竜宮少女

藍色きつね

第1話 邂逅

 浦島太郎は乙姫様との3年間の結婚生活ののち、残してきた両親のことが気がかりで帰ったらしい。そうして過去も未来も失った。ずっと夢を見られるならその方がいいに決まってるのに、なぜ彼は帰ろうと思ってしまったのだろう。

「俺も竜宮城で暮らしたいなぁ」

 誰に言うわけでもなく一人呟き職場に向かう。高校を卒業してすぐ社会人になった俺に一回目の冬が訪れる。海に面したこの町は、雪こそ年に数回しか降らないが凍えるような風が海から絶え間なく吹き付ける。そんな町だ。

 いつものように海岸線に沿ってバイクを走らせ、着いたら駐車場に停め、自分のロッカーに荷物を入れる。毎日同じことの繰り返し。正直こんな仕事いますぐにでも辞めてやりたい。しかし玉手箱より貯金箱だ。じいちゃんとばあちゃんを路頭に迷わせるわけにはいかない。俺には竜宮城に行く資格なんてないのだ。

 早くに両親を亡くした俺をじいちゃんとばあちゃんは一生懸命育ててくれた。高校時代、漠然と持っていた絵描きになるという夢は目の前の具体的な現実と天秤にかけたときにあっさりと霧散して、まぁ人生そんなもんだよなとか若気の至りとか言って心の押し入れにしまい込んだ。そう、人生そんなもんだ。いつしかそれが口癖になっていた。

「……っと。もうすぐ始業時間か」

 物思いにふけるのは仕事が終わってからだ。今日も長い一日が始まる。

 

「ったく佐藤よぉ。お前ここに入ってどのくらいよぉ?」

「……9か月です」

「だろぉ? そんくらいあったら赤ちゃんだって大人になるぞ?おい。いい加減仕事、お・ぼ・え・ろ・よ・な」

「……すんません」

 9か月間工場で手を動かし俺が学んだのはどうやら俺は仕事ができない部類らしい、ということだった。部品が全部同じに見える。意味のないチェック作業を何度もやらされる。単純作業が苦手な俺にとってミスをしないことは綱渡りのように難しいことだった。

「いいか、この部品は底を見るんだよ! ……ったくなにぼーっと見てんだよメモ取れメモ!」

「おいおい羽鳥、もう少し優しい教え方はできんのか? 佐藤はゆっくり覚えていけばいいさ。まだ若いんだしな」

 俺の指導担当である3年目の羽鳥さんを20年目の熊谷くまがやさんがたしなめる。羽鳥……いや羽鳥さんは、だってこいつ覚える気ねぇんすもん―とかぼやいてる。

 俺はその会話を遠くにいるようにぼんやり聞いていた。くだらない。この工場の中でしか通用しない知識をさも世界の真理のように振りかざす先輩も。特に意味のない生温い言葉で優しい人間になっているその先輩も。寒気がする。

 

 イライラを募らせながら仕事を終え、凍える体を震わせながらバイクを走らせる。仕事は好きではないが、海岸線に沿って走るこの時間は嫌いではなかった。朝は日差しがきらめき夜は月明かりが反射する、だだっ広いこの海は俺のことなど気にもせず悠然と揺れている。その距離感が心地よかった。

 毎日見ていた海だから、その日はいつも見ない存在にすぐ気が付いた。月明かりに照らされて一本の影が伸びている。小さな女の子が海に向かって立っていたのだった。祈りを捧げるように。こんな夜更けに……? 親は何をしているんだろうと心配になりながらも、近頃は声をかけただけで事案になるしと誰にするでもない言い訳をして通り過ぎた。

 

弥生やよい、おかえり。寒かったろうに、晩ごはんできてるよ」

「ああ、食べるよ」

 ばあちゃんが出迎えてくれ、食卓につく。弥生とは俺の名前だ。死んだ両親が俺に残したもののひとつだ。女のような名前とからかわれることもあるが俺はこの名前を気に入っている。ばあちゃんは俺のコートをかけながらこちらを伺うように尋ねる。

「仕事の方はどうなんだい、嫌なこととかないかい。周りの人とはうまくいってるのかい」

 ……またその話か。気まずくなると出る貧乏ゆすりのクセが顔を出す。

「……別に」

「でも弥生、いつも辛そうな顔してるからばあちゃん心配でねぇ……。ばあちゃんにできることがあったら言ってね」

 貧乏ゆすりがだんだん激しくなる。

「……ないよ」

「え?」

 貧乏ゆすりが止まる。

「嫌なことがあるとか周りと上手くいかないとか、辛いとか、別に普通だから。……ごちそうさま」

「弥生……」

 ばあちゃんは半分以上残された夕食を悲しそうに見つめていた。俺にはどうすることもできなかった。

 

 本当はわかっていた。羽鳥さんも熊谷さんも早く仕事が覚えられるようにこんな俺を根気強く指導してくれていることも。じいちゃんもばあちゃんも俺を心配してくれていること、優しくしなければならないことも。本当に寒気がするのは自分自身に対してだった。いろんなことにイライラして、現実を知ったような気になってその実受け入れられてなくて、目の前にある優しさをないがしろにして。

 放っておいてほしかった。こんな人間に構わないでほしかった。生きているだけで惨めに思えた。

 

 翌日何事もなかったように朝ご飯を用意し、いってらっしゃいと笑顔で送り出すばあちゃんにやりきれない気持ちを感じながら工場へ向かう。ごめんなさい、ごめんなさい。心の中で何度も唱えた言葉はついに口から出ることはなかった。

 

 そんな毎日を繰り返した。変化と言えばあの日から夜の海で例の女の子を毎日見かけるようになったことだ。6歳くらいだろうか。背丈の割に大人びた表情を受かべ毎日海に祈る彼女が俺は気になっていた。

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