神憑狩リ

第1話

 季節は冬も深まってきた頃だった。先日降った雪も段々と溶け、今は路面が見えている。この地域は雪が多いのだが、ここ数年は暖冬だとかで降る量が少ない。雪国の人間からすれば寂しいが喜ばしいといったところだ。朝、出勤前に早起きして駐車場の雪掻きをするはめになるのは非常に嫌なものだ。これから行くのがバカンスだとかならまだしも、仕事に行くためその前に労働するのは大変に憂鬱なものだ。雪国の人間なら良く知っていると思う。

 とにもかくにも今年の冬は過ごしやすい部類だった。

 俺はゴトゴトと、凍りかけの圧雪を踏み鳴らしながら帰り道を走っていた。もう辺りは真っ暗で街頭がポツポツと点灯している。無論仕事の帰り道だ。ドリンクホルダーには缶コーヒー、助手席にはフライドポテト。コンビニで買ったセット。家に帰るまでの20分小腹を埋めるのだ。仕事終わりにこれぐらいの贅沢はしたい。しないとやっていられない。

「あー....」

 俺は呻き声のような嘆き声のような、良く分からない鳴き声を漏らした。一人で車の中でそうやって漏らした。誰も聞く人が居なくても漏らした。そうしないとやっていられないからだ。

 俺は非常に疲れていた。非常に参っていた。とにかく仕事を終えてうちひしがれていた。

 今日も怒られに怒られていたからである。

 今日も失敗に失敗を重ねたからである。

 俺こと三好晴也が勤めるのは㈱木戸製紙、しがない段ボール工場である。入ってもうすぐ2年になる。

 2年といえば新人から卒業し、徐々に一人前になりつつある時期だ。そうらしい。俺は初めての正規雇用なので良く知らないのだがとにかくそうらしい。

 だが、俺は相変わらずまったく仕事が上手く出来ないのだ。

 ラインから出てくる段ボールが積み上がったものを運ぶだけなのだが、これを上手く出来ないのだ。どうも遅いし、流れが切れてしまうのだ。それで怒られるというわけである。絶望的に出来ないわけでも無いが、どうしても求められている仕事にあと2、3歩足りないといった感じだ。

 いわゆる俺は出来ない社員であり、そうやって2年を過ごしてきた人間だった。

 俺は多分どうやら社会に上手く着いていけていないのだと思う。多分、落ちこぼれの側に居るのだと思う。

 そんな感じである。俺という人間の概要はそんなところである。

 そうやって毎日を過ごし、そうやって今日も憂鬱なまま家に向かっているのだ。

「はぁあー....」

 俺はため息を漏らした。漏らさずにいられない。非常に悲しい。この日常は実に。

 なんとかならないのかと思うが、なんともならないのがまた悲しい。俺の日常は曇天だった。

 そんな曇り空を少しでも紛らわそうと俺はハンドルを切る。向かうは本屋だ。今日は読んでいる漫画の新刊の発売日なのである。

 俺はオタク趣味の持ち主であり、それこそがこの薄墨色の日常のわずかなオアシスなのである。救いである。無ければとっくに全て投げ出しているだろう。

 本屋は帰り道から少し逸れた国道にある。

 この朝州市はいわゆる田舎であり、生活に必要な商業施設はその国道沿いに全て集中している。スーパーからなにから全部だ。そして、それ以外はなにも無い。住宅街とその外側には田んぼだの畑だのが広がるばかりだ。

『....ており、大勢の駆除業者が朝州市に集まっているということです。デブリの以上頻出問題。これは何が原因なんでしょうか橋田さん』

『えー、そうですね。朝州市の地理的な条件も去ることながら、それだけで説明が付く状況ではありません。なんらかの外的要因が存在していることは間違いないでしょう』

『それはつまり....』

 カーナビでは夕方のニュースが流れておりキャスターとコメンテーターが会話をしていた。その話題はまさしくこの朝州市のことだった。ここ2週間ほど前からこの街はある騒動が起こっている。

 その騒動は全国的なニュースになるほどのものだ。俺も毎日、全国からローカルまで様々なニュース番組で見て聞いている。職場の人間も、友人も家族も、みんな話している。歴史的に見てもかなりの状況らしいのだ。

