ラファエルの憂鬱

杉浦絵里衣

一  ─古いアルバム、秘密の手記─

明治末期に建てられたというその洋館は、まったく見事の一言に尽きた。

 まるで『風と共に去りぬ』に出てくるタラの屋敷のようだ。

 わたしは重厚な煉瓦造りの門柱と、青銅色の門扉の前に立ち、インターホンで案内を請うた。

 ほどなくして中から中年の女性が出てきて、門を開けてくれた。耳障りな音を立て、複雑な意匠を描く門扉がゆっくりと開く。

 女性は「奥さまからお話は伺っております」とだけ言い、すたすたと先に立っていき、わたしはその後をついていった。上部にステンドグラスが埋められた玄関扉をくぐり、飴色に磨き立てられた廊下を通って応接室へと案内される。

 あふれんばかりの陽光に満ちた応接室は、アンティーク家具とシャンデリアに飾られた美しい部屋だ。わたしは思わずため息をつき、ソファに腰掛けたまま首だけを巡らせて室内を鑑賞した。

 この家の外観と部屋だけですでに十分刺激を受けたわたしの頭には、早くも次回作のプロットがめまぐるしく組み立てられていった。

 数分のち、粋な江戸小紋を着こなした、この家の女主人が姿を現した。

「お久しぶり、椿つばきちゃん。何年ぶりかしらね」

「ご無沙汰しております、叔母さま」

『ちゃん』付けで呼ばれることも、そういえば年単位でご無沙汰だ。わたしは自分の年齢を顧みて、少し居心地の悪さを覚えつつも、頭を下げた。

「聞いたわよ、新人賞をもらってデビューしたんですって? すごいわ、小説家ってやつなのねえ」

「いいえ、そんな……。まだまだ駆け出しです」

「あの椿ちゃんがプロの作家さんになるなんて、姉さんから電話があったときは驚いたわ。すぐに売れっ子の先生になって、将来は夢の印税生活ね」

 飛躍しすぎのほめ言葉を、わたしはあいまいに笑って受け流した。まだデビューしたてのひよこ物書きには、あまりに重いプレッシャーである。

 母曰く、叔母は幼少時からよく言えば天真爛漫、悪く言えばちょっとばかり無神経なひとだったらしい。まあ、そういう人だからこそ、旧華族の名家になど嫁げたのだろう。母のように我が強いわりに繊細な人間だったら、ストレスがたまって三日もせぬ間に実家へ逃げ帰ってきたに違いない。

 手土産の洋菓子を差し出しつつ、わたしは言った。

「叔母さま、きょうはわたしのわがままを聞いて下さって、ありがとうございます」

「あらあら、気にしないで。なにしろ古いだけが取り柄の家でしょう。元華族といっても、平成の世じゃあ無用の長物だしね。こうして椿ちゃんの作品作りのお役に立てるなら、亡くなられたお義母か あさまもさぞお喜びになるわよ」

 そう言いながら叔母は、先ほどのお手伝いさんが運んできた紅茶を口にした。

 デビュー以後、数作は現代における恋愛小説を書いてきたわたしだったが、担当さんから新規開拓をしようという話になり、かねてから興味のあった昭和初期の華族社会とミッション・スクールを舞台にした作品にとりかかることになった。

 いろんな文献に当たっているうちにふと、母の妹が旧家に嫁いでいたことを思い出し、母を通じて連絡を取ってもらった。詳しく聞くと都合のいいことに叔母のご主人の母親──平たく言えばお姑さんというところか──が、カトリック系女学校の出身であることも判明した。

 結婚以来、親戚の集まりにもめったに姿を見せない叔母とはほとんど親交はなかったのだが、意外にもあっさりと取材協力に応じると返事があった。

 叔母が嫁入りしたたちばな家は旧男爵である。

 男爵と言えば五爵中最下位だが、それもそのはず初代橘家当主は一代で財を成した実業家だそうで、言い方は悪いが爵位を金で買ったのだという。出自に引け目があるのか、それとも単なる見栄っ張りだったのか、初代はこうした豪奢な洋館を建て、一人娘を名門女学校へ通わせ、なんとか貴族たろうと尽力したのだろう。

「このお屋敷もイメージにぴったりなんです。資料にお写真撮らせてもらってもいいでしょうか?」

「どうぞどうぞ。今日はふたりとも会社で家にいないから、気兼ねせずに好きなだけ撮っていってちょうだい」

 ──あれ、今「ふたりとも」って言った?

