第7話

「すっかり遅くなっちまったな。早く帰って寝ねえと、明日も仕事だし」


 午後十時。神奈川から東京に戻って来たと言っても、この辺りは街灯も少なく、ひと気もない。アパート近くの公園前に停まった車の中、俺はシートベルトを外して窓の外に目をやった。


 静寂の夜に、独特のエンジン音だけが低く響いている。


「家まで行くってのに。こんな暗い場所、歩いてたら危ねえだろ」


「平気だ。慣れてるし」


 アパートまで送ってもらうことになったら、そのまま部屋に上がると言われ兼ねない。この公園からなら街灯がある道を通って帰れるし、そもそも街灯なんか無くたって男の俺が襲われることなどないのだ。


「それじゃ。今日はご馳走様」


 ドアに手をかけたところで、横から彰久に肩を掴まれた。


「おい、どさくさに紛れて何帰ろうとしてんだよ」


「何が。だって彰久、早く帰って寝るって……」


「へえ。前に俺んち泊めてやったのに、伊吹は俺を泊める気はねえんだ?」


 そうきたか、と心の中で思わず笑ってしまう。記念日云々と言っていたことから半ば予想はしていたが、まさか最後の最後でそういう手段に出るとは思っていなかった。


「無理だね、俺の部屋狭いし。第一、こんな馬鹿でかい車をどこに停めるって言うんだ」


「何だよ。コイン式の駐車場とかねえのかよ、この辺」


 勝ったと思った。貧乏なのが幸いした。流石の彰久も何も言えない様子で、むくれた顔をしている。


「そういうことだから、諦めろ。とっとと帰って──」


「まだだぜ、伊吹」


「う、わっ!」


 ガクンと体が後ろに倒れ、一瞬、息が止まった。何事かと思って身を起こそうとした俺の上に、横から彰久が圧し掛かってくる。後ろに倒れたのはシートが倒されたためだった。


「な、にする……」


「別にいいんだぜ、駐車場なんか無くても、部屋ん中じゃなくてもよ。俺はお前がいればそれで構わねえんだ」


「彰久、お前な……」


 冷ややかな視線を送る俺を、彰久が狼のごとく舌なめずりしながら見下ろしている。そこまでしてヤりたいものなのか。俺よりずっと大人のくせに、そんなに欲求不満なのか。


 呆れて物が言えないけれど、何か言わないことにはどうしようもない。不思議なことにこの状況で、俺は自分でも驚くほど落ちついていた。


「そうやって強引にねじ伏せて、それで〝記念日になる〟って言えんの?」


「ん。何が?」


「言っとくけど俺は、今は誰とも付き合うつもりはない。いくらあんたが強引な手を使ってきたって……、お、俺の心までは渡さないからな」


「そんな台詞、リアルで初めて聞いた」


「俺だって初めて言ったよ」


 彰久の手が、脇腹から腰にかけてゆっくりと移動する。


「だから触るなって。ていうか、こんな場所でする訳にいかないだろ」


「じゃあ、今からホテルでも行くか?」


「行かないっ」


「俺も今日は結構頑張ったし、そろそろ惚れてくれてもおかしくねえのに」


「どうやったらそんな考えになるんだよ、……だから、触るなっ」


 腰に回されていた彰久の右手が俺の頬を包み込む。咄嗟に顔を背けると、彰久の手はそれ以上触れてはこなかった。


「悪いけど伊吹、俺はお前に嫌われる覚悟はしてるつもりだ」


「………」


「強引だと思われても仕方ねえ。嫌われたって、好きなモンは好きだし。自分を誤魔化して諦めるより、周りから何と思われようと突っ走る性格なんだ、俺はさ」


 眉根を寄せて、俺は弱々しく彰久を睨んだ。


「迷惑極まりない男だな……」


「知ってる。けど、お前に言われたくねえな」


「え?」


 彰久の唇が再び俺の頬に触れた。肌の表面を擽るような動きで這いながら、低く囁かれる。


「人の家であれだけ酔っ払って男の愚痴言って、手出したら呆気なく乗ってきて、あんなエロい顔と声でヨガりまくってたくせに」


「……う、……」


「職場が一緒だと分かった途端に態度変えて、人のこと馬鹿だの強引だの。嫌なら初めから俺の誘いに乗るなよ。今日だって、そんなに俺が嫌いなら来なきゃ良かったじゃねえか」