『人的要因との見方もありますが』

『憶測に過ぎませんよ。こんなことを出来る人間なんて存在するとは思えません。私は《裏側》の方からの介入であると考えています。元々朝州は裏側との距離が非常に近く、向こうの影響が大きく出る地域です。あちらの《不確定存在》がなんらかのきっかけでこちらに傾いているのでしょう』

『《不確定存在》ですか。専門的な話になってきましたね。《青い月》もあと14日で満ちるわけですが、そうなった場合何が起きるでしょうか』

『そうですね。あくまで私の仮説でしかないのですが...』

 テレビは色々話している。同じような話を繰り返しているのだろう。もう、毎日見すぎて興味も無くなってきている。テレビで言うことも変わらないし、街の状況も変わらない。注意報も毎日出っぱなしであるし、なんなら警報が出ている場合もある。毎日街のどこかで何かが起きているが、正直俺の生活にはこれといった影響は無い。

 騒ぎが起きる前と同じ。怒られながら働いて、気落ちしながら帰宅する。そんな感じで毎日が過ぎていって、多分そうこうしている内に騒ぎも落ち着くのだろうと思っている。

 車はもうすぐ国道に出るところだった。シャッターの降りた商店街を走っている。

 このまま本屋に行って、追いかけている漫画の新刊を買って、家に帰って晩飯を食って、漫画を読んで寝たらまた明日だ。仕事が始まる。そんな風に毎日は繰り返される。出口は見えない。この先俺の人生はずっと曇天のままなのかと思いながら、チラリと夜空を見上げる。

 月が、白い月がある。そして、そこから少し離れたところに青い月。白い月はほぼ満月で、青い月は半月ほど。見慣れた景色。外は凍えるような寒さだろう。カーナビでは相変わらずニュースが流れている。

「あー....」

 俺はまた、呻き声とも嘆き声とも付かない鳴き声を漏らす。疲れと共に。

 その時だった。

「あぁあああ!?」

 俺の声は叫び声へと変わった。

 突如目の前の景色が吹っ飛んだからだ。具体的には商店街の一角、前方右手にあった閉店したクリーニング屋が吹き飛んだのである。轟音とそして瓦礫が車の前に飛び散ってきた。

 俺は慌てて急ブレーキ、そして思いきりハンドルを切る。映画のような急旋回の後に横向きに綺麗に停車するところを思い浮かべたが現実はそうはいかなかった。俺はそのまま左手の潰れた居酒屋の軒先に突っ込んだ。幸い、玄関を破壊しただけで止まる。車の頭が少しめり込んだ程度だ。エアバッグは起動したが、体に別状は無さそうだった。

 そんなことより何事か。一体全体どうして突然クリーニング屋が吹き飛んだのか。俺はエアバックを手でどかし、車のドアを開けて外に出る。瓦礫が散乱し、もうもうと煙が立ち込めていた。その煙の向こうで何かが動いた。それは犬だった。ただし、巨大な。明らかに2階建て家屋と同じくらいのサイズの白い犬だ。体には幾何学模様が刻まれている。

「デブリじゃねぇか」

 俺は顔を青くする。

 デブリだった。まさしく、そうだった。この街の騒ぎの原因であり、神の使いとか言われる怪物であり、《裏側》からの《跳流》の結晶。

 もし誰かに説明するとしたら今の内容では全然要領を得ないだろうが残念ながら今そんな懇切丁寧な話をしている余裕は無かった。

 なにせ怪物は、犬のデブリは明らかに俺を見ていたからだ。やつは、口を空け、歯をむき出し、明らかに俺に敵意を向けていた。つまり、やつは今から俺に襲いかかろうというつもりらしい。

 こいつがクリーニング屋を吹き飛ばした犯人であり、そして俺の死因になろうとしているというわけだ。

「う....」

 俺は声も出せない。身じろぎひとつ出来ない。なにかしようものならその瞬間に目の前のこいつは俺に襲いかかる気がした。そうしなくてもいつか襲いかかるが、それでも動けなかった。圧倒的な恐怖が俺を支配していく。

