第4話

 翌朝目が覚めた時、既に彰久の姿は無かった。


 ──明日は朝から仕事だから、好きなだけ寝て帰りたかったら適当に帰れ。


 ぼんやりとしか聞いていなかったが、昨夜確かそんなことを言っていた気がする。


 出会って間もない人間を部屋に残して仕事に行けるなんてよほど適当なのか、それとも俺を信頼してくれているのか。とにかく俺はベッドを降りてふらつく足で洗面所に向かい、冷たい水を顔に浴びせて眠気を取り払った。


 鏡には、直視できないほど酷い顔をした自分が写っている。髪はぼさぼさであちこちに寝癖が付き、口元には涎の跡、頬には涙の跡、目も真っ赤に充血していて、まるで記憶が飛ぶまで酒を飲んだ日の翌朝のようになっている。


 勝手にシャワーを借りて全身を洗ってから、俺は昨夜の出来事とこれからのことに思いを巡らせた。


 彰久はどういうつもりで俺を抱いたのだろう。このまま俺が黙って帰宅したら、俺達の関係はこれ切りで終わるのだろうか。連絡先を書いたメモでも残して行こうかと考えたが、何だが思い上がっているようで躊躇われる。或いは、財布でも時計でもわざと何か忘れ物をして行けば、彰久はまた俺の職場に来てくれるだろうか。


 別にたった一度寝ただけで恋人づらするつもりはないし、彰久に惚れてしまった訳でもない。ただ俺は本当に経験が少な過ぎて、こういう時にどうしたら良いのかが分からないのだ。


 もう一度彰久と話をしたいとも思う。だけどもし向こうが単なる一夜の遊びのつもりだった場合、がつがつして恥をかきたくないという気持ちの方が大きい。


 ここは一度何も言わずに去って、また彰久が職場に現れるのを期待せずに待つか。彰久に少しでもその気があるなら、きっと向こうから来てくれるはずだ。


 俺は服を着てからベッドを整え、もう一度顔を洗って、忘れ物がないかを確認した後で彰久の部屋を出た。


 少し肌寒い九月の空は、このまま家に帰るのが勿体無いほど気持ち良く晴れ渡っている。午前十時半。この時間ならまだ店内に客もいないはずだ。燈司に差し入れでもしてから、軽く何か食べて帰ろうか。


 ビル付近のコンビニでお茶のボトルを買い、エレベーターで九階へ上がる。フロア最奥にある売場では、燈司が入荷商品の検品をしていた。


「燈司」


「あれ、伊吹。どうしたんな、手伝いに来たのか?」


「違う。適当に来ただけだから、飯食って帰るよ。あとお茶の差し入れ」


 燈司が作業の手を止めて立ち上がり、俺の全身にゆっくりと視線を滑らせる。


「お前、昨日と服が同じだな……さては朝帰りか。お前いつの間に女作った」


「馬鹿なこと言うなって。別にこれはただ、他に着る物が無かったってだけで……」


 我ながら酷い言い訳だ。燈司も目を細めて意味ありげに笑いながら、「下手くそ」と俺をからかっている。


「あ、……そう言えば伊吹。昨日ここに来てた男のこと覚えてるか? 背の高い色男」


「えっ? も……もしかして、またここに来たっ?」


 燈司の意外な発言に、俺は胸を高鳴らせながら辺りを見回した。


「いや、来たって言うか……あっちに今もいるよ」


「えっ!」


 燈司が指した方向は生体売場だ。通路に出て目を凝らしても、店内にいるのか彰久の姿は見えない。


 一体何しに来たのだろう。考えてみれば今日は俺が休みなのを知っている訳だし、そもそも彰久は「仕事に行く」と家を出たのではないか。


 確かにもう一度会いたいとは思ったけれど、昨日の今日で、しかもこんなイレギュラーな形でなんて会いたくない。


「燈司。……あの人、何か言ってたか?」


「いや。挨拶はされたけど、特には……」


 状況が把握できず、ただただ顔が赤くなるばかりだ。俺は生体売場に背を向け、燈司に「帰る」と言ってからそそくさと売場を離れた。が──


「伊吹くん! ちょうど良かった」


 突然呼ばれて心臓が跳ね上がり、恐る恐る背後を振り向く。通路を挟んですぐ、そこには生体売場の副店長である相馬聡がいた。


「っ……!」


 相馬副店長の隣には彰久が立っている。何度瞬きをして確認しても間違いない。昨夜俺が肉体関係を結んでしまった長田彰久が、相変わらずの冷笑を浮かべながらそこに立っている。


 俺は咄嗟に燈司の後ろに隠れ、彰久の方を見ないようにしながら軽く会釈をした。


「伊吹くん、今日は休みだよな? いいところに来てくれたよ。新しい店長、紹介するね」


 えっ──?


「長田彰久さん。前の店長が異動になって、隣街の店舗から急遽こっちに来てくれるようになったんだ」


「え、何で? 嘘だ……本当に?」


 彰久が俺と同じ職場の、しかも、店長……?


