第12話

 香織は一切の食事を拒んだ。飢えに苦しんだ妹への贖いとして。

 ここに来る人達は耐え難い過去を背負っている。そして、それぞれの過去を詮索してはいけないという不文律があった。他人の秘密を暴いたところで、その人を救うことは出来ない。望まずとも慌てずとも必ず終わりはやって来ると知っているから、消し去りたい過去に固執し衰弱する心身をこれ以上蝕むことはしない。

 歓迎会の後、何度か香織とすれ違った。しかし、話しかけることが出来なかった。視界に入ると思わず避けてしまうほどに、彼女に距離を感じていた。

 しばらくして――彼女が栄養不足で倒れて入院していたことを知った。

「香織ちゃんはここに来たばかりで友達も少ないだろうから、寂しくて心細い思いをしているよ」と優子からお見舞いに行くように言われた。

 私は素っ気ない返事をしたが、本心では外へ出られると心が躍っていた。

 優子が紙袋を下げ、私の部屋に入った。紙袋の中には香織のために選んだ本が三冊入っていた。

「入院中に読めるようにね。香織ちゃんに渡して」

 優子はお見舞いには行かないようだ。

「あの子が小説を読むとは思えないんだけど」

 悲嘆に暮れる人生に、他人の物語が何の役に立つのだろう。香織は私達には想像もつかない苦痛を経験し自らに罰を課している。そんな人が運命を騙る物語など読むはずがない。必要なのは自分と向き合う時間だけ。彼女は縋るものや慰めを求めずに、際限のない寂寞に住んでいる。

 私は紙袋を覗いて本の背表紙を見た。――きっとここの誰よりも自分が彼女を理解出来ている気がした。

 紙袋をベッドへ放り投げた。

 私は人目につかないように給湯室へ忍び込んだ。椅子を台にして、シンクの上にある棚を探った。中には美しい包装紙に包まれた銘菓が積まれている。一つぐらいくすねても問題ないだろう。私は紅い椿の絵が目を引く小ぶりな箱を慎重に棚から出した。

 箱を服の下に隠し部屋へと持ち帰った。紙袋をひっくり返し、床に散らばった本をマットレスの下に挿む。そして、空になった紙袋にお菓子を詰めた。

 病院へは町に買い出しに行く給仕さんの車に同乗して行く。時計を見ると、出発まで時間があった。マットレスに隠した本を一冊引っ張り出した。新美南吉の短編集。母に何度も読み聞かせてもらった童話だ。狐の親子と人間の愛情に満ちた物語は、苦しくなるほどに美しかった。誰かの優しさや温もりに触れたような幸福に満たされた。

 だからこそ、香織にこの本は必要ない。

 

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