記す人々

十森克彦

第1話 メトシェラとノア

 ヨルダン川を下り、アラバの海に出たところで西に向かった。正面に見えてきている山が、モリヤだろう。伝え聞いたところによると、ノアはこの山の上にいるはずだ。メトシェラは、勾配がつき始めたあたりで拾った倒木の枝を杖にして歩いていた。こうして杖を使ってみると膝の痛みはずいぶん楽になるものだ。長い間随分あちこちを歩いたが、この旅が、おそらくは最後になるだろうと思っていた。

 山を上るにつれて、空が明るくなった。生い茂っていた木が、少なくなっている。どれも伐り倒された後のようだった。ノアは、山の上に新たに町でも建てようとしているのだろうか。やがて山頂付近の平らな場所に出た時、メトシェラは異様なものを見た。数えきれないほどの材木が並べられている。それに、辺り一面に強い臭気が漂っている。どうやら、溶けた瀝青の匂いのようだ。それらの中央に、組み上げられつつある巨大な構造物があった。

「なんだ、これは」

 思わず声に出していた。一体、何をしようというのか。方々を旅してきたメトシェラにも見当がつかない。本当にノアはここにいるのだろうか。住居にしては大き過ぎる。当惑しながら、その構造物に近づいた。気配がある。さらに一歩。空気を裂く音がしたかと思うと足下に振動が起きた。矢。突き刺さっている。とっさに身構えたが、相手が武装しているなら、もとより抗いようはない。杖を置き、両手を挙げて、抵抗の意思はないことを伝えた。

「誰だ」

 咎めるような、厳しい口調だった。いつの間に姿を見せたのか、積まれた材木の上で弓を構えている男がいる。まだ若いが、腕は確かなようだ。強く警戒しているのが分かる。

「わしは、メトシェラという者だ」

「どうしてここにいる」

「人を訪ねてきただけだ。矢で射られなければならないことはしていないつもりだがな。それとも何者かと取り違えられているのか」

 男は引き絞った弦を緩めることなく、狙いを定めたままの姿勢で材木の上から降り、じりじりと近寄りながら続ける。

「人を訪ねてきただと。こんな山の上までか。一体何の用があるのだ」

 やれやれ、だ。話しづらいこと、この上ない。メトシェラは少々持て余し気味になりながら、仕方なくここへ来た経過を話そうとした。その時、構造物の中から別の気配がした。

「どうした、ハム。また誰かが火でもつけに来たか」

 気配は声を発しながら、人間の姿をとった。弓を構える男に比べ、明らかに年かさだった。声にかすかな疲れがにじんでいる。

「ノアではないか。わしはメトシェラだ。お前の父、レメクの父だ」

「メトシェラ。じいさまだ。覚えていますよ」

 声はふいに明るくなった。幼い頃に何度か、レメクに連れられて会いにきていたから、ノアは覚えていてくれたらしい。ノアは、怪訝な顔で二人のやりとりを聞いている男に目で合図を送り、弓を下ろさせた。

「これは長子のハムです。ふもとから邪魔をしに来る連中がいるのでね。警戒しているんです。火でもつけられたらそれこそ水の泡になりますから。じいさまとは知らず、無礼をしました」

 メトシェラに詫びたあと、ノアはハムと呼んだ弓の男に、メトシェラのことを紹介した。

「メトシェラは私の父の父だ。お前たちにとっても直接の先祖にあたる。ちゃんとあいさつを」

 言われた側も、慌てて材木の上から飛び降りて、頭を下げた。

「ノアの息子、ハムと申します。知らなかったとはいえ、大変無礼なことをいたしました。申し訳ありません」

 うって変わって紳士的な態度になった。別に好戦的な人物というわけではないらしい。ということは、よほど警戒をせざるを得ない状況にあるということか。

「それにしても、いきなり矢というのは穏やかじゃないな。ふもとからわざわざ邪魔をしに来るというのは何かもめているからなのか。いや、そもそも、お前たちは何をやろうとしているのだ」