 さっきまで曲がりなりに日常を送っていたのに一瞬だ。瞬く間に俺は非日常に飛び込んでいた。ザ・命の危機である。

 まずかった。このままでは死ぬ。そんなバカな。

 俺は息を潜め、目の前のデブリと睨み合っている。もとい、一方的に睨まれている。

 だが、なんとなく。怖くて怖くて死ぬのは嫌だったが、だがなんとなく。ここで終わるのも悪くないのだろうかとも少し思った。

 そう思ったのと、デブリが前足で地面を蹴るのはほぼ同時だった。

 が、

「こんちくしょう! 私シカトすんな!!」

 デブリが吹っ飛んだのだ。

「え?」

 俺はまたも急変する状況を理解出来ない。巨大な犬の怪物は商店街の通りをごろんごろんと転がって、20mくらい飛んでいった。もちろん、自分で転がったわけではなかった。やつは、吹き飛ばされたのだ。誰にか。恐らく目の前の女にだった。

「もしもし、九条? 見つけたわよ。さっきのとこから300mくらいかな。商店街のど真ん中。うん、早く来て。よろしく」

 それは女だった。青のパーカーに黒のジーンズにスニーカー。普通の服装。しかし、髪が見たこともない見事な白髪でショートポニー。そして、何よりその手には刀が握られていたのだ。真っ白な刀身の刀が。

 恐らく、間違いなく。この女があのデブリを吹き飛ばしたのである。

「は、はぁ?」

 俺は理解不能な状況に思わず間抜けな声を上げていた。

 と、女がその声で俺の方を見た。そして、目を丸くした。

「な、あんたなにやってんのよこんなとこで。巻き込まれるわよ」

「い、いや。もう巻き込まれてんだけど」

「とにかく早く逃げて!」

「い、いや。車が中々動きそうにないんだけど」

 車は綺麗にシャッターにめり込み、抜け出すのは難儀しそうだった。

「な、なんてことになってんのよあんた。とにかくここから離れて! 巻き込んじゃうから!」

「え、ええと。走って逃げる」

「なんでも良いから!」

 が、その時だった。

-どんっ!

 太鼓のような音が響いたのだ。

「ちっ! 遅かった。《領域》を使える個体だったか!」

 周囲の景色が変わった。淡い金色の雪のようなものがフワフワと中に浮き、景色が薄いセピア色に包まれたのだ。

 俺には何がなにやら分からない。なので、とにかく走る。さっき言われた通りに走る。しかし、おかしなことにまったく距離が離れなかった。確かに地面を捉えて、前進しているはずなのに何故だか景色が進んでいかないのだ。

「なんだ!? 何事だよ!?」

 俺はパニックになっていく。

「もう、走らなくて良いわ。逃げられないから。こうなったら仕方ない。あんたを守りながらあいつと戦う」

 女は刀を構えた。正眼の構えだ。俺は若干知っている。

 そして、その切っ先の向こうにあったのは先ほどのデブリだった。そいつは静かに佇みながらこっちを睨んでいた。うなり声さえ上げている。そして、金色の雪のようなものも、景色を染めるセピア色もこいつの周りが一層濃かった。この現象はこいつが発生させているらしい。

 これがデブリ。《裏側》という異世界から流れ込む《跳流》から生まれた生物と物質の中間にある化け物。人によっては神と呼ぶそれだ。

「た、倒せるのかこんな化け物」

 俺は思わず言っていた。

 あんなに大きくてこんなワケわからん現象を引き起こす。どう考えたって人間の手に余る存在だ。しかし、女は俺の方を見ると歯を見せてニカッと笑った。

「心配しなさんな。『吉村デブリ駆除株式会社』はこの業界でも安心と信頼の実績で高い評価を得てるんだから。その中でも私、古津鹿梓は強さで言えばトップランカーよ。まぁ、任せときなさいって」

 女はそう言ってそのまま、デブリに突撃していった。

 正気の沙汰とは思えない。完全武装した兵士ならまだしも、刀を持っただけの生身の人間だ。あの怪物の突進でも食らえばそれでお陀仏だろう。噛みつかれればさらにひどい。だが、女は脇目も振らず、小細工も無しに一直線にデブリに向かっていった。

 それに対するデブリも動いた。一声大きなうなり声を上げる。すると、デブリの周りに緑色の炎が浮かび上がった。人魂のようなものだ。数にして十近く。そして、それらはデブリがもう一声上げると一斉に女に向かって飛んでいった。

「喰らえ《冬凪》」

 女がそう言ったのが聞こえた。それと同時に女の握る刀の刀身が淡く光った。はた目には何が起きているのか分からない。そんなことよりも女に向かって飛んでいく火の玉の方にこそ目が行く。このままでは女はあの火の玉の直撃を食らって火だるまだ。

