第223話 あの日からの笑顔

 

 薄暗い巨大な洞窟。壁や天井に苔が生えた自然にできた洞穴である。

 あまりにも巨大すぎて穴というよりは、ただひたすらに広い空間に思える。

 足音が反響すらせずに消えていく。

 入り口から一本道。あまりにも深すぎて太陽光は届いていない。

 光源は蛍光色に光る苔や茸だけ。幻想的に洞窟内を照らしている。

 生物の気配はない。虫すらもいない。静寂な空間。

 生きているものはここには近づかない。奥から発せられる気配に怯えて近づくことすらない。縄張りに入り込んだ瞬間に死ぬ。本能がそれを訴えてくる。

 その最奥に、白銀に輝く壁があった。否、それは壁ではなく巨大な生物の身体だった。侵入してきた異物に反応して、ゆっくりと顔を上げる。

 細長い身体。頑丈な鱗に覆われた肌。あらゆるものを斬り裂き、噛み砕く鋭い爪と牙。ギョロリと開く縦長の虹彩の瞳。

 巨躯から抑えきれない強大な力が放たれる。それは濃密な死と同等だ。

 荘厳。崇高。神聖。華麗にして優美。恐怖と死。

 ただの洞窟が、神々しい神殿や煌びやかな王の謁見室のように感じられた。

 静かに佇むのは世界最強の生物。龍。ドラゴニア王国に棲まう神に等しき白銀の龍だった。

 雲一つない蒼穹のような空色の巨大な瞳で、龍が幼い少年を睥睨する。


『彼らの血族の子ですか』


 少年の頭に美しい女性の声が響き渡った。龍の声だということにすぐには気付けなかった。

 目をパチクリさせた少年は龍を見上げる。5、6歳の少年の瞳には恐怖は一切ない。


『私に恐怖を抱かないのは珍しいですね』

「怖くないよ。だって女の子でしょ? 女の子には優しくしなさいって母上から教えられてるの。ジャスミンだって優しくすれば嬉しそうにしてるし。照れて叩かれるけど」

『……ふふふ。この私を女の子扱いですか。一体いつぶりでしょう! 彼らくらいでしたね』


 愉快そうに笑った龍の身体が白く輝いた。光が収まった時には、龍がいた場所に一人の女性が立っていた。

 白銀の髪に空色の瞳。神が造形した全てが黄金比の美女。少年に向かってニッコリと微笑む。


「さあこちらへ。少しお話をしましょう」


 女性が少年を奥へ誘う。今まで龍の巨体に隠れて見えなかったが、洞窟には人が通れる扉があった。

 その奥にあるのはこじんまりとした質素なベッドとテーブルと椅子。

 椅子に座って女性が微笑む。


「彼らの子の顔を見せてくれてからもう数百年になりましたか。それが代々続くとは。彼らの血筋らしいことではありますが」


 幼い少年には女性の言葉は難しかったようだ。地面に届かない足をプラプラさせながら、ニコニコ笑顔で女性の顔をじっと見つめている。


「ねえ、寂しくないの?」


 突然、少年に問いかけられて、面食らったように目を見開き、頬に手を当てて少しの間悩んだ。


「……寂しい、ですか。生憎、私はあなた方人間とは違います」

「じゃあ、いつもは何をしているの?」

「寝ています。年に一度、私のためのお祭りをしているようなので、その時には外に出ますが、大抵は寝て過ごしていますよ」

「退屈じゃない?」

「退屈……私は退屈なのでしょうか?」


 初めて言われた言葉。女性は自分に問いかけるが答えは見つからない。長い時を生きていることで、退屈という感情すらわからなくなっている。

 いや、龍という存在には退屈という感情はなかったのかもしれない。

 でも、少年に指摘されたことで、気が付いてしまった。芽生えてしまった。


「夢は見るの?」

「見ません」

「寝てて楽しい?」

「いいえ」

「食事は?」

「食べなくても大丈夫です」

「趣味は?」

「睡眠……?」

「最後に笑ったのは?」

「今を除けば数百年前でしょうね」


 矢継ぎ早に質問を繰り出す少年に、女性は律儀に答えていく。答えるたびに自分の中に疑問が湧き上がっていた。


 ―――自分は何のために生きているのか。


 徐々に笑顔が消えて、無表情になっていく女性。少年はヒョイッと椅子から飛び降りて、女性の手を優しく握った。触れられてビクッとした女性は、訳がわからず握られて手を眺める。