 叔母の言葉に、わたしはひっかかりを感じた。

 たしか母の情報では、ご主人と成人済みの息子さんふたりの四人家族だったはず。全員お勤めしているとしても、計算が合わない。

「あの、ふたりともって……」

「言ってなかったかしら。上の子は今年神父さんになったのよ」

「神父さんですか」

 わたしが聞き返したのをどう取ったのか、叔母は大仰にため息をついた。

「長男だし最初は反対したんだけど、まあ弟もいるし、最終的には皆が折れる形になっちゃったのよ。お義母さまの影響が強かったみたい」

「へえ……」

 そうだ、神父は生涯独身を通さねばならないのだ。

 欧米では跡継ぎを確保したい信者が息子を神父にさせたがらず、その結果深刻な神父不足に悩まされているという。

「お姑さんは敬虔けいけんな信者だったみたいですね」

「ええ、毎週のミサは欠かさないし、慈善事業には積極的に参加されるし、そりゃあ宗教活動に熱心だったわね。でもその分お家のことにはまったく無関心でね、お義父と うさまともプライベートではいっさい口を利かなかったくらい。子どももうちの主人ひとりだし、夫婦仲はよさそうには見えなかったわね。わたしも嫁いびりこそされなかったけど、その代わりなんの干渉も受けなかったものよ。信者仲間からも信頼が厚い方だったけど、少うし気味が悪かったわねえ」

「そうなんですか……」

 なにやらいやなことでも思い出したのだろう、叔母は苦い顔をした。

 機嫌を損ねれば、せっかくの取材がやりにくくなる。

 わたしはおずおずと話を逸らせた。

「あの、そろそろ資料を……」

「あらやだ、わたしったらベラベラと。ごめんなさいね、日頃愚痴る相手もいないもんだから、つい」

 叔母は急に居住まいを正し、ついと立ち上がった。ゴージャスな洋室に地味な小紋は、奇妙にエキゾチックな印象を与える。

 まずは邸内を一巡りし、叔母の許す限り資料写真を撮らせてもらった。

 これほどすばらしい洋館がモデルだと、きっとわたしの小説のキャラクターたちも映えるだろう。

 ひとしきり写真を撮ったあと、叔母の案内で建物に寄り添う形の離れへと向かった。

 こちらもこぢんまりはしているが、本館に引けを取らぬ美しい建物である。昔は使用人室および調理室として使っていたらしいが、現在は改築して書庫として利用しているそうだ。利用、といってもほぼ物置同然で、先代の女主人が亡くなった今では叔母を始め、家族の誰もめったにここには入らないらしいが。

 頑丈そうな南京錠を開け、扉を開ける。

 お手伝いさんが定期的に掃除をしているらしく、ほこりなどは積もっていない。一番奥の部屋が、書庫となっていた。一歩踏み込むと、古書の放つ独特のにおいがした。

「ひとりで大丈夫? わたしもご一緒しましょうか」

「あ、大丈夫です。時間もかかりますし、ご迷惑でなければひとりで見させてもらってもいいでしょうか」

 それはもう、と叔母は、あきらかに安堵の色を見せうなずいた。

 内心では付き合わされてはかなわないと思っていたのだろう。

「古くさい本しかないけど、好きなだけ見ていってちょうだい。何かあったら内線か携帯で電話してね」

「はい、ありがとうございます」

 そう言って叔母が去ったあと、わたしはあらためて書庫の内部を見渡した。

 窓を残した三方の壁には、いずれも天井に届かんばかりの書棚が据えられている。

 背表紙を確かめていくと、宗教関連の本や世界各国の文学全集、哲学書やその他もろもろの書物がぎっちりと詰まっていた。

「すごい……!」

 わたしは思わず歓喜の声を上げた。

 昔から本の虫で、学生時代も図書館の常連だったわたしにとって、この部屋はまさに宝の山だ。ここに住めたらどれだけいいのに、などと思いつつ、資料になりそうな本を物色していった。