 最初の一発が女に迫った。

「せいっ!」

 しかし、女はその人の玉を切りつけた。炎を刃物で切ったところでどうなるのかと思ったが、起こったのは俺の予想を裏切る現象だ。炎は刀に切られた瞬間に、まるで刀に吸い込まれるようにして消えたのだ。女はそのままデブリに向かって走り続ける。距離にして10mほど。そこに立て続けに火の玉が飛んでくる。

 しかし、女はそれら全てを切り、消し去った。

 驚く俺だが、それよりも驚いていたのは恐らくデブリの方だ。いや、デブリに驚くとかいった感情があるのかは不明だが明らかに状況を快く思っていない様子だった。デブリは次々と炎を女にぶつけるが全て消されてしまう。デブリは苛立たしげに吠えた。

「そんなもんいくら飛ばしたって無駄だっての!」

 そして、とうとう女はデブリの懐に潜り込んだ。

 そして一太刀、デブリの腹にお見舞いした。

 吠えるデブリ。しかし、デブリは2階建て家屋並みのサイズがあるのだ。日本刀の刀身では深傷にはならない。デブリはそのまま体を動かし、女に噛みつこうと顎で迫る。

「どらぁ!」

 しかし、女は驚くべきことにその迫る獰猛な顎を蹴りつけた。デブリが吹っ飛ぶ。商店街の軒ギリギリに落下していく。

「あああああ! あぁ。大丈夫か焦った。家屋壊したらまたなんか言われるとこだった」

 女はそのままデブリに追撃をかける。

 デブリはそれに応戦しようとまた火の玉を作るが、女はそれをまとめて切り伏せた。

 女はどうやら恐ろしく強かった。この巨大な怪物を相手にまったく遅れを取っていない。一体何が起きているのかさっぱりだったが女は超人的な身体能力でデブリを圧倒しているのだ。まったく俺の理解の及ぶ世界では無かった。なにがどうしてこんなことになっているのか。

 そもそも間近でデブリに遭遇したのも初めてなら、こんな戦い見せられるのも初めてなのだ。俺は黙って見ることしか出来ない。固唾を飲んで。この非日常の光景を。

「これで終わりか!」

 そして、女はとうとうデブリを追い詰めた。デブリの最後の大技であろう、自身と同サイズになろうかという巨大な火球を女は切り裂いた。もはや、恐らくデブリに女を圧倒する手は残っていないのだろう。デブリは唸りながら女を睨むことしかしない。

「さぁ、ならそろそろやらせてもらうわよ」

 そうして、女はデブリに刀を向ける。しかし、その時だった。

 デブリが一際高い声で吠えた。遠吠えだ。すると、今まで変わっていた景色が元に戻る。金色のフワフワもセピア色も消えたのだ。

「逃げる気か!」

 そして、デブリの後方の景色がグニャリと歪んだのだ。それに合わせてデブリ自身の体も歪んでいった。まるで、空間ごと捻れていっているかのようだ。

「そうはいかない。あんたはここで仕留める!」

 そう言って、女は刀を腰の鞘に納めた。そして腰を低く落とす。ネットの動画なんかで何回か見たことがある。これは居合いの構えだ。しかし、女と怪物の間には悠に5m近くの距離がある。とても刀の刀身で届く距離ではない。

「日向流一之太刀」

 デブリは景色ごとグルグル回り、そしてどんどんその姿が薄くなっていっていた。ここまで来ればなんとなくだが俺でも分かる。全然理屈は分からないがこいつはどうやらワープ的なもので逃げようとしているのだ。このままでは行ってしまう。

「白断」

 ずるり、と。突如デブリの首が落ちた。俺には超能力か何かが突如作用してデブリの首がネジ切られたように見えた。だが、実際には違った。女はいつの間にか、本当にまったく気づけない内に刀を抜いていたのだ。そして、まったくなんでか分からないがその刀身は5m離れた怪物の首を両断したのだ。距離から、首に対する刀身の長さから全部が全部理屈が合わなかったがどうやらそういうことらしかった。

 勝負有りだった。女は恐ろしく強かった。

 怪物は首だけになって落下しながらしかし、吠えたけった。

「な!?」

 そして、怪物の頭が突然形を失った。それは、金色の霞のようになった。要するに色の付いた気体のようになったのだ。そして、それはそのまま。

「なんでこっちに来るんだよ!!」

 俺の方に飛んできたのだった。

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