 昨日の昼間にここで会った時の彰久。マンションで俺とキスをした彰久。俺の身体に触れ、俺の身体に舌を這わせていた彰久。


 俺の中で腰を振りながら、不敵な笑みを浮かべていた彰久──。


「っ!」


 その全てが頭の中で瞬時にして混ざり合い、俺の顔をこれ以上ないほど真っ赤にさせる。俺は碌に挨拶をすることもできず視線を床に落とし、燈司の後ろで縮こまった。


 彰久が腕組みをして首を傾げ、俺の顔を覗き込んでくる。その視線から逃げるようにして更に顔を背けると、彰久が意味ありげに笑って、燈司と俺を交互に見ながら言った。


「随分と仲が良いんだな。もしかして二人、デキてるのか」


「なっ。なに、言って……」


「こいつがハリウッド女優並みの美女だったら余裕で付き合いますけど。所詮、伊吹だしなぁ」


 冗談で軽く返せる燈司が羨ましい。俺は益々俯いて、羞恥に震える唇を強く噛みしめた。


 まさかこんなことになるなんて。彰久のにやけた顔を見る限りだと、自分がこの店の責任者になることも、俺と同じ職場になることも全てを知った上で昨夜の行為に及んだらしい。通常の物差しでは計ることのできないその思考回路に、俺は腕や首筋に鳥肌が立つのを感じた。


「まあ、そういう訳でよろしくな。テイちゃん、それから伊吹くん」


 何とか頷くことはできたが、言葉が出てこない。燈司もそんな俺を見て怪訝そうな表情になり、彰久に「よろしく」と素っ気ない挨拶をしてまた検品作業へと戻って行った。


「お前、あの店長と何かあったん」


 彰久と相馬副店長が戻った後で、燈司が俺を見上げて言った。


「べ、別に何も。……じゃあ俺、腹減ったから何か食べて帰る」


 結局、ここには汗をかきに来ただけとなった。


 明日からどうなるのだろう。あんなことまでしてしまった彰久と、これからずっと顔を合わせなければならないのか。売場も仕事内容も違うと言えど、俺達のことを知らない他のスタッフはこれからも容赦なくこちらに雑用を頼みに来るだろう。仕上がった物を届ける時、質問や報告をしに行く時、その都度彰久と鉢合わせることになる。


 まるで詐欺に遭ったような気分だった。同じ職場で働くと知っていたら、絶対に昨夜の誘いには乗らなかったのに。


 俺は重い足取りでビルの外に出た。近場のファーストフード店でモーニングセットを注文し、ハンバーガーを齧りながら今後のことについてあれこれと考える。徹底的に無視するか。ぎこちなく接して徐々に慣れるようにするか。問題はいくらここで必死に考えても、彰久の出方ひとつで全てが変わってしまうということだ。


 こんな時、相談できる相手が一人でもいたらどんなに良いかと思う。思えば俺は今まで、あまり誰かに相談するということをしないで生きてきた。


 周りに自分の性癖を隠していたから、もちろん恋愛相談の類は一度もしたことがない。高校も高望みせず自分で行けそうなところを選び、卒業後は働こうということも一人で悩んで勝手に決めた。あまり自覚がなかったが、確かに俺は物事の多くを自分一人で決めていたと思う。大事なことも、くだらないことも。


 ……吹雪を誘拐した時だって、今思えば事前に誰かに相談してみても良かったはずだった。両親も犬好きだし、言えば必ず何らかの助言を与えてくれただろう。あの場の一瞬の判断で俺は吹雪を家に連れて行ってしまったが、バレたら警察沙汰になっていたかもしれないのだ。いや、実際今でもあの家の主に見つかったらどうしようという不安は常にある。


 自分の考えだけで生きてきた、と格好つけるつもりはない。そういう信念があった訳ではなく、無意識的にそうしてきただけだ。もちろん失敗もある。だからこそ俺は一昨日、和真を怒らせて酷い目に遭ってしまったじゃないか──。


 思った瞬間、携帯がメールを受けて振動した。画面には和真の名前が表示されている。まるで心中を読み取られたかのようなタイミングに、思わず息が止まりかけた。


『伊吹、怒ってる? できればもう一度話し合いたい』


 これ以上厄介ごとが増えるのは敵わない。俺はハンバーガーを片手に返信ボタンを押した。


『もういいよ。俺達、一昨日で終わったんだと思う。和真もそう言ってたじゃん』


 すぐに和真から返信がきた。


『でもやっぱり俺、お前と会えなくなるの寂しいよ』


 あれだけの捨て台詞を吐いておきながら、よくこんなメールを寄越せると思う。付き合っていた時も不機嫌になると俺に当たり散らして、時間が経ってからしれっとメールや電話をしてくることが何度かあったが、今回のことは流石に今すぐ許すという気にはなれなかった。


