第11話 エゼキエル

 巨大な柱だった。右側にあるそれはヤキンと呼ばれている。ソロモン王によって立てられてから400年近く経っているはずだが、恐らくは当時となんら変わることなく、神殿の前に圧倒的な存在感を持ってその威容を示し続けていた。

 けれども、すっかり日の沈んだ空に、かがり火に照らし出されて浮かび上がっているその姿は、今のエゼキエルにとっては虚ろで、どこかはかなげにさえ感じられる。しばらく呆然とその巨大な柱を見上げてから、神殿を後にした。

 本来ならばここに居て、若い祭司たちを教え、民の長老たちや領主たちに神の言葉を伝えているはずの人が、今は近寄ることさえできずにいる。


「理不尽だな」

という言葉が思わず口をついた。急な坂道を下って城門のある付近まで来ると、さすがに神殿周辺のような騒々しさはおさまってくる。目印と聞かされたいちじくの木が二本、並んでいるのを確かめて、その前の小さな家の戸口に立ち、扉をたたいた。中から灯がもれていたが、反応はない。

「エゼキエルです。アヒカム殿からお聞きしてきました」

 と言ってみる。ほどなくかんぬきを外す音が聞こえて、男が一人、顔をのぞかせた。五十を少し越えたばかりのはずだが、髪も髭も半分以上が白くなっていて、その苦悩の様子を物語っている。

「よくここが」

 男は驚きながら、エゼキエルを招き入れた。

「エレミヤ様もよくご無事で」

 エゼキエルは、周囲に人のいないことを確認してから素早く戸口に潜り込み、自分が物心のつく前から預言者として語りつづけてきた老人の顔を改めて見つめた。

エルサレムがバビロンの手に落ちる、と宣言し、そのために命を狙われることになっていた。つい先日などは、書記官バルクが記したそれらの預言を、エホヤキム王はあろうことか暖炉に投げ込んで焼いてしまったという。王宮にいた議官のアヒカムが匿っていなければ、すでに骸となっているだろう。


「随分顔色が悪いではないか」

 命の危険にさらされているはずの老預言者は、それでも訪問者の方を案じた。「妻が…」

「……死んだのだな。それをどう受け止めたらよいか分からずにここに来た、というところか」

 エレミヤは、言いよどんだエゼキエルの胸中を正確に見抜いていた。

「ご存知だったのですか」

「いや、知らぬ。しかし、その顔を見ればおよそ分かるさ」

 エゼキエルの肩に手を置き、励ますようにして力を込めた後、エレミヤは部屋の中ほどにある粗末な椅子を勧めた。さして広くない室内には、古びた小さな机と椅子が三脚、それから隅に、これだけはこの家には似つかわしくない、立派な燭台が置かれている。恐らく、エレミヤをかくまうにあたって、わざわざ運び込んだものだろうと思われた。

「神が言われたのです。私の目の喜びを取り去ると。朝、私は神の言葉を神殿で語りました。家に戻ると妻が倒れていて、目を覚ますことのないまま、さきほど息を引き取りました」

 エゼキエルは勧められた椅子に手をかけたまま、座ろうともせずに続けた。

「神は、嘆くな、泣くな、涙を流すな、とも命じられました。何故妻が死ななければならなかったのか、理解できないのです。混乱してしまって、どうしたらよいのか分からず、エレミヤ様にお会いしようと思ったのです」

 話しながらエゼキエルは、今更ながら、寝台に横たわらせたままにしてきた妻のことを思い出した。エレミヤは目を閉じ、しばし、沈黙した。深く刻まれた眉間のしわが、つかの間、ゆがんだように見えた。小さく息を吐いてから、エゼキエルの肩に置かれた手に、再び力が込められた。しかし、そのまま言葉は聞こえてこない。ふと見ると、エレミヤの頬は濡れていた。すべてをかけて神からの警告を語り続けてきた大預言者が、自分の哀しみをうけとめてくれた。それは、どんな慰めの言葉も、どんな激励や叱責の言葉よりも雄弁に、エゼキエルに預言者として神に従っていく決意を固めさせた。命じられた通り、涙を流すことなく、神の言葉を語るのだ、と自分自身に向けて、つぶやいていた。


 ケバル川は、物資の運搬のために、人の手で掘られたのだというが、その広さや水量の多さからは想像がつかない。

 エルサレムで妻が死んでから、十年余りが過ぎていた。すすり泣く声が聞こえている。エゼキエルは、王と共にバビロンに捕らえ移されてきた人々に混じって、そのほとりに座って呆然と川面を眺めていた。


 救われないな。エゼキエルがため息とともにそうつぶやいた時、ふとその泣き声が消えた。ばかりでなく、川の流れる音も、鳥のさえずりさえも、聞こえなくなった。

 突然、対岸の空の奥の方から、激しい風が吹いてきた。同時に、大きな雲が迫ってくる。その周囲に、光。思わず、目を閉じた。立ち上がる。両腕で風を遮りながら、目を開く。見る間に、川の上空にまで迫ってきた。

神が自分に、幻を見せようとしている。別れ際に、エレミヤが言った言葉がよみがえった。

「私の預言者としての働きは、エルサレムの町とともに、終わる。これから後に起こるべきことを示されて民に語るのは、エゼキエル、お前の役割だ」


 ついに、始まった。エゼキエルは、自分に託された預言者としての使命に、静かに向かい合おうとしていた。

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