第12話

 掴みかけた光は手のひらの中で溶け、消えてしまった。もう二度と輝いてはくれない、俺にとっては小さな、だけど何よりも大切だった光──。


 あれから数日経ったが、彰久とは何も話していない。まともに顔も合わせていない。休憩室で偶然一緒になっても、彰久は俺が来たと分かった途端に席を立って出て行ってしまう。目が合っても逸らされるし、生体売場に届け物をしに行っても、彰久は他のスタッフに指示を出して俺の対応をさせる。


 今日まで何度も声をかけようとして、だけどできなかった。


 嫌われたんだろう、俺はきっと。


 来るべき時が来たというだけのことだ。いずれはこうなると始めから分かっていたじゃないか。それなのにどうして、……どうしてこんなに胸が苦しくなる。


「伊吹、入荷表のファイルどこやったっけ」


「いま俺が使ってる。中身ばらばらだったからまとめといた」


「何だ、休憩中にやろうと思ってたのに。悪いな、助かる」


 散々悩んで苦しんだにも関わらず、未だ俺は流れに身を委ねることしかできないでいた。あの日彰久を怒らせてしまった事実はどうやっても消せないし、謝ったって俺の根本が変わっていなければ何の意味もない。


 踏み出したいのにその一歩が怖くて重くて、だけど他の対処法も思いつかなくて、俺は無理矢理仕事に専念することで辛い現実から目を背けていた。


 一体何度こんな思いをすれば目が覚めるのだろう。強くなりたいと常日頃から願っているくせに、どうして一番肝心な時に勇気が湧いてこないのだろう。


 自分の首を絞めていると分かっているのに。


「伊吹、最近仕事張り切ってるな。前は本社に送る書類なんて一切手付けなかったのに」


「俺も少しはこういうの覚えないと、燈司に負担かけっ放しだからさ」


 なるべく自然に笑ってみせたが、燈司はそんな俺を見て首を捻っている。


「何か、無理に仕事に没頭してるって感じ。ここ最近様子がおかしい時もあったし、何か悩んでて今も解決してないんじゃねえの」


 流石にずっと一緒に仕事をしてきただけある。燈司の的確な推理にドキリとしたが、俺は顔に笑みを貼り付けたまま「そんなことない」と軽く答えた。


 最近、笑うことばかり上手くなっている気がする。感情を殺してでも笑いさえすれば、一先ずは気まずくなることも、相手に不快な思いをさせることもないのだ。だけどそうすることで確実に心は擦り減って行く。このままだといつか感情が爆発するか、麻痺するか、迎える結末はきっとそのどちらかだろう。


「………」


 こういう時、彰久ならどうするだろうか。頭の中で必死に想像してみても、彰久が塞ぎ込む姿なんて全く思い浮かばない。


 本当は俺も、彼のように強くなりたい──。


 その時、


「よう、お疲れ」


「あ、彰久さんお疲れ様」


 突然、何の前触れもなく売場に彰久が入ってきた。咄嗟に顔を俯かせ、手元の書類に視線を落とす。身体から嫌な汗が噴き出てきて、顔が赤くなるのを感じた。


「ウチのスタッフが沖縄行ったんだってよ。土産にお菓子買ったからお前らにも、って」


「へえ、いいなぁ沖縄。でもこういうのって普通、本人が持って来るモンじゃないですか?」


 燈司の疑問を無視して、彰久が俺の方へと近付いてくる。レジ台の上に「シークヮーサー風味」と書かれた焼き菓子の箱が置かれたが、俺は顔を上げることができなかった。


「伊吹」


「………」


「俺を見ろ、伊吹」


 唇を噛んだまま顔を上げようとしない俺の目の前で、彰久が呆れたように溜息をついた。その後ろで、状況を把握できていない燈司が茫然とこちらを見ているのが分かる。


「威勢が良かったのは初めの頃だけだな。少しつれなくしたくらいでヘコんでんじゃねえぞ」


「……言うなよ、そういうこと」


「なんなら今夜にでも安心させてやろうか。一発ヤればお互い機嫌も良くなるかもしれねえし」


「言うなってば……!」


 怒りで涙目になった顔を彰久に向けると、彰久よりも先に、その後ろで狼狽している燈司と目が合ってしまった。


「あ……、っと、俺は席外しといた方がいいんかな……」


「別に居ても構わねえよ。いい機会だし、テイにも知っといてもらった方がいいんじゃねえの」


 俺は何も言えず、ただひたすらに唇を噛んで俯き続けた。目頭が熱くなって視界がぼやけ、苦しくて呼吸すらままならなくなる。


「自分で言えよ、後のことは」


 無様な姿の俺を残して、彰久が自分の売場へと戻って行った。手足が震え、今にもその場で倒れそうになる。俺はレジ台の上に片手をつき、もう片方の手で乱暴に目元を拭った。彰久がどうしてこんな仕打ちをするのか、それについて考える余裕もなかった。


