第5話 彼女と僕の話
さて、ティアラを雇ってから、約三ヶ月ほどが経った。季節は移ろい、少し夏めいてきた気がする。この世界にもきちんときちんと四季があるみたいだ。
その期間をティアラと過ごした僕だけれど、結論から言ってしまえば、彼女を雇って心底よかったと思っている今である。
店先に置いたメニュー表のおかげて飲食店だと明確にわかるようになったことは、僕の予想以上に大きかったみたいで。昼頃にはメニュー表をぼんやりと眺めて、恐る恐るというか、好奇心みたいなものを持って、お店に来てくれる人が多くなった。
そして、もう一つ大きかったのは、ティアラが学院でこのお店を宣伝してくれたことだった。正直これは一時期でもティアラのお友達が来てくれたら助かるな、くらいで言っていたのに、ところがどっこい。
どうやらティアラが通っているアルスター芸術学院というのは、僕が思っていたよりすごい所のようで。通うのは貴族の子弟だったり、大規模な紹介の跡継ぎだったり、要するにこの世界の流行とか、価値観みたいなのを作る側の人間が多いらしい。
ティアラ曰く、芸術なんか学びに来るのは基本お金持ちの道楽なんだそうだ。
あと、もう一つ僕が想定してなかったのは、その上流階級が群雄割拠する学院でティアラは相当の有名人らしい。
それを彼女に聞くと「貴族とかお金持ちの中で平民が悪目立ちしているだけ」とため息をついていたが、ちょくちょく店に来てくれるようになった学院の生徒に聞くところによると、学院生徒の三割(商人含む)は平民だというし、目立っているとしたら他の要因だろう。
そりゃ人目を惹く容姿だしなあと思っているとそれだけではないらしい。彼女はさらりと言っていたが、学院の特待生とは凄い事で、入試のかなり厳しい基準を突破しなければならず、毎年出るわけでもない上に入学後も成績優秀、品行方正に少しでも陰りが見えると取り消されてしまうものらしい。さっきから全部人伝に聞いたことだから、らしいとしか言えないけど。
そんなプレッシャーの中で彼女は入学以来、高等教育を受けてきた貴族たちの中で学科成績トップ、品行方正を保ち続け、その美しい容姿も相まって、いつも注目の的なんだそうだ。
特に同じ平民からしたら希望の星というか、憧れの対象らしい。そんな彼女がバイトする店、しかも積極的に喧伝する店ということで、彼女を雇って数日、店は学生(主に彼女に憧れる平民の子)で溢れかえりてんやわんやの惨状だったのだ。
そうやって大挙してきた学生の数パーセントがこの店を気に入ってくれて、今では常連となってくれたりしたおかげで僕の店はだいぶ助かっている。
その上、貴族の子や商人の子なんかもたまにきたかと思うと、僕の店を物珍しいものとして、親なんかに伝えたりして、噂が周り、今では僕の店は見事なまでに「好きな人は好きな黒い飲み物を出す飲食店」と知る人ぞ知る噂の店になった…らしい。これもティアラに聞いた話だ。
そんなわけで、僕があの時彼女を雇ったのはナイス判断としか言いようがなく、本当にあの時の自分を褒めたい。
それだけでなく世俗に疎い僕をサポートしてくれたり、女の子だからなのか細かいところに気がついてくれるしで大助かりだ。
ただ、僕の方はと言うと、威厳をつけるどころか吹っ飛んでる。要するにもう僕は彼女に頭が上がらない。
そんなこんなで三ヶ月。僕の接客や、注文の回しも少しは板について、落ち着いてきた時期の閉店後。
この光景もすっかりと板についてきたティアラへのピアノのレッスンの時間だ。当初はピアノを貸し出すという話だったのだけれど、いつの間にか僕はすっかり彼女のピアノの先生になってしまっていた。
というのも、ピアノを貸し始めた当初、彼女はお世辞にもピアノが上手いとは言えなかった。
同じところでミスタッチを連発してるわ、テンポも運指が苦手なところだとズレる。おまけに強弱もめちゃくちゃという有様で、見てられなかった。
だからついつい、口を出していたら彼女が不満顔で「じゃあ、ナギが見本見せてみなさいよ!」というので弾いて見せたら、ぽかんとした顔をしたティアラがこちらをみていて、アドバイスを求めてくるようになったというわけだ。
懸念点であった楽譜は、こちらの世界も形式は一緒だったので、僕からしてみれば大した難易度ではない。だから、店の片付けや清掃が終わると、教えるのがまんざらでもなかった僕は、彼女にレッスンをするのが日課になってしまったのだ。
そのおかげとまでは言わないがこの三ヶ月で彼女は随分と上手になった。この前も学院の教授に褒められたのだと、嬉しそうに言ってきて僕まで嬉しくなった。
