第20話 現在進行形の初恋その2

002


 僕こと――『義妹職人』海野杜達也は、常に研鑽を怠らない。


 義妹の髪に触れる瞬間、僕は一介の大学生から職人に変わる。


 僕の愛する義妹、海野杜礁湖はその美しい見た目に反して、肌や髪質のケアに関してははっきり言ってとてもずさんだ。


 なんなら、男性である僕の方が丁寧に髪も洗うし、洗顔だってきちんとする。


 そのため、三日に一回程度の頻度で礁湖の髪を僕が洗うという超高難易度クエストが発生する。


 そして、僕にとってこのクエストの優先順位は他の何にも増して高い。(陸上選手だった頃、礁湖の髪が洗えなくなるからという理由で日本代表合宿を辞退したことすらある)


 この美しい義妹の美貌を守るために日々研鑽を積む。今ではそれが、僕にとって一つの生きがいにすらなっていた。


「じゃあ礁湖、髪を洗うから目を閉じて」


 僕たち兄妹はお風呂場で、僕が礁湖の後ろをとるような形で座っている。


「うん、よろしく