「伊吹……」


 声も出さずに目元を拭う俺を前にして、燈司もかける言葉が見つからないのだろう。


 何もかもが終わりだ。彰久には嫌われ、燈司にも引かれ、俺には何も無くなってしまった。


「……燈司、俺……。俺は……」


 ここにはもう、居られない。


 続く言葉を口にしようとした瞬間、俺が言うよりも先に燈司が口を開いた。


「大丈夫だ、伊吹」


「え……?」


「俺は大丈夫。……だから、ちゃんと言ってくれて構わない」


 ああ、と心の中で溜息が漏れる。燈司はそういう奴だったっけ。


 ぶっきらぼうですぐ舌打ちするけれど、いつだって人には大らかで、仕事の文句は言っても誰かの悪口は決して言わない。燈司は俺の先輩で、大切な仕事仲間だ。分かっていたのに、どうして彼を信じる気持ちを無くしてしまっていたのだろう。


「燈司。俺は、……」


 呼吸が荒くなり、心臓が破れそうなほど高鳴り始める。顔の熱さが頭の中にまで伝染し、後頭部がずきずきと激しく痛んだ。


「……彰久が、好きなんだ」


 ついに言ってしまった──。


 俺の中でいま一番大きく膨らんでいる、かけがえのない想い。それが言葉となって吐き出された瞬間、嘘のように身体から熱や痛みが引いて行った。


 燈司が口元を優しく弛め、笑う。


「お前さ。自分のそういう事情、今までずっと隠して抱え込んできたんだろ」


「あ……」


 その言葉を聞いた瞬間、過去の自分が一気に網膜に蘇ってきた。


 放課後の教室で女の子から手紙を貰っていた友達。好きな子と上手く行くように、俺に仲介役を頼んできた先輩。デートだから遊べなくなったと、照れ臭そうに頭を下げた親友……。


 隠して隠して隠し続けて、自分の気持ちを押し殺し続けて、俺は今まで何度諦めの笑顔を浮かべてきただろう。


 決して言う訳にはいかなかった。言ったら俺だけでなく、相手も傷付けることになる。気を遣わせて悩ませて、苦しんで悲しませることになる。


 俺が黙ってさえいれば──。


 だから俺は今までずっと、誰かに胸の裡を相談するということができないでいたのだ。大事なことも、くだらないことも、全て自分一人で決断するようになってしまったのだ。


「そんな大事なことを俺に言ってくれて、正直、嬉しい」


「……でも、言うしかなくなったっていうか……全部彰久のせいで」


 気付けば既に、時刻は十時を過ぎていた。フロア内に開店時間を知らせる朝の音楽が流れ、周りの店舗は客がいなくても普段通りの営業を始めている。俺達はまだスポットライトも点けていない状態で、まるでここだけ時間が止まっているかのようだった。


「彰久さんのお蔭、だろ」


 呟かれた燈司の言葉が、優しく俺の心の中に沁み込んでゆく。


 彰久のお蔭……そうなのかもしれない。俺が仕事のジレンマから解放されたのも、吹雪のことを赦されたと感じたのも。


 全ては彰久が手を差し伸べ、俺を導いてくれたから。


「彰久さんは多分、俺が伊吹を裏切らないって確信してたから。だから敢えてこういう場を作ってくれたんじゃねえの。俺はあの人と一緒に仕事してないからよく分からねえけど、あの人が普段から伊吹を気にかけてるってのは何となく伝わってたし」


「………」


「小学校の頃とか、伊吹も経験ないか?〝好きな奴をつい目で追っちゃう〟ってやつ」


「あるけど、……」


「彰久さん、いつもそんな感じだったぜ。伊吹は気付いてなかったけど、あの人いつもお前のこと見てた。異動してきた時からずっと……一昨日も昨日も、今日もな」


 ぼやけた視界の中、燈司がまるで自分のことのように照れながら笑っている。それは気まずさや嫌悪なんて微塵も感じられない、泣きたくなるほど温かな笑顔だった。


 胸の奥に巣食っていた苦痛が、柔らかな鼓動に変わってゆく。


「何を喧嘩したんだか知らねえけど、俺に言わせりゃ全然大したことねえよ。彰久さんだって伊吹と早く和解したいから行動に移したんだろ。この機会を生かすかどうかは、お前次第だ」


「………」

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