最期の様子と遺族の今後の生活について、したためてきた文章を滔々と読み上げる。
位牌を抱えた喪主は霊柩車の助手席に、遺族、親族はマイクロバスにそれぞれ乗り込む。クラクションが一つ、どこまでも高く鳴り響き、出発した。二つ目の交差点を右に折れ、車体が見えなくなった。残された人たちは互いに顔を見合わせたりなんかして、建物の中へと引き返していく。吉見は、玄関先に据え置かれたスタンド灰皿に歩み寄る。ポケットから取り出した箱を叩き、煙草をくわえ、ライターで火を点ける。吐き出した煙の行方をなんとはなしに眺めていると、日下が建物から出てきた。
「お前外にいたのか、探したよ。隣にいるものだと思ってずっと喋りかけていた」
おかげで恥かいた、と難癖をつけられる。詫びに一本よこせ。そう言うので不本意ながらも差し出して、ついでに口元に火を持っていってやる。
階段の手摺に腰の落ち着かせどころを探しながら日下は、上の空を眺めている吉見に訊ねる。「上になにかあるのか?」
「いや、雨が降っていないなと思って」
雲一つない青空が広がっていた。
「涙雨ってやつか。感傷的だな。ま、無理もないか。場所が場所だけに」
感傷的というよりは、むしろ内省的な気分だった。
「俺が葬式に参列すると決まって雨が降っているものだから、晴れているというのは珍しいんだ。感傷的かどうかは別として」
吉見は間延びした時間を埋め合わせるかのようにして、踵を上げ、胸を反らし、背筋を伸ばす。さて、行きますか。誰にともなくつぶやくと、すかさず日下が訊いてきた。
「行くって、どこによ?」
「仕事だよ」
呆れ顔を見せる。「ワーカホリックもほどほどにしろよ」
二人は斎場をあとにし、最寄り駅へと歩いて向かう。
日下は吊り革を両手で握っている。それはどこか、祈っているようにも見えた。
「仕事は相変わらずか?」と日下。
「代わり映えはしないな。いつも通りの毎日で、決まったラベルのビールを飲んで一日が終わる」
「俺もそうだ。日々決まったルーティンを淡々とただ繰り返すだけになっている」
以前会った時にも同じようなやりとりをした覚えがある。
「さて、どうすればこの螺旋階段のような毎日から抜け出せるのかね。目の前には灰色の段差しかない。グレーな毎日だ」
辟易とした言い草とは裏腹に、日下の顔には笑みが浮かんでいる。
「階段というからには、とりあえず上昇はしているんだろ?」
「とりあえずは、な」
「だったら、目先を変えてみるのはどうだ?」
「というと?」
「段差しかないとか言っていたが、さすがに窓くらいはあるだろ? そこから外を眺めてみれば、ほら、昨日よりも高いところから地上を見下せるようになっている」
吉見の顔を見て、次の瞬間笑い出した。哄笑するがために日下は、ほかの乗客の注目を一身に集めてしまう。特別面白いことを言ったつもりもないのに、なぜこうなるのかわからない。
「それは言えてる。状況が変わらないのであれば、それはそれで、置かれた状況の中から新しい楽しみを見つける」
「そうそう」
「もしくは」日下が耳打ちをする。……いっそ飛び下りてしまうか。
冗談だよ。すぐに否定をし、笑い飛ばしたかと思うと、急に真顔になった。「いや、ゴメン。さすがに不謹慎だった」
電車は乗り換える駅に到着する。一緒に降りた日下が別れる間際に言う。
「さっきああは言ったけどさ、つい口走っただけだから、あんまり気にするなよ。じゃあまたな」
エスカレーターに乗った日下は、光り差す地上へと上昇していく。
吉見はエスカレーターで地下へと潜っていき、タイミングよく滑り込んできた電車に乗り込む。吊り革を握り、ふと顔を上げると、窓ガラスに映る自分と目が合った。そこにはなんの感情もなかった。
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