 小一時間ほど経っただろうか。

 本の山に埋もれ没頭していたわたしは、本棚の最下段に不自然な書籍の置き方をした部分を見つけた。

 ほかの本はきちんと奥まで詰められているのに、その一画だけやけに手前に本がきているのだ。気になってどけてみると、奥にアール・ヌーヴォー調の美しい装飾を施した缶が押し込まれていた。大きさは今日持ってきた贈答用の洋菓子の缶よりやや大きいくらいで、手に取るとずっしりと重かった。

 どう考えても、意図的に隠されたものとしか思えない。

 宝の部屋に、秘密の宝箱。

 わたしは好奇心に駆られ、ふたを開けた。

 中から出てきたのは、一冊のアルバムだった。

 総革装の表紙に金文字で「第三十九回卒業記念 昭和七年三月 ラファエル高等女学校」と書かれてある。

 どうやら、お姑さんが通っていたミッション・スクールの卒業アルバムらしい。

 ラファエルといえば聖書に出てくる天使の名で、癒しを司るという。それくらいはわたしも事前に勉強していた。

 保存状態がいいせいか、七十年以上の時を経てもなお装丁の美しさは特筆すべきものがある。

 わたしは期待に胸をふくらませ、中を開いた。

 海外のカトリック教団が資本なだけあり、セピア色に彩られた少女たちが着る制服も和装ではなくハイカラなセーラー服だ。当時の校舎やチャペル内のようすもしっかり撮影されており、これ以上ないくらいの貴重な資料である。わたしは心底から叔母に感謝した。

 運動会や遠足、宗教活動などを収めたページを繰っていくと、各生徒の顔写真が出てきた。

 さすがに顔立ちは今見ると、そろって下ぶくれで表情にも乏しい。まるで浮世絵をそのまま写真にしたようである。ぱらぱらとめくっていくと、「たちばな 摩乃ま の」と名の書かれた少女の顔写真にぶつかった。

 お姑さんこと、先代の女主人であろう。

 その顔立ちをしげしげと見つめ、わたしは知らずため息をついた。

「きれいな……」

 それは、あきらかに他の少女たちとは一線を画した容姿だった。

 たまご型に整った輪郭、意志の強さがにじみ出た大きな目、通った鼻梁びりょう、口角の上がった唇。

 一種小悪魔的な魅力を持つ、黒猫のような美少女である。

 この小さな写真でもこれほど目立つのだ、当時はさぞかし男性を惹きつけたことだろう。

 と同時に、自由奔放なタイプだとしか決めておらず、明確なイメージが固まっていなかったわたしの小説の主人公が、急激に現実味を帯びてきた。容姿が決まれば、あっという間にキャラクターが決まっていくものだ。

 いけるかも。

 わたしはすばらしいモデルを確保でき、心が浮き立った。

 アルバムを脇に置き、ほかにもいい資料がないか缶の中を探ってみる。卒業証書や当時使っていたらしい聖書やロザリオなど、ありがたい代物がざくざくと出てきた。中身を取り出していくと、いちばん底に古ぼけた手帳が置かれていた。これが、宝箱に残された最後のお宝らしい。

 今で言うA5サイズに相当する、なんの変哲もない手帳。タイトルも署名もない。

 開いてみると、中の紙はすっかり黄ばんでいたが、万年筆か何かでしたためたらしく文字はかろうじて読めた。

 日記だろうか。

 それとも、エッセイか。

 どちらにせよ、個人的なものであることには変わりない。

 いくら亡くなられた方とはいえ、部外者が勝手に読んでしまうのは気が引けてしまう。

 だけど、もしかしたら当時の学生生活を記した貴重な資料かもしれない。

 そう思うと、わたしのお行儀の悪い好奇心がまたもや頭をもたげるのだ。

 ──ごめんなさい、ちょっと失礼しますね

 わたしは会ったこともないお姑さんに、胸の内でひとこと詫びを入れ、手帳に記された文章を目で追った。

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