「神の命令でね」

 ノアはそう告げながら、メトシェラを構造物の中に招いた。組み上がりつつある内部は、三層になっているようだった。外から見ても大きかったが、内部はさらに広く感じる。

「これは何なのだ」

 ただ広いだけではなく、柵や壁がほうぼうに取り付けられ、細かく区切られるようだった。それにしても、それらの間隔はバラバラで、統一感がない。

「船ですよ」

 ノアは最下層の通路になっているところを先導しながら、答えた。

「船と言ったのか。ノア、それなら海のほとりで組まなければ動かせないではないか」

 我ながら余計なお世話だと思うが、あまりに荒唐無稽で、つい問い詰めざるを得ない。

「まあ、順を追ってお話しますよ。時間はあるのでしょう。それに、わざわざ訪ねてくださったということは、あなたの方も何か用件がおありなんでしょう」

 上層階につながっているのであろう梯子のたもとでノアは立ち止まり、メトシェラを振り返って言った。そう、用件がある。伝えるべきことがあって、わざわざやってきたのだ。

「レメクが、死んだ」

 メトシェラが静かにそう告げると、ノアは束の間言葉を失い、それから目を閉じてため息をついた。


 はじめは、アダムだった。アダムが病んでいるということを耳にしたメトシェラは、父エノクと共にアダムを訪ねた。

 アダムは訪ねてきたエノクとメトシェラに、世界のはじまりの物語について話して聞かせ、それを語り継いでいくようにと告げた。初めに神が天地を創造し、生きとし生けるものの全て、人間に至るまでの全てに命を与えたのだと。考えたこともなかった。アダムは神と直接話し、聞いたのだと言ったが、メトシェラはその声を聞いたことも影すら見たこともない。初めから、天地はあったのだ。今さら知って、何になるというのだ。熱心に聞き入るエノクの隣で、密かにそう思っていた。

 しかし、アダムが神との契約を破ったために園を追われたということと、その結末としてやがて死ななければならなくなったということには恐れを抱かざるを得なかった。獣は死んだし、その肉を食べていた。しかし、人間はいつまでも変わらなかった。始まりがどうであったのかという以上に、終わりがあるということが、メトシェラの頭を占めた。語り終えるとアダムはそれを証明するかのように、エノクとメトシェラの見守る前で静かに息を引き取った。

 アダムの亡骸を土に還した後、エノクとメトシェラは、セツからはじめてアダムの子らを訪ねる旅に出た。その旅をはじめてほどなく、エノクがいなくなった。エリコの付近での出来事だった。祈りをささげている最中に、目の前で、かき消すように、姿が見えなくなったのである。

 メトシェラは、一人になってからも旅を続けた。旅を通して、どのように人間が増え、町を建てて行ったのかがおおよそ分かってきた。やがてセツが、エノシュがという具合に、順に死んでいった。そしてエノクの父ヤレデが死に、次は自分が死ぬのだ、と思っていた。ところが、子であるレメクの方が先に死んだ。メトシェラは、レメクに託すつもりだったアダムの物語を、レメクの子、ノアに伝えるために来たのだった。


 聞き終えた時、ノアは梯子にもたれかかり、涙を流していた。そして、代わりにメトシェラに、恐るべきことを告げた。神が、堕落した人間の世界を洪水で滅ぼそうとしているというのだ。この建造物は、生き残るためにノアに造れと命じられた、船だった。

「メトシェラ、人間はもっと死にます。いや、すべて死にます。この船に乗らない限りは。神がここへ導いてくださったのです。ここに残って、一緒にいてください」

 ノアはメトシェラの肩をつかみ、語った。恐らく、数えきれないほど多くの同胞たちに同じように語ったのだろう。そしてその結果、かえって憎まれ、妨害から船を守るために、弓を構えて警戒せざるを得なくなったのだろう。

「長い旅をしてきた。わしは正直、疲れたのだよ、ノア。伝えるべきことは伝えた。後はお前がしっかりそれを語り継ぐのだ」

 ノアの申し出に小さくかぶりを振って、その手を静かに外した後、メトシェラは船を出て、モリヤを後にした。真っ青な空に、小さな雲が白く光っていた。

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