官能小説

 昔の話。大規模な造園が行われたのは、私が11歳の夏のことだ。7月の終わりから9月の初めまでずっと、庭師達が賑やかに屋敷を出入りしていた。そして、その庭師たちのなかに「椿」と呼ばれる少年がいた。


 壮年の庭師に混じって一人だけ少年期から脱しきれていないような仇気無さを仕草の端々に感じさせる椿が居ることが、私のみならず家人達の気を引いた。


「何しろ漸く見つけた弟子なもので」


 親方の由さんが言っていた。


「しかし手先は器用ですし、熟練の私でさえ時折おやと思うような手つきをしますよ、この椿は」


 そう親方に褒められても、椿は別段はにかむ様子もなく憮然としている。同世代の少年達は皆きれいに頭を刈っているというのに、肩まで垂れた髪を、頭の後ろで高くひとつに結い上げているのが殊更目を引く。庭仕事をしているくせに日焼けもせず色白で、役者か何かのようだと、ねえや達が繕い物をしながら部屋でひそひそと噂するのを度々耳にしたものだ。


 とにかく椿は器量が好いから女中達は何かと理由をつけて椿の世話を焼きたがったし、私の姉々もまた然りで、母は眉を顰めていたのだけれど、しかし意外にも椿を最も気に入ったのは父なのだった。


 よくよく話をしてみると学があり、独学で英語を習得していたばかりでなく、英国の造園術に並々ならぬ興味を抱いていると知り、父は今度の洋行にぜひ椿を伴うとまで言い出す始末。このことに母はひどく閉口したが、姉達はそれが可笑しくて堪らない様子であった。


「ほんとにね、御父様ときたら、椿を養子にでも迎えるような勢いよ」


 年嵩の姉が声を潜めて微笑う。


「可笑しいことね」







 椿は能面のように表情に乏しい男で、口数は少なく、人形のようなところがあったが、一度だけ感情を顕にしたのを見たことがある。それは庭仕事が長引いて日没になり、屋敷の近くを流れる大川の対岸で予定通り花火大会が始まった日のことだった。今日はもう仕事を止して、夕飯を食べていったらどうだという父の言に、ひどく恐縮しながら由さんは頷き、あわただしく庭師達が湯を浴び終えて、縁側に急拵えで用意した庭師達の卓に着いたそのとき。いちばん最後に湯を終えた椿が席に着いたら、


 ふつり


 と、――結い上げていた洗い髪が、肩へ流れて落ちたのだった。涼しい夕風が吹いてくる縁側の向こうに明るく咲く花火を見ていた家人の視線が、そのときの「あ」と零れた椿の言葉に誘われて、彼に注がれた。


 それはただ髪が流れたことに過ぎなかったのに、椿がひどく赤面して目を伏せるので、とても淫靡なことのように映ったのだった。何ということもなく皆の視線は散り散りになったけれど、妙な空気がその場に流れていた。髪を下ろした椿は湯上がりで火照った肌に早くも汗が滲み、すこし瞳が潤んでいるようで、どうにも見ていられない有様だった。





 庭師の仕事を見るのは楽しかった。

 彼ら庭師の世界は、退屈な私の日常とは異なる、土臭くて生々しい刺激に溢れているように思われた。とりわけ、薄青い紫色の夕闇のなかで、一日の終わりに仕事道具を片付けている庭師達の影絵には、ひどく趣があった。そこには私の心の琴線にふれる何かがあったのだと思う。


 夕刻が近づくと、椿は、兄弟子達の後片付けには参加せず、庭の築山に腰かけてぼんやりとするのが常だった。これは考えてみると妙なことだ。兄弟子達が働いているのに自分は何もしない新米など考えられない。怒鳴りつけられてもおかしくはないのだが、なぜそれが黙認されていたのか、その理由は知る由もない。彼らは他の職人集団とは異なる不文律を持っていたらしい。


 椿は築山の上でシャボン玉を吹いたり、草笛を吹いたりして遊んでいた。

 その様子がまた私の心に強く焼きついて、なんとも言えない、無性に哀しくて、懐かしいものを見たときのような気持ちにさせるのだった。幼い私はそこに詩情を感じていたのかもしれない。




 造園が最後の仕上げにかかり始め、夜風に秋の気配を感じるようになったころ、遊び損ねた花火を片付けようということになって、庭師達とそれに興じた。


 華やかな大花火にはしゃいでいる家人達から離れたところで一人、椿が線香花火をあげていた。ぱちぱちと火球が爆ぜている。線香花火は最後にやるものだと私が抗議に行くと、椿は涼やかな微笑を浮かべて俺はこの秋に死ぬよと言うのだった。何でそんなことを言うのだろうと思って私は凝と彼の顔を見ていた。椿の手元で、翅虫のような音を立てて線香花火が燃えていた。



 ねえや達の声がした。


 大川の方から突風が吹いて、「きゃあ」「すごい風」「あらあら」「おや危ない」バケツが転がっていくのを、由さんが追いかけていく。



 ひうひうと空気を切り裂いて飛んできた草が、私の指先を斬った。人差し指の腹に血の玉が膨らんで、その紅が宵闇に映えた。痛みよりも冷たさを指先に感じた。


 そして、宵闇に浮かんだ私の指を、椿は当然のように口に含んだのだった。痺れに似た疼痛が指先に走った。何かが躯の芯を貫いたようだった。長い長い時間が流れて、ああこの様子を誰かにでも見られては大変だと焦燥に駆られたけれども、おそらく椿が私の指を銜えていたのは、実際にはほんの数秒のことだったはずである。




 その後、少女期を終えて私は幾人かの男を知ったけれど、あの夜以上の官能を感じたことは未だにない。




 これが私の官能小説。

 はい、お終い。

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