第19話 おでかけトレーニング



 一週間が経った。明日から、また真奈美さんを連れて学校に行く。その日、俺は決意を持って市瀬家に向かった。




「…わ、わたしと歩くの…いや?」


真奈美さんが前髪の隙間からでもわかるほどの怯えの色を見せる。罪悪感にひるんでしまう。真奈美さんの背後では、美沙ちゃんがすごい目力で俺を応援している。「その調子です。今は突き放すタイミングです!」ニュータイプ同士は、言葉を交わさずとも分かり合える。


「一緒に歩くのは嫌じゃない。真奈美さんがひとりで学校に行けないのは嫌だ」


昨夜、これを真奈美さんにダメージや衝撃を与えないように伝えようと、もんもんと悩んだ。しかし、俺の国語力では上手な言い回しを思いつかなかった。だから、もういっそのことシンプルに言うことにした。


 真奈美さんがダメージを受けたら、そこからなんとかリカバリーするしかない。


「…いやじゃ…ない?本当に?」


「本当だよ」


「……」


「だから、明日からは駅で待ち合わせよう。まずは駅までひとりで歩く練習をしよう」


真奈美さんの瞳が不安に揺れている。ぐええ…。見るの辛い。俺か?俺が、こんな目をさせているのか?…ぐええ。なにかあがってきそう。でも、ここで退くわけにはいかん。


「…ほん…とうに、わたしと歩くの…いやじゃ…ない?」


うぐぅ。


 子供を虐待してるみたいな気持ちだ。もう負けていい?だめ?だめだな。


「嫌じゃない。嫌じゃないことを実験するよ」


「実験?」


真奈美さんの後ろで、美沙ちゃんがけげんな顔をする。「お兄さん、なにをする気ですか?バカなマネをしたら吊るしますよ」ニュータイプ同士は殺意も脅迫も目だけで伝わる。


「今から、一緒にルミネに入ってるお店を全部回ろう。」


買い物するお金はないけどね?


「…ひっ」


真奈美さんが、ますます怯える。そりゃそうだ。あれだけ人がたくさんいるところを歩くとか真奈美さんにとって、どんなに怖いことだろう。


「いや?じゃあ俺の友達も呼ぶから、みんなで遊びに行こうよ」


「……ふ、ふたりがいい…」


「そう?じゃあ行こう」


真奈美さんの手を取って、そのまま外に連れ出す。


「お兄さん。正気ですか?」


本気ですか?なら予測してたんだけどな。


「ど正気」


ここで、一つでもブレたらいけない。そのくらいわかる。


 俺の正気を疑う美沙ちゃんを背に、真奈美さんを連れて外に出る。真奈美さんの表情は…目しか見えないけど、落ち着いたように見える。駅に行き、二人で電車に乗る。社会人すら休むお盆の昼間だ。電車の中はガラガラだ。ロングシートの端に真奈美さんを座らせて、隣に座る。手は握ったままだ。


 都会に近づくにつれて、電車の中に家族連れなども増えてくる。


 電車を乗り換える。


 都会の電車はさすがに休みでも座れない。どうしても他人との距離が数十センチまで近づく。


「……ひうぅ」


真奈美さんの顔色が青ざめてきた。


「ちょっと降りて休む?」


「…う、うん」


途中下車する。駅を出て、駅前に一つくらいはある古いタイプの喫茶店に入る。具体的にはルノアールだ。ルノアールは適度に中が暗くて、一番奥の席を取れば、ひきこもりな真奈美さんもリラックスできる空間の出来上がりだ。


 向かい合わずに、並んで座る。


 ジャージ姿に前髪を顎まで伸ばした真奈美さんを見ても、普段どおりに接客できるルノアールの店員さんは店員力が高いと思う。そんな力があればだけど。


「…ほ、ほんとにし…新宿まで…行くの?」


真奈美さんが聞いてくる。言外に、これ以上の他人は無理だと告げている。真奈美さんの方が限界では仕方がない。


「どこにだって真奈美さんと一緒に行くのが嫌じゃないって分かってくれた?」


ちょっと意地悪したな。俺。


 むぎゅっ。


 抱きつかれた。


 はいはい。慣れたよ。


 ぽんぽんと、真奈美さんの背中を叩く。


 ふわっと、例の甘いような香りが鼻をくすぐる。


 …ごめん。慣れてない。やっぱりどきどきする。温かいな。真奈美さん。肩、細いなぁ。ジャージの肩をちょっとなでてみる。ってか、肩と背中とはいえ、こんなに無遠慮に触っちゃだめかな。一応女の子だしな。ヤシガニさんだけど。


 それにしても、この香りはだめだ。安堵といけない気持ちが同時に湧き上がる。


 なんの香りなんだろうな。真奈美さんの匂いかな?


