だけど彼は死んでしまった

清涼

第1話 野菜室の奥にある希望

私はその日を待っていた。


たった一枚のチケットは


彼に使うと決めていた。


なんのチケットかって?


不倫の恋の限定チケットだ。


生涯で一枚だけ、使っていいよと


神様がくれた、不倫チケットだ。


私はそれを冷蔵庫の野菜室の奥に


しまっている。


冬に切り干し大根をたくさんつくって


カステラが入っていた桐の箱に詰めて


いる。


その切り干し大根の一番下に


チケットはいれてあるのだ。


だから私は


どんなに悔しい夜も


どんなに辛い日中も、


どんなに苦しい朝だって


冷蔵庫を開けるたびに


励まされ、力をもらってきた。


だけど彼に会うことなんか、


同窓会でもない限り無理だなぁと思った。


そんなのはいつあるか、わからない。


だから私はいつだって


イマジネーションを、働かせた。


この人に使おうか、


やっぱりあの人かしら。


そんな風に頭の中で


エア不倫はいつだってしている。


そんなの当たり前じゃない。


そうでもしなければ、


だれがこんな悪魔の館みたいな家にいて


正常でいられるというのか。


私は奴隷じゃないんだ。


いい加減にしてよ。


何百回もそう怒鳴りたかった。


だけどずっと我慢してきた。


女はそうやって


先祖代々


我慢してきたのだろうから。


私だけがやーめた、というわけにはいくまい。


私は我慢のバトンを持って


嫌そうな顔をして


毎日同じことの繰り返しをしていた。


あまりにも辛く、


つまらなかった。


ある日、


神様がやってきて


わかった、わかった、


これあげるから


勘弁してくれ。


めくるめく世界へ行ける


チケットだよ。


そう言って不倫チケットをくれた。


嬉しかった。


義父母、義妹一家、そして


私の辛さを当たり前のものとして、


見て見ぬ振りを決め込む我が夫を


皆殺しにすることはやめようと、


思えた瞬間だった。


何にそんなに我慢しているのかって?


全てだ。


この家にいて私は我慢していないことなど


1つもない。


トイレだって好きな時に行けたためしがない。


私を旧態依然の体で


『嫁』と呼ぶ義父母とその周辺の世界が


醸し出すすべての圧が、


嫌なのだ。


私は奴隷じゃない。


言いたいことはその一言だ。


洗濯、掃除、炊事、


片付け、買い物、なんでもかんでも


私がやって当たり前の顔をしている。


各自、自分でやれよ。


すべてのことに私はそう言いたい。


しかし時はやってきた。


私はあの日を忘れない。


東京の母から手紙が転送されてきた。


私立中学・高校の同窓会の通知が


届いたのだ。




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