第56話 ヘビー級ボクサー 大海原 祥⑥

 相撲に狂った。そんな俺が正気に戻ったのは親父が死んだ日だった。


 いや、正確に言えば親父が死んだと連絡が来る前の取り組み。


 相手は、あの横綱だ。 


 そう幕内だよ。俺は横綱と戦える位になっていた。


 狂っていた俺は横綱なんか怖くなかった。 大関相手にだって、対等に戦える。そんな自身があった。


 でも組み合った瞬間にわかったよ。 


 あぁ横綱は人間じゃないんだなぁってね。 おかしな事を言ってるかい?


 でもなぁ、技が効かないんだ。


 漫画やアニメじゃないんだ。技が効かないなんてあり得るか?


 普通は押したら押し返してくるだろうし、耐えたり、堪えたりするもんだろ?


 でも、横綱は違うんだ。


 まるで手ごたえがない。 雲や靄を相手にしているみたいだった。


 なんていうか、力が吸い込まれていく感じ……いや、力だけじゃないね。精神とか、魂とか、そういうメンタル的なものが吸い込まれていくような感覚に陥っていくんだよ。


 怖いよ。そりゃ、怖いさ。 頭がおかしくなりそうだったよ。


 ほら、童の顔に神の肉体って言われた横綱がいただろ?


 相撲も神事だからね。 俺も信じちゃったよ。


 あぁ、横綱の肉体は下界に降りた神様を迎え入れちまうものなんだってね。


 こうして、俺は廃業したのさ。


 自分に嘘をついて相撲に狂っても、流石に神様本人に嘘はつけないよ。


 本当にやりたい事をやる。 廃業してすぐに入門したのがボクシングジムさ。


 ジムの会長も驚いてたよ。 本物の力士が入門してきたって大騒ぎさ。


 もう力士じゃなくなっていたけどね。


 あぁ、楽しかったよ。 解放感っていうのかな? やりたいことがやれる解放感。


 そうしたら、欲が出てきちゃった。


 試合をしてみたいって欲。 


 ほら……ヘビー級だと昔ほど不遇とは言えないけど、それでも試合なんて簡単に決まるもんじゃなくてね。


 そしたら、ほら……郡司飛鳥? 有名らしいね。


 試合形式の撮影しませんか? だってよ。


 本当に試合やっちゃったら、ボクシング業界から追い出される。


 去年くらいだったな? ほら、那須川天心とか、ネットでボクサーと対戦するって企画あったでしょ? もう、ボクシング業界は激怒だよ。


でも、まぁ……撮影ならね?



・・・


・・・・・・


・・・・・・・・・


「……6、7、8」とカウントが聞こえる。


立たなきゃいけない。その思いだけが祥を突き動かしていた。


「おぉ、カウント9だ」


そう言う相手を祥は見た。 相手は飛鳥だった。


「そうか、撮影の最中だったね。どうして寝技で仕留めず、カウントを?」


「あんたが楽しそうだったからね。つい……」と飛鳥は照れるような頭をかいた。


「楽しそう? 俺が?」


「あぁ、ダウンしてるアンタの顔、笑っていたぜ」


「ダウンして笑うか……我ながら面白いね」


「そうそう、聞き忘れていたことがある」


「?」


「まだまだやれるかい?」


「ふっ」と祥は思わず噴き出した。


「もちろん、もちろん。むしろ、エンジンがかかってきたところさ」


「そりゃ怖い。逃げ出したくらいだ」


「だったら、簡単だ。逃げればいい」


「そうはいかないさ。だって、俺も楽しくなってきたところだからな」


「そりゃ……面白い」


 祥は一歩前に踏み出した。   

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