 真奈美さんの髪の間に鼻を突っ込んで、くんかくんかしてみる。だから、無遠慮なことをするなって。自分を戒める。


 しばらくして真奈美さんの肌に血の気が戻ってきたのを確認する。そして、また電車で郊外に逆戻り。


「…なおと、くん」


「ん?」


真奈美さんの瞳もすっかり落ち着いた。前髪の隙間から覗く目だけで、感情が読み取れるようになるとは、俺のニュータイプ能力もいよいよ人の革新に近づいているな。


 最寄り駅についても、まだ陽が高い。夏の一日は長い。いろんなことが出来る。


 市瀬家にたどり着くと、美沙ちゃんが部屋から顔を出した。


「本当にルミネ行ってきたんですか?」


「真奈美さんが、無理だったよ」


「電車の中で漏らしたりしませんでした?」


「……も、もらさなかった…」


真奈美さんが代わり答える。そうだった。危なかった。青ざめて途中下車をしたからいいようなものの。状況によっては満員電車で漏らす可能性もあったのだ。電車で漏らすとどうなるんだろう?あれかな?たまにある「ご気分の悪くなったお客様の救護をしております」ってアナウンスで電車が止まるのって、だれかが漏らしてるのかな。そんな目にあったら、真奈美さんはトラウマで電車に乗れなくなる可能性もあった。


 今更ながらに、自分の浅はかさが恐ろしい。


「漏らしても大丈夫だよ」


さらっと嘘をつく。このくらいの嘘は軽いもんだ。いつだって俺は真奈美さんを騙している大嘘つきなのだから。いつか俺は、前髪を切った真奈美さんにひっぱたかれて嘘つきと罵られるのだ。ひとつ二つの嘘を上乗せしたところで罪悪感の欠片もわかない。


「それじゃあ、明日は朝八時に駅でね」


真奈美さんがうなずくのを確認して、市瀬家を出る。


◆◆◆◆


 家に帰る。


 妹の様子がおかしい。


 俺の部屋で粘土をこね回している。そこまではいい。


「なにをしてるんだ?紙粘土か」


「オーブン粘土って言うっすよ。オーブンで焼くと硬くなるんっすー」


へぇ。そんなものがあるのか。


「で、なにを作ってるんだ?」


何を作っているかは、見ればわかるが聞いてみる。妹は手先が器用なんだ。製作途中とはいえ、なにを作っているのかわからないような出来ではない。


「どくろっすー。ドクロのここんとこに湯のみが入るようにしておくっすー」


粘土で作っている頭蓋骨の頭頂部の穴を指差して言う。なるほど、ちょうど湯飲みほどの穴が開いている。


「ほら、あれっすよー。信長公が敵のドクロで酒を飲んだってあれっすよー。あれをやりたいっすー」


そう言いながら、妹の手の中で粘土はみるみるリアルな人間の頭骨になっていく。となりに開いてある本はドクロの参考資料か…。


 妹の様子がおかしいんだ。


「上手いな…」


「にーくんの分も作るっすかー?」


喜色満面で妹が振り返る。褒められたのがそんなに嬉しいか。


「いや…いらない」


「作るっすよー。二人で使うっすー」


兄妹二人でこんなリアルな骸骨のカップを使っていたら、家族団らんの空気が台無しだ。というか、本当に無駄なスキルだ。


 そういや、こいつは見たものを丸ごと頭の中で再生できる変な記憶力があるんだった。、写真を見て、それを再生した通りに目の前の粘土をこねて行けばリアルにできるのも当たり前だ。立体トレスだ。


 割り箸を鉛筆削りで削って作った自前の道具や、指先を器用に使ってドクロのディテールを作っていく。ちょっと洒落にならない完成度になってきた。


 首の骨まで作ることはないんじゃないかな?


