ロジャー・イーバートのジブリ映画レビュー翻訳集
繰栖良
となりのトトロ ★★★★ | 2001年12月23日
(訳注:イーバート氏は論評のうえでおばあちゃんをメイドないし乳母と誤解されていますが、論評の内容はそのまま訳します)
これは私たちが生きる世界ではなく、私たちが生きるべき世界のために作られた子供向け映画です。映画に悪役はいません。戦闘シーンもありません。悪い大人もいません。2人の子供の戦いはありません。怖いモンスターもいません。夜明け前の暗闇もありません。優しさに満ちた世界なのです。森のなかで風変りで大きな生き物に出会うと、おなかの上で丸まって昼寝をする世界なのです。
「となりのトトロ」は、これまで(訳注:米国内では)十分に宣伝も広告も行われていませんでしたが、長らくビデオのベストセラーであるうちに、すべての家族向け映画の中で最も愛されている作品の1つになりました。IMDbでは、家族向け映画オールタイムベスト5にランクインしており、「トイ・ストーリー2」「シュレック」をしのいでいます。新しいアニメ・エンサイクロペディアは、これまでで最高の日本のアニメ映画と評しております(訳注:元記事執筆当時)。私はそれを見るたびに、本当に、本当に、本当に笑みがこぼれます。
本作は、しばしば日本で最も偉大なアニメーターとされる宮崎駿が愛情を込めて手がけた作品の1つです。スタジオジブリの彼の同僚である高畑勲も、彼と同様最高のアニメーターです。特筆すべきは、この「トトロ」と高畑の「火垂るの墓」の双方素晴らしい映画のセレクションが、1988年に同時上映で公開されたことです。宮崎はアニメーション映画を手がけるにあたり、ごく最近まではコンピューターの恩恵を用いていませんでした。昔ながらの古典的な方法で1枚ずつ描かれ、何万ものフレームを巨匠自身が提供します。
日本ではアニメーションは大規模産業であり、数年前から興行収益の4分の1を占めています。宮崎は「日本のディズニー」だと言われていますが、それは少し違うと思われます。ウォルト・ディズニーはアニメーターというよりも先見の明にたけたプロデューサーでありますが、宮崎は自分の袖をまくり、手ずから映画を描きます。彼の「もののけ姫」(1999)は日本で「タイタニック」の興業記録を抜き、彼の最新映画「千と千尋の神隠し」(2002)は2001年7月に公開されたときに「もののけ姫」の記録を抜きました。米国で最もよく知られている他の9つ中の主な映画は、「魔女の宅急便」(1989)、「天空の城ラピュタ」(1986)、「風の谷のナウシカ」(1984)および「ルパン三世 カリオストロの城」(1979年)です。
宮崎の映画は何よりも視覚面で魅惑的で、背景に水彩画の外観を用い、濁点ほど小さな点や洞穴ほど大きな丸い目と口を持つキャラクターが日本アニメ独特の伝統の中でいきづいています。登場人物が何かに気づく所作でもリアリズムに縛られていません。例えば「トトロ」の序盤、2人は家のそばにある小滝の底の気づきにくいところに、誰かが小川に投げ入れた瓶を見つけます。
この映画は、2人の小さな姉妹、草壁家のサツキとメイの物語です。物語のはじめ、彼らのお父さんは2人と一緒に広大な森のそばの小さな新居へ車を走らせています。病気のお母さんがこの地区の病院に移されたのです。それについて考えてみましょう。この映画は、あらゆるアメリカのアニメ映画が用いてきた2人の少年あるいは少年少女の話ではなく、2人の少女に関する物語です。近年のハリウッドの悪辣ないし不在の父親とは対照的に、強くて愛情深いお父さんがいます。一家のお母さんは病気ですが、病気というのはアメリカのアニメーションになかなか存在しない要素です。
彼らが近所の少年(カンタ)に新居の場所を尋ねます。彼は怪訝な顔をします。その理由を観客は知っていますが、一家は知りません。後で彼は一家に彼らの新居がおばけ屋敷であると言います。しかし、アメリカ映画でよく見るおばけ屋敷とは違い恐いものではありません。メイとサツキが暗がりに光を放つと、ちらちらと安全な場所まで走り回る小さく可愛い黒いつぶつぶを見つけます。「小さいウサギかもしれないね」と彼らのお父さんは言いますが、彼らの世話をするために雇われたおばあちゃん(訳注:冒頭記述参照)がいて、彼女はそのつぶつぶが「ススワタリ」であり、今引っ越しの準備をしていて、笑い声が聞こえたら去っていくことを明かします。