 何と返信すべきか迷っている俺に、更に和真が追い打ちをかけてくる。


『今度、ゆっくり時間取って話し合いたい。休みの日の前日とかでいいから連絡くれ』


『分かったけど、少し時間置いてからじゃなきゃ無理だよ』


 それでも構わないという返信がきて、俺は軽く溜息をついた。


『いつでもいいから待ってる』


 どうしたものかと携帯からふと顔を上げた時、


「あ、……」


 店内入口から彰久が入って来るのが見えた。少し早いが昼休憩だろうか。向こうもすぐ俺に気付いたらしく、邪悪に満ちた笑みを浮かべながら注文もせずこちらに向かってくる。


「久し振り。偶然だな」


 さっさと帰れば良かったと、自分の要領の悪さに思わず眉間に皺が寄った。当然のように彰久が俺の正面に座り、振り出した煙草を咥え、笑う。


「……何か用かよ」


「別に何も。十分休憩だから一服しに来ただけ」


 俺は彰久から視線を逸らし、わざと品のない音をたててストローを啜った。


「伊吹、怒ってんのか?」


「怒ってるよ。……あんたがウチに来るって知ってたら、意地でも昨日は拒否してた」


 力無く笑って、彰久が灰皿を手元に引き寄せる。


「まるで嫌々ヤッた、って言い方だな。お前だって満更じゃなかったくせに」


「ていうか何で俺に声かけたんだよ? 翌日から職場が同じになるって知ってたのに、どうしてあんな行動に出たんだよ?」


 テーブルに両肘をついた彰久が、目を細めて煙草の煙を吐き出す。俺はストローを咥えたまま彰久を睨み、次にこの男が何を言うのか全身を強張らせて待った。


「どうしてお前に手を出したかって?」


 無言で頷いた俺を見て、彰久が口元を歪める。


「単純に、お前とヤりたかったからに決まってんだろ」


「っ、……!」


 咄嗟に周囲を見回して人がいないのを確認してから、俺は持っていたコーラのカップを乱暴にテーブルへ叩き付けた。


「何だよそれ、結局はそれかよっ」


 多少の覚悟はしていたものの、いざ面と向かって言われると流石にきついものがある。怒りで体が熱くなり、持っていたコーラをぶっかけてやりたい衝動に駆られた。


「ヤりたいなら風俗にでも行けばいいだろ。……何で俺を巻き込むんだよ。百歩譲って昨日限りの関係ならまだ分かるけど、これから俺達、嫌でも顔合わせなきゃならないんだぞ。社会人としてどうなんだよ、そういう理由で手出したりとか……考えらんね……」


 言いながら自分の不運さや情けなさが悲しくなってきて、俺はテーブルの下で膝にきつく指を食い込ませた。


 彰久はそんな俺の前で頬杖をつき、まるで微笑ましいものを見るような目で笑っている。


「……何笑ってんだよ」


「お前、面白くて可愛いなぁって思って」


 この男が何を考えているのかさっぱり理解できない。その開き直り様に、逆に清々しさすら感じたほどだ。今までもこうして周囲の人間を振り回し、迷惑かけてきたのだろう。相手のことなどお構いなしで、自分さえ良ければいいとマイペースに突っ走ってきたのだろう。


 誰かと付き合ったことが一度もないと言っていた。今ならそれも頷ける。


「もう俺、帰るから」


 トレイを持って立ち上がりかけた俺の腕を、彰久が軽く引っ張る。


「まあ待てよ、勘違いを解いてやるから。さっきのは言い方が悪かった。ヤりたいって言っても、別に誰でもいいからって訳じゃなかったんだ」


 渋々椅子に座り直した俺に、彰久が身を乗り出して囁いた。


「俺はさ、……何て言うか、アレだ」


「なに」


「お前に一目惚れしたんだよ」


 ──え?


「あの時お前を初めて見て、稲妻に打たれたような気がした。運命の相手をずっと探してたんだ。ようやく出会えたと思ってる」


「……何言ってんの?」


「言葉通りさ。お前こそ俺の運命の相手だし、俺こそがお前にとっての運命の相手だ」


 時間が止まったかのようだった。それも、凍り付いた状態でだ。静止した時間の中、カップの蓋を外したのも、中のコーラを彰久にかけようとしたのも、その腕を掴まれ、引き寄せられて──俺の口元に、彰久の唇が触れたのも。


 全てがスローモーションのようだった。


「な……お前、……何……」


 時間が正常に動き出したのは、彰久の唇が離れた後だ。


「お。もう十分経つかな。それじゃ、伊吹くん。また」


「ちょ、待て……! お前、本当に、ふざけんなっ……」


 立ち上がった彰久を追いかけようにも、腰が抜けかけて動けない。そんな状態の俺を振り返った彰久が、「これからよろしく」と、何とも薄気味悪い台詞を残して店を出て行った。


 残されたのは耳まで赤くなった俺と、唇に残った彰久の煙草の香りだけだ。

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