「これを作らないと、テーブルの上で転ぶっすからねー」


楽しそうな上、本当に無駄な器用さとこだわりで、頚骨を一つずつ作っていく。針金を通し、後頭骨に繋ぐ。


 お前、上手すぎるぞ。それ捨てるときは気をつけろよ。


「こんなもんすかねー。にーくん、どうっすかー」


「ドン引きだよ…」


「褒め言葉っすー。仕上げはこれっすねー」


傍らにおいてあった東急ハンズの袋から、金属製の取っ手を取り出す。


「持ち手がないとマグカップにならないっすからねー」


高校一年生の小柄な妹は、そう言ってまだやわらかい人間の頭骨に取っ手をブッ刺した。はみ出た粘土を丁寧に割り箸加工の工具で削り取り、指先で滑らかに仕上げる。


「できたっすー♪」


楽しそうだ。


「焼くっすー♪」


リアルな人骨を楽しそうに持って、足音も軽やかに妹が下に降りていく。


「お母さぁーん。オーブン使うっすよー」


「真菜、クッキーでも焼くの?きゃーっ!」


母さん、まだ自分の娘が分かってないみたいだな。あいつがお菓子作りなんかするか。




 百二十度で三〇分焼けば出来上がりである。




 夕食の間も、ダイニングの片隅で焼きあがった頭蓋骨を冷ましていた。


 妹は、早くそれで飲み物を飲みたくてうずうずしている。


「どーっすか。にーくんも欲しくないっすか?作ってあげるっすよー」


あんまり欲しくない。


「それより、お前、俺の部屋で作ったんだからちゃんと片付けておけよ」


部屋中、粘土やらアクリル絵の具やらヘラやら散らかしやがって…。


「了解っすー」


今日も妹の様子がおかしい。つまりいつもどおりの日常。妹の様子がおかしいと安心するね。


◆◆◆◆


 翌朝、七時四十五分。市瀬家最寄の駅に到着する。


 真奈美さんは…まだ来てないか。大丈夫かな…。と思ったら、少し離れた路地から美沙ちゃんが走ってくる。


「お兄さん。こっち!」


ただならぬ美沙ちゃんの様子に、嫌な予感を感じて路地に走る。


 道端の排水溝の前で真奈美さんがうずくまっていた。


「私、少し離れてついて来てたんですけど、ここまで来たところで吐いちゃて…」


美沙ちゃんが、なにがあったのかを教えてくれる。


 やっべー。しまった。


「真奈美さん?」


真奈美さんに並んで、しゃがみこむ。


 もう吐いてはないが、定期的にしゃくりあげている。しまった。美沙ちゃんや妹にそそのかされすぎた。やっぱり無理だったんだ。


「ごめんね。真奈美さん。大丈夫?辛かったよな。今日は、学校休んで部屋に戻る?」


返事はない。うずくまったままで、前髪の隙間から目を見ることもできない。


 ぎょろっ。


 やや顔を上げると前髪の隙間から鳶色の瞳が俺を見る。


 朝の人通りが少ない裏通りとはいえ、一人で街中を歩くことでどれほどの恐怖を真奈美さんが感じてしまったのかを読み取ろうと瞳を覗き込む。


「…ううん。学校…行く」


真奈美さんの瞳は恐怖に震えていた。だが、その奥から恐怖の濁り水を勇気の光が突きぬけてくる。


 カバンを両手で胸に抱きしめて、背中を丸めたまま真奈美さんが立ち上がる。駅に向かって、背中を丸めたヤシガニスタイルで歩き始める。


 安穏とした平和ボケた学校生活を送ってきた俺が、その後ろをついていく。


 電車に乗り込むと真奈美さんは、俺の胸に頭を押し付ける。肩と背中が小刻みに震えている。カバンを抱きしめる手から血の気が引いているのがわかる。だけど大丈夫かとは、もう聞けなかった。


 一度、あの瞳を見てしまったら、俺が真奈美さんを気遣うなんて滑稽なことはできない。


「また…」


 つぶやく。


 また佐々木先生の言った通りだった。俺に出来るのは、ただ黙って近くにいることだけ。


 平和ボケの俺には助けられない。


 頭を胸に押し付けてくる真奈美さんが、遥かに遠くて…。




(つづく)

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