 身体をこうも優しく触られたことは、今まで一度もない。どう反応していいのかわからない。


「僕決めた。君を笑顔にする。母上も言ってたけど、やっぱり笑った女の子が一番可愛いもん!」

「……私は人間ではありません。龍です」

「それがどうしたの?」


 キョトンと首をかしげた少年。女性はそれ以上何も言うことが出来ない。

 女性はふと思い出す。数百年前、この洞窟で、今まさにこの場所で出会った男女を。目の前の少年の血族の祖を。

 ずっと一人で生きてきた彼女に、新たな感情が巻き起こる。

 彼らのように手を取り合って生きていくのも悪くない。

 あの時彼らを助けたのはただの気まぐれ。でも、悪くはなかった。今回も悪くない気がする。


「わかりました。私を笑顔にしてみてください」

「うん、任せて! 美味しいものを食べるのもいいかな。お洋服も似合いそう。う~ん、後はお散歩?」

「私、空を飛べますよ」

「本当!? 僕、お空を飛んでみたかったんだ。お空って広くて綺麗だよね。僕、空が好きなんだ」

「そんなに好きなら今度乗せてあげます」

「やったー!」


 人を乗せて飛んだことなど一度もない。考えたことすらなかった。でも、何故か口が動いていた。それに、この少年となら楽しそうな気がする。

 手から伝わってくる優しい温かさ。それがもっと欲しくて、彼女は少年を抱き上げて自分の膝の上に乗せた。言いようのない感情が芽生える。

 頭を撫でてみたらどう感じるのだろう?

 女性は少年の頭をおずおずと撫でる。壊れないように慎重に。殺してしまわないように優しく。


「そうだ。僕はシラン。シラン・ドラゴニア。君の名前は?」

「名前はありません。あなたが付けてください。私が笑顔になれる名前を」


 う~ん、と真剣に悩み時間をかけて少年が付けてくれた名前を彼女は一生忘れない。


「僕は君を笑顔にする。でも、僕も間違えることは沢山あるんだ。しょっちゅう母上やジャスミンに怒られてるの。だから、僕が間違ってて、どうしようもなくなったら※※※てね。僕は王族だから覚悟はできてる。容赦も遠慮もしなくていいから」

「ええ。いいでしょう。約束です」

「契約成立!」


 女性が微笑んだのは一瞬だった。すぐに空色の瞳を見開き、顔を凍り付かせる。数百年ぶりの驚きだ。


「ちょっ! その陣は! 私を受け入れたらあなたは!」


 言葉は途中で掻き消え、二人は光に包まれた。



 ▼▼▼



「んぅ……」


 膝枕されていた男性がゆっくりと目を開けた。覗き込んでいた女性と目が合う。

 あれから十年以上が立ち、幼かった少年は大きく成長し、格好良くなった。


「ソラ、おはよう。俺はいつから膝枕されてたんだ?」

「おはようございます、ご主人様。膝枕は少し前からです。嫌でしたか?」

「全然。もう最高。離れたくないくらい」


 服にも何も覆われていない剥き出しの太ももにシランが頬擦りする。ソラは愛おしげに笑い、シランの頭を優しく撫でた。出会った時のように。


「久しぶりにソラと出会った時の夢を見たよ。昨日、ソラの龍の姿を見たからかな」

「そうですか。丁度今、私も思い出していたところでした。まさか使い魔契約で私の存在を丸ごと受け入れるとは思っていませんでしたよ。普通なら耐えきれなくて弾け飛んで死んでいます」

「子供だったんだよ。というか、自分でもよくわかっていなかったし。でも、結果的によかっただろ?」

「それはそうですが。ご主人様は無茶をし過ぎです」

「あはは」


 シランは起き上がり、ソラの頬に手を添える。くすぐったそうにソラはその手を楽しんでいる。


「ソラの笑顔をお願いしようかな」


 お願いされるまでもない。もう既にソラの顔には満面の笑顔が浮かび、シランは見放題だ。

 ソラの瞳に悪戯っぽい輝きが宿る。


「笑顔はお願いされて浮かべるものではありませんよ」

「それもそうか」


 シランはソラを抱きしめて、ベッドに倒れ込んだ。

 至近距離で見つめ合い、同時に吹き出して笑い始める。

 親龍祭二日目の朝。二人はイチャイチャしながらいつまでも笑い合っていた。

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