第5話 海と缶コーヒー、女の子ー1

 それから1週間が経った。雫ちゃんによると診療所に来た翌日朝早くに退院して元気に帰っていったとのことだった。それ以来海であの子は見ていない。

 今日は休日だった。早朝、俺は散歩がてら海に来ていた。100円玉で変えるぬくもりこと、熱い缶coffeeを握りしめ海を眺める。バイクは盗んでいない。

 この海には、満月の日に近づくと帰ってこられなくなるという伝説があるとじいちゃんからいつか聞いた。幼かった俺はその言葉に震え上がり、海に近づくときは月の満ち欠けを確かめることが習慣になっている。

「まぁ、ただの伝承みたいなもんなんだろうけどなぁ。……にがっ」

 大人ぶってブラックを飲むがやはり苦い。なぜ男は誰も見てないのにかっこつけようとしてしまうのだろう。これってトリビアの種にならないかな。

 風が強くなって冷え込んできた。家にいるといろいろと考え込んでしまって暗い気持ちになるからと出てきた。俺の性格上、こちらから雫ちゃんに連絡することは一度としてないしこれからもないだろう。Xデー以外の俺の休日はいつも一人だった。

 高校の頃はどうしていたっけな。──絵を描いていた。毎日毎日飽きもせず、3人しかいない美術部と変な顧問。静かな美術室で放課後や、土日や、朝早く、絵を描いていた。

「......帰るか」

 俺は残っていたコーヒーを喉に流し込んだ。いっそう苦く感じた。そのときだった。


「あー!」

 幼い少女がこちらを指さして、一人で立っていた。見間違えるはずもない、あの子だった。

 少女はとことここちらに歩いてきて、にっこり笑って言った。

「おにーちゃん、このまえはたすけてくれてありがとう!」

 なぜだか胸が温かくなった。目頭が熱くなる。

「覚えて、いたのか」

「うん!」

 ありがとう、なんて言葉をかけられたのはいつぶりだろう。打算のいっさいない、ただ純粋な感謝の気持ちを伝える言葉。


 幼い頃の記憶がフラッシュバックする。「ははのひ」の文字の隣に上手とは言えない、でも一生懸命書いた似顔絵。

「おかあさん、いつもありがとう!」

 母さんはとても嬉しそうな顔をしながら俺の頭を撫でてくれた。それから、俺は絵を描くのが大好きになった。


 でも、それから少ししてそんな幸せは二度と手に入らなくなった。


 俺は、目の前の少女にそんな自分の姿を重ねていた。おそらくこの子も訳アリだ。あの父親を見ればわかる。だからこそ、この子には俺のようになってほしくないと思った。幸せになってほしいと思った。俺がなくしてしまった気持ちを、なくしてほしくないと思った。


 少女は元気よく言う。

「あやめ!」

「あやめ?」

「わたしのなまえ!」

「あやめ……いい、名前だね」

「うん!」


 こうして、俺とあやめちゃんの休日がはじまった。

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