 返す言葉が無かった。実際、彰久の言う通りなのだ。


「一度ヤッて、今日また乗ってきたくせに。俺のことを迷惑だなんて言える立場か」


 責めるような彰久の言葉に、俺は小さくかぶりを振った。


 彰久に迷惑かけているのは俺なのか。俺はとんでもないワガママを言っているのだろうか。


 何もかも、俺が間違っているのだろうか。


「……泣きそうな顔すんなよ。泣かすつもりで言ったんじゃねえんだ」


 呆れたように笑いながら、彰久が俺の頬を指で拭う。


「迷惑モン同士、仲良くやって行こうぜ」


「……んっ、……」


 唇を塞がれると同時に、彰久の舌が俺の中へと捻じ込まれた。歯を立てられ、荒々しく口腔内をかき回される。言葉と同様、俺のことを責めているかのような酷く乱暴なキスだった。


「んっ、……く、彰久っ……」


「……嫌がっても止めねえぞ。お前が、本心から嫌がらねえ限りはな」


 俺の口元を舐めながらパーカの中に入ってきた彰久の手が、シャツの上から俺の胸元を弄り始める。探り当てられた乳首を抓られた瞬間、俺の腰がシートから浮いた。


「さ、わるなっ……」


「気が済むまで嫌がれよ、伊吹」


「やめろって、ば、ぁっ……」


「俺を悪者にしてお前のプライドが保てるなら、好きなだけそうすればいい。仕方ねえもんな、年上の男に力で押さえ付けられて、無理矢理やられちまうんだから……」


「っ……!」


 まるで俺を卑怯者扱いしているかのような言いぐさだ。怒りで頭の中が熱くなっているのに、何も言い返せない。歯を食いしばって睨むだけでは、彰久を怯ませることすらできないと分かっているのに。


 彰久はそんな俺を上から覗き込み、微かに口元を弛めている。その顔には薄らと汗が浮かんでいた。


「言いたいことあるなら、言えよ。その顔のままで言ってみろ」


「………」


 もしかして、という思いも無い訳ではない。


 今日一日を一緒に過ごしてみて、確かに俺は彰久に対する嫌悪の気持ちが始めよりずっと和らいでいるのを感じていた。もしも俺達が普通に出会って普通の関係を築いていたなら、とっくに惚れていたかもしれない。


 だけど……だけどどうしても、和真とのことが頭をちらついてしまう。


 和真とは高校三年間ずっと一緒だった。その友情が高じて恋人となったはずなのに、環境が変わっただけで呆気なく終わってしまったのだ。


 出会って間もない彰久となんか、上手く行くはずがない。


「俺はお前に何言われたって、気持ちが変わることはねえからさ」


「……何でそんなこと言えるんだよ。俺のことなんか何も知らないくせにっ……」


 知ってるよ、と彰久が俺の頭に優しく手を置いた。


「誕生日は五月十日、生まれは埼玉だろ。趣味は映画鑑賞、特技はシューティングゲームだっけか。高校の時に蕎麦屋のバイトして、子供の頃からずっと大の犬好きなんだよな」


 言われて一瞬驚いたが、何のことはない。全ては俺が自分で履歴書に書いたことだ。


「……ストーカーの極みだな」


「恋は盲目、って言葉知ってるか」


 笑ってはいるが、彰久の目は真剣だ。決して出まかせや嘘を言っている訳ではない。それが伝わってきて何故だか急に切なくなり、俺は声を震わせながら彰久に言った。


「全然意味が分からない、だってどう考えても俺達じゃ釣り合わないし……。あんたならもっと見た目も性格も良い奴が、嫌ってほど寄ってくるだろ」


「そんなことないって。それに俺、伊吹の見た目も性格も好きだし。少年ぽい小作りの顔がモロタイプ」


「嘘つけ」


「でも何より俺が気に入ったのはさ、お前の目なんだ。今まで大勢の客と接してきたけど、お前ほど嬉しそうに、心底犬が好きだって気持ちが伝わってくるような目をする奴には会ったことがねえ。初めてあの目を見た時……俺はお前に惚れたんだ」


