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「あそこはここを魔王領にしたあとも、ずっと場所を知られるわけにはいかないのよ。なにせ召喚者ったら、非力なのに再生能力だけは一流なんだもの。私の眷属だって、さすがにあそこまでじゃないわ。だから場所がわからず、手出しのしようがない拠点というものが必要なの。そこでじっくり、彼らには私たちの養分になってもらわなくてはね」

「ふん、召喚者か。儂がこんなところに押し込められている間に、ずいぶんと街でも幅を聞かせているらしいじゃないか。女神アスタリアの使いらしいが、全く、厄介なものじゃ」

「安心なさい。魔王様がこの地をお納めになった暁には、召喚者は全員、檻に入ってもらうわ。――フフフ、楽しみだわ。ここを拠点にできれば、魔王様の勢力図もさらに広めることができる。そうなればあの方から、どのような褒美をいただけるか」


 魔王という言葉が出た瞬間、ついに耳をそばだたせていた二人の兵士の顔が、驚嘆の色に染まった。いつの間にか横で同じように話を盗み聞きしていた赤毛など、いまにも倒れそうである。お互い、自分の耳がおかしくなっただけであればどんなに良かったかと思惟したが、対面する相手が、それが淡い期待でしかないことを雄弁に語っていた。


 先に邸宅へ忍び寄った黒髪の男が、来た道に向けて親指を突き出した。『逃げるぞ』という合図だ。この事実を、できるだけ早く領主フランキスカに伝える必要があった。意思を汲み取った赤毛がこくりと頷く。まさか魔王と手を結ぶ者が、この街から出るとは……。

 ――だがそのとき、


「盗み聞きは済んだかしら?」


 自分たちの頭上から声が響いた。

 全身が粟立ち、恐怖で叫び声すら出なかった。


 全く気配を感じなかった。壁に近寄り、窓を開き、自分たちに声をかける。その一連の動作すべてを、全く感じ取ることができなかったのだ。まるで突然、暗闇のなかから声だけが生まれたような感覚だった。だが違った。反射的に見上げた頭上には、確かに実態を持った人間が、こちらを見下ろしていた。

 その怪しく光る金色の目を見た瞬間、赤毛がついに悲鳴を上げる。


「ひっ、ひぃぃいいい!」


 自分の置かれた状況を遅れて理解し、一目散に駆け出す。腰は引け、足はつっかえ、声にならない声を上げながら。それは格式高いウィスフェンド兵の尊厳をかなぐり捨てるような逃走だった。だがそのような努力も、


「あらあら、そんなに焦らないで。せっかくいらしたんですもの、あなたも楽しみましょう?」


 一瞬のうちに眼前に移動した窓際の相手により、霧散して消えた。

 絶世の美女といって過言ではない女性だった。髪はすとんと腰まで伸びるストレートで、パレオを纏った肌色の多い格好が、いやが応にも男の目を引く。そしてその中でも一際目を引くのが、自分たちを見下ろしていた、あの妖艶な金の瞳だった。目を奪われるような双眸が、なぜか視界の悪い暗闇のなかで、煌々と光って見えた。

 そして赤毛の動きが止まった瞬間、女性の右腕が一瞬ぶれた。男は自分の目が、ついにおかしくなったのかと思った。なぜならその違和感とともに、自分の視界がぐらりと傾いたからだ。


 ずしゃりという重たい音とともに、ついに視界が地面と水平になった。先ほどまで恐怖の対象だった相手が、もう足元しか見えない。次いで、灼けるような熱さが腹部から来た。


「あ、ひ……?」


 盛大に自分のなかの物が、外界へ放出される感覚がわかった。男は素っ頓狂な声を上げながら、大粒の汗を一気に吹き出した。己の置かれた状況が、ようやく理解できたのだ。


 どうやったのかはわからないが、体が鎧ごと真っ二つに両断されていた。


 そんなことができる武器を持っているようには見えなかった。彼女は華奢な体で、薄いパレオを纏っているだけだったのだ。どこに評判高いウィスフェンド正規兵に支給される鎧を真っ二つにする獲物を持っていたというのか。


 しかしそんな疑問は、二の次だった。彼はただ祈った。この灼けるように熱く、快感ですらある己の内腑を露出する感覚が終わったあとに起こることが、激痛ではなく、安らかな死であることを。そしてそれは、果たして叶えられた。


「本当はきちんと痛みを差し上げたかったのだけど、ごめんなさい。いまは騒動を起こしては不味いの。味気ないけど、これで勘弁して頂戴」


 再び彼女の腕がぶれると、赤毛の意識はそこで途絶えた。視界が暗転する瞬間、首に熱い感覚と、さらに頭が地面に崩れることだけがわかった。

 絶命して事切れた男に対して、悠然と立ち尽くしながら彼女は次の標的を見た。


「あ……あ……」


 残されたもう黒髪の兵士は、もはや何もすることができなかった。足が自分のものではないように震え、全く制御ができなかった。立っていられるだけでも信じられないほどだった。


 そんな彼に向き直ると、さくさくと草をふみ歩きながら、まるで昼食後の散歩でもするように、銀髪の女性はゆっくりと近寄った。礼節さを感じる歩行だった。手を前で重ね、粛々と近寄ってくる相手に対して――確実に己の命を奪う相手に対して――兵士は釘付けになった。いままで出会ったどの女性よりも遥かに美しく、蠱惑的だった。城塞都市の守り手として恥ずべき思いだが、彼女の手で苦痛なく死ねるのなら、それは男としてとても幸福なことなのではないかとすら思った。


 だがその瞬間、けたたましい音とともに、後頭部に衝撃が来た。

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