彼女がピアノ専攻を勝ち取れるかどうかのテストは冬の終わり。今から約半年後だ。もう少しで課題曲の発表らしいけれど、テストの過去の課題曲の楽譜を僕も見せて貰う限り、半年あれば弾きこなせるだろう。あとは他の子の完成度次第なんだけど。
「ティアラ、そこの左手、スタッカートに鋭さがない」
「うっ…ここリズムが右手と左手でズレてて意識が散漫になるのよね」
「じゃあ僕が今から右手のリズムで手を叩くからそれに合わせて左手を弾いてみて。せーの!」
練習自体は最初に僕に宣言した通り、すごく真面目だし、ちゃんとピアノを専攻できるといいけど。
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「じゃあ今日はここまでにしとこうか」
「ふーーー」
練習の終わりを告げると彼女は疲れを吐き出すように大きく深呼吸をする。練習を終えたあとは、彼女にコーヒーを淹れてあげるのも日課になっている。
あらかじめ沸かしておいたお湯で、コーヒーを淹れていると、体をほぐすように伸びをしながら、ティアラがすっかり指定席になったカウンター席に座るった。
「改めてナギって教えるの上手いわよね」
「急にどうしたの?」
「いや、さっきも思ったのよ。随分と教え慣れてるなって。学院の教授なんて、手本を弾いて見せて、あとはひたすら練習しろって感じなのに」
「そうでもないよ。ただ僕が教えてもらった時の真似っこしてるだけだし」
「へー、立派な先生だったのね」
「そうだね、すごく立派な人だった」
元の世界にいるとある人を脳裏に浮かべる。普段はニコニコしているのに、レッスンになると無表情になって少し厳しい人だった。
僕に音楽を与えてくれた人。まだ懐かしくはならないし、なりたくないなあ、なんて思う。
「ほんと不思議よね。どこで教わってたのかも教えてくれないし。なのに、楽譜見ただけでスラスラ曲を弾けるくらい上手いんだもの。本当にナギって不思議」
「あはは…」
流石に少し付き合いが長くなってきたとはいえ、ティアラにも、三ヶ月の間にできた親しい人なんかにも、僕が異世界から来たことは話していない。というより話すことはないだろう。
僕は異世界から来ましたなんて口に出すことで、それを認めることになる気がして、とてもじゃないけどダメだった。薄れてきたけれど確かに残るこの世界への非現実感や、時に感じる望郷の念が、そうさせているのかもしれない。
まあ、僕向こうの世界に未練なんて片手ほどくらいしかないのだけれど。
「でもそろそろ現実を受け止めないとなあ」なんてことを考えるうちに、ティアラのカップは空になっていて、彼女は帰り支度を始めていた。
僕は何も言わずに彼女のカップを洗い場に移すと早速洗い始めた。慣れ始めたこの言葉がいらない空間が僕は好きだった。
カバンを肩にかけ、帰り支度は万全といった風になった時にティアラが思い出したように「そういえば」と声を上げる。
「ナギ、卵ほとんど無くなってたわよ。明日大丈夫なの?」
「げっ…本当に?」
今日はなぜかやたらとオムライスやら卵料理が人気で、想定以上に消費してしまったらしい。
僕の店は、週に一回、必要な食品やらを配達してもらうことになっている。というか僕が来た時にはなっていた。
そして、配達員さんが来るのは二日後の朝だ。その間卵なしはかなりマズイ。
「明日の朝仕入れるしかないでしょうけど、えっと、その、ナギ。一人で辿り着ける?」
「…多分」
元の世界にいた時は明日のことなんて、学校の体育があるかとか、英文の訳を当てられる番か、とかしか考えてなかったのに、まさか仕入れで悩むことになるとは、少し前の僕は考えもしなかっただろう。
この思考に違和感を感じないということが僕がこの世界に馴染んできた証左なんだろうか。
なんて考えるけれど、僕とティアラが心配してるのそんなことじゃなくて。
ーーーこの世界に来て僕はこの店から一人で外出したことがないという事だった。
「明日、学院始まる前に寄りましょうか?」
「いや、なんとか一人で行ってみせるよ」
まさかこの歳で、お使いを心配されることになるとは。拝啓、少し前の僕。慣れてきた異世界は、やっぱり少し大変かもしれません。
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次回、ナギ君。異世界で初めてのお使いの巻。
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