子供たちが最初に家についた時の所作を考えてみましょう。玄関にほとんど腐敗している柱があり、彼らはそれを少し前後に押して、柱がいかに不安定に屋根を支えているかを示しています。しかし屋根は保たれます。大きな音を立てて派手に崩壊するクリシェを避け、子供たちは安全に走り回ります。彼らが家の中を覗いて屋根裏部屋を探索すると、ある種の恐ろしさがあっても、窓を引き上げ2階からお父さんに手を振りそれを消散させます。
もう一つ、お父さんが冷静に不思議な生き物の報告を受け入れていることを考えてみましょう。ススワタリやトトロは実在するのでしょうか?彼らは実際女の子たちの心の中にだけ存在するものです。ねこバスなど、他のすばらしい生き物も同様です。ねこバスは8本の手足で森を走り抜け、大きな目がヘッドライトになっています。
批評家のロバート・プラモンドンはこう言います。「大人が自分自身を信じているかどうか判断するのは少々難しいですが、宮崎は「大人はうそつきだから、自分たちが世界を救わなきゃ」などという子供じみた陳腐な話を一度たりとも見せびらかしません。伝統的な日本人の精神生物に対する受容のしかたと我々のそれと2つの文化間に、興味深い違いがあるのかもしれません」
「となりのトトロ」は、対立や脅威ではなく、経験、状況、探検に基づいています。これは、愛しいトトロたちが登場する場面になって明らかになります。トトロは日本の神話の生き物ではなく、宮崎によってこの映画のために生み出されました。
妹のメイはまず小トトロを見つけます。ウサギのようなルックスで、庭を走り回り、森の中へといざないます。彼女のお父さんは一人で家におり、仕事に夢中になっていて、彼女がいないことに気付きません。小トトロは彼女を緑豊かなトンネルに導きます。そして、眠っている生き物の大きなおなかに柔らかく着地します。宮崎は、暗く恐ろしい森に関するクリシェは用いません。サツキと彼女のお父さんがメイを探しに行くと、彼らは大事もなく地べたに寝ている彼女を見つけます。トトロは姿を消していました。
その後、少女たちはお父さんの乗るバスを迎えに行きます。しかし、時間はどんどん経ち、森は暗くなります。静かに、さりげなく、巨大なトトロがバス停で彼らに加わり、イマジナリーフレンドのように片側に守るように立ちます。雨が降り始めます。少女たちは傘を持っており、トトロに1つ与え、雨の中傘をさせることを喜び、ジャンプして木々から雨粒を落とし、雨あしをゆるめます。そしてバスが到着します。このシーンがいかにゆるく楽しげに演出されたかお気づきでしょう。夜と森が脅威ではなく状況として扱われています。この映画に悪役は必要ないのです。「くまのプーさん」にも元々邪悪なキャラクターはいませんでしたが、新しいアメリカ版では悪いイタチがA.A.ミルンの優しい世界に書かれていることを思い出します。
家族に2つの出来事がおこります。新しい家のことを聞きたいお母さんのお見舞いにいくこと、サツキが医師から電話を受け市内のお父さんに連絡しなければならないこと。どちらの場面でも、お母さんの病気は日常茶飯事として扱われ、破滅につながる悲劇にはなりません。
ここにはアメリカ映画の子供が大人と対立するプロットはありません。家族は、安全で快適な安息の場所となっています。お父さんは合理的で、洞察力があり、巧妙で、奇妙な生き物の物語を受け入れ、自分の子供を信頼し、心を開いて説明に耳を傾けます。親が善意の行動を誤って解釈し、それを不当に処罰するような退屈な場面はありません。
私は「となりのトトロ」の美徳を称賛するにあたり、あなたにただ耳障りのいい話を聞かせたことが心配ですが、その暖かい心なくして世界中の視聴者を獲得することはなかったでしょう。本作は、少女らの(外観ではなく、その性格について)真に迫った説得力をもたらす描写で喜劇を豊かにします。トトロ登場シーンは強烈な印象をのこし、ねこバスのシーンにも魅せられます。本作は少し悲しく、少し恐ろしく、少し驚き、少し何かを得られる、いわば人生そのもののようです。物語の筋にかわり状況によって、冒険に必要な生命の奇跡と想像力の源を与えてくれると考えています。
参考文献/引用元:https://www.rogerebert.com/reviews/great-movie-my-neighbor-totoro-1993
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