「………」


 胸が熱くなり、息が詰まりそうになる。涙だけは堪えなければと唇を噛む俺を見て、彰久が穏やかな笑みを浮かべながら優しく頭を撫でてくれた。


「でもまあ、いくら俺がそう言ったって伊吹の気持ちが俺に向いてなきゃ意味ねえけどさ」


「……そりゃそうだ」


 額に唇が近付けられる。ふいと顔を背けると、彰久の唇はそのまま俺の耳元へと移動した。


「だから伊吹。俺に一度だけでいい、チャンスをくれないか」


 彰久の低い声。耳の付け根を這う唇。耳朶にかかる吐息は熱いのに、身体の中がゾクゾクと冷えて堪らない。


「今夜中にお前が俺に惚れなければ、明日以降、お前への気持ちはすっぱり断ち切る」


「え……?」


 それは、予想もしていなかった言葉だった。


「伊吹が俺を受け入れられないなら仕方ねえだろ。好きな奴を悩ませたくねえし、俺も時間を無駄にしたくねえし。お前との出会いは運命だと思ってるけど、俺だけがそう思っててもな」


「……そ、そんなんで駆け引きしてるつもりかよ。さっきは、俺がどんなに嫌おうと構わないとか言ってたくせに」


「駆け引きじゃねえ、ただ賭けてるだけ」


 俺はシートからゆっくりと身を起こし、運転席で腕組みをしている彰久をじっと見つめた。


「賭けてる、って……?」


「明日から俺は一切、お前に関わらねえよ。お前が俺を本気で嫌ってるならな」


 彰久が俺に顔を向け、例の冷笑を浮かべて言う。


「だから今夜だ。今夜中に、お前を俺に惚れさせてやる」


「……本気で言ってんの」


「俺はいつでも本気だ。だからお前も、一度くらい俺にチャンスをくれてもいいんじゃねえの」


 時刻は既に十時半だ。あと一時間半の間に俺が彰久に惚れなければ、明日からは一切の関係を断つということか。目が合っても互いに無視するし、業務連絡以外は会話もしない。こうして休日に出掛けることもない。俺は彰久から解放され、日常の悩みが一つ消えることとなる。


「………」


 嬉しいのと同時に、想像して何だか少し胸が苦しくなった。──つくづく勝手な男だ、俺も。


「それでいいか、伊吹くん」


「い……いいけど」


 よし、と彰久がシートを元に戻し、運転席のドアを開けて車から降りて行った。何をするのかと見つめる俺の視線の先で、こちら側に回ってきた彰久が助手席のドアを開ける。


「来い」


 腕を引かれるまま車を降りた俺の横で、彰久が今度は後部座席のドアを開けた。この車は後ろに三人、更にその後ろに二人分の座席があるという構造だ。三人掛けの広いシートにぎこちなく座ると、彰久もドアを閉めてから俺の隣へと腰を下ろした。


「こっちならスモーク貼ってあるし、寝転がれるだろ」


「だ、だけど、でもっ……。万が一誰かに見られて、それで、万が一通報でもされたらっ……」


「万が一のことなんか言ってたら、人生何もできねえよ」


 彰久が俺の肩に腕を回し、頬に唇を押し付ける。


「時間が勿体ねえんだ。手間取らせるなよ、伊吹」


 軽く弾くようなキスを受けながら、少しずつ体がシートに倒されて行く。パーカが脱がされ、シャツが捲られ、ベルトを外される。あと一時間半。確かに彰久は急いでいるようだった。


「綺麗だぜ、伊吹」


 下着と靴下だけを身に着けた状態で、俺は恥ずかしさに頬を赤くさせた。

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