パン屋の桂木さん2
お客さんが、カランコロンと扉の音を残して店から出ていく。
迷惑料代わりのクロワッサンをうれしそうに受け取っていた。あのうれしそうな顔を見れば、朝早くからパンを焼いてよかったと思える。
あのお客さんは、病院勤めで、夜勤明けの朝に寄ってくれることが多い。大切な常連の一人だ。
そうでなくとも、うちのパン屋は病院に近い。病院の職員が寄ってくれることも多いし、患者が診察帰りに寄ってくれることも多い。それだけに病院で変な噂が立つのは、少し困る。もちろん、病院と関係ないお客も沢山いるから、噂一つでどうにかなるわけでもない。ただ、こういう評判というのはじわじわと効いてくるものだ。
「明日菜。病院の人がこの時間に来たら夜勤明けだよ。疲れてるんだから、無駄話はおやめ」
娘は無駄話じゃないものと言いながらも少しバツの悪そうな顔になる。
話を聞く気はあるようでも、それが生かされるかどうかはまた別のお話。すぐに忘れてしまわないか心配になる。
「大体なんだい、新しいパンって、うちにそんな予定はないよ」
「えー、いいじゃない、揚げパン美味しいよ。絶対売れるって」
まったくこの子は。
うちはパン屋だから、売れ残りのパンが出ることが度々ある。出来るだけ売り切るように数を調整するにしても、少なすぎてお客が欲しかったパンを買えずに帰るのは忍びないものだ。だから、パンが余ることは度々ある。
そんな時は、自分達で余ったパンを食べることになる。
そのまま食べることも多い。
余ったパンが、用意していたメニューに合わない時や、余りすぎておやつにもパン、となると、ちょっと手間をかける。
そうやって店には出していない加工パンがいくつも生まれることになる。
揚げパンというのは、そのうちの一つ。
パンを油で軽く揚げてから砂糖をまぶしたもので、おやつに作ることがある。
「あんな手間がかかるものは売り物にならないよ。諦めな」
家族で食べる分の数個くらいなら、付きっ切りで揚げればいい。店に出せるほどの数だと付きっ切りで揚げるには時間がいくらあっても足りない。今でさえ、パンを焼き終わるまでの朝の時間は、娘に店番を頼んでいるのだ。揚げ物のためだけに職人を雇うハメになる。
もしくは、専用の魔法道具を買うかだ。
揚げ物を売るおかず屋なんかだと、揚げ物専用の魔法道具を持っているらしい。
油の温度を一定に保ちつつ、決められた時間で油から引き上げてくれるそうだ。
それなら他の作業をしながらでも、終わっているのを見かけたら次をセットするだけで済む。
その魔法道具がいくらするのかは知らないが。
「そんなことより、ここはもういいから学校行く支度しな」
「はーい」
店の奥に引っ込む娘を尻目に、クロワッサンを並べる。
並べ終わる頃にカランコロンと扉が開く音がする。
見ると見知った青白い顔。
この人も病院の職員だったはずだ。夜勤明けなのだろう。いつも青白い顔をしているから、健康なのかどうかよく分からない人だ。
入ってくると、いそいそといつものパンをトレイに取っている。
会計のカウンターに入るとすぐに、青白い顔の人もまたカウンターの前に来る。
「いつもありがとうね」
一声だけかけて会計を済ませる。
「いや~。好物なんですよね~」
そう言ってもらえるとうれしいものだ。
いつものガーリックトーストを手に、その人はカランコロンと扉の音を立てて店を出て行った。
さあ、今日も一日の始まりだ。
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