第30話 田中という男 2

 公安警察という役柄の仰々しさとは裏腹に、田中の居場所はいたって普通のマンションだった。

 一般人が勝手に、公安警察というものを妄想して、格好の良いものだと思い込んでいるだけで、実のところ警察組織の一人に過ぎないということだ。

 警察官のエリートともなると、普通よりも良い家に住んでいるのだろうな、なんていうのは単なる僕の思い込みに過ぎなかった。

「エリートなんてこんなもんなのか?」

 少しだけ現実の厳しさを思い知らされた。どれだけ勉強が出来て、仕事が出来て、人よりも特殊な仕事をしていようと、その他大勢と大して変わらないという現実だ。――命を張っているというのに。


「普通というのはとても有難いことなのですよ。この地球上で、どれだけの人が普通に暮らせているか、考えてもみてください。きっと全人類の半数にもみたないでしょうね……」

「いやいや、ここは日本ですから……」


 先輩の言いたいこともわかるが、どこか遠い誰かのことを言われても、僕にはイメージすることすら出来ない。確かに、紛争地帯の人々は普通に暮らすことすら出来ないのかもしれないが、ここは日本なのだから。

 ともかく、この話はもうやめておこう。まじめな先輩に、この手の話はしても時間の無駄だ。努力というものを本当の意味で知らない人だ。

 努力している状態がずっと続いている人にとっては、努力自体が普通なことだからな。


「人を熱血馬鹿みたいに言わないでもらえますか?」

「どちらかといえば、冷徹馬鹿です」

「時々、誠君は意味不明なことを言ったり、したりしますよね……突然人の胸を揉んでみたり」


 険しい顔で先輩は僕を見ている。柄にもなく怒っているのかもしれない。

 弁解するべきなのだろうが、僕は適当な言い訳を思いつかず、ある意味では適当な返事をする。


「弱者の反撃ですよ」

「ただの犯罪行為です。私以外には絶対にしちゃダメですからね」

「それは告白ととってもよろしいですか!?」


 毎日私の胸をもんでください的な? そんなバラ色の学園生活が僕に待っているとでも言うのだろうか……いや、ありうる。


「――よろしくありません! 誠君はこういった緊張するべき場面ではいつもふざけますが……もしかして、緊張しています?」


 確信をつかれて、僕は少しだけはっとする。


「まさか、そんなわけないじゃないですか!」


 しまった……まさか先輩の緊張をほぐすためにふざけているなんて言えるはずもない。

「やっぱり?」

「しまった……」

 僕レベルにもなると、ちょっと頭をよぎっただけでも先輩にはばれてしまうというのに、なんて愚かなのだ。もっと心を律する力を鍛えておかなければならかったというのに……

「だから柄にもないことをいつもしていたんですね」

「そんなわけないでしょう」

「ふふ、そういうことにしておきましょう」

 先輩は少しだけ微笑むと、僕から顔をそむけて肩を震わしている。

 もしかしなくても笑っているのだろう。僕らしからぬ一面に、爆笑しているに違いない。


「もういいですよ……」

「笑ってませんって、不意打ちでしたからこちらも一つだけ心の内を教えてあげます。――ありがとう、うれしいです」


 全くこちらを振り向かず、先輩はそういった。

 彼女の言葉に嘘はない。だからだろうか、何となく、胸のあたりが温かいような錯覚に襲われた。悪くない感覚だ。

 僕は思わず微笑んだ。


「僕たちのこれ……まるで、ラスボスの前でのやり取りみたいですね」

「実際間違いではありませんからね」


 先輩から返ってきた言葉に、僕は大きく唾を飲み込んだ。ゴクリという音はもしかしたら先輩にすら聞こえたかもしれない。何せ、先ほどから車一台、人ひとり通らない。まだ昼過ぎだから、たまたまということもあり得るが、どうしてだか、それが異常なように感じた。

 それほどまでに、今回ばかりは緊張しているのかもしれない。ただ一人の男と会う、それだけのことに過ぎない。だが、それはこの上なく恐ろしいことのようにも感じるし、些細なことですら異様に感じる。

 宮下の時もそうだったが、今回は彼女より明らかに格上であり、能力がまるで通用しないかもしれない相手だ。そう考えると、僕を襲い続けている悪寒も納得できるものだろう。

 だが、立ち止まってばかりいるということもできない。僕は先輩よりも先に足を進める。


「行きますよ?」


 先輩に対して問いかける。

 言葉はかえってこないが、先輩はわずかに頭を下げた。頷いたのだろう。それを確認すると同時に、僕はマンションのドアを押す。

 両開きのドアには『押してください』と書かれたシールが張られている。ガラス張りのドアはきれいに手入れされていて、指紋ひとつついていない。今思えば、この時に気がつくべきだった。

 そんなことに気がつくのが自分の異常さから来るものではないということに。


「待っていたよ……」


 僕たちが中に入り、ドアが閉じるとほぼ同時に、どこかから声が聞こえてきた。

 あわててあたりを見渡すが、人の姿なんてものはどこにもない。

「どこだ?」

 あたりを警戒しつつも、僕は声の主に問いかける。もし友好的な人物であるのなら、姿を現すはずだ。

 先輩はドアが開くかどうかを確認している。密閉空間で敵と戦うことになれば、どのような危険があるかわからないし、逃げることもできないからだ。だが、残念なことにドアは開かないようだ。前にも後ろにも横にも動かない。


「警戒する必要はないよ。少なくとも君たちに敵対するものじゃない」

「あんたは……」


 奥の方に見えていた階段から、男が一人下りてきた。見覚えのあるスーツ姿の男だ。

 実のところ、こんな昼間から自宅にいるとは思ってもいなかったから、ありがたい。それにお出迎えまでしてくれるとは至れり尽くせりだ。


「――田中さん。あなたの正体は知っています」

「そのことについては申し訳ない。だが、正体を名乗る権限は私にはなかったものでね……だがこれでようやく本題に入れるよ」

「私の能力も通じなくなっていますね」

「実のところかなり難しいけど、技術の応用というやつだよ。ただ、どちらも不完全だ。ファンタジー生物の能力を完全に封じ込めるのは現状不可能だ。君たち二人にしたって、十数年もの研究を重ねたうえで、ようやくわずかに封じることができる程度のものでしかない。それに、あまり長くはできないしね」


 田中は肩が凝っているのか、首を軽く回しながら、悔しそうに言った。


「そんなことはいいです。私たちに依頼した事件のことについて教えてください」

「ああ、それはもっと落ち着くところで話したい。あまり広くはないが私の部屋までご足労願おうかな。まあ私のといっても、借り物だけどね」


 先輩の真剣さと、田中の陽気さは明らかにかみ合っていない。田中はわざと合わせていないのだろう。僕たちの冷静さを欠くために。

 先輩はともかく、僕ごとき男なら相手の術中にはまってしまうかもしれない。

 いっそう警戒しておかなければ。


「そう警戒する必要はない。さあ、人類の英知とでも言うべきエレベーターで行くとしよう。階段で上ったのでは何時間かかるか分かったものじゃない。――特に私のような老体ではね」

「あんたは老体なんていえるような歳でもないだろう?」

「まあね。でも君たちの倍以上は生きている。少しぐらいはいたわってくれても罰は当たらないよ」


 前会った時はもっと営業的なしゃべり方だった。あれはあれであまり快いものではなかったが、ここまで子ども扱いしたようなしゃべり方をされると、不愉快だ。

……ダメだ。相手のペースに乗せられてはいけない。


「……いいからのりなよ。エレベーターだっていつまでも待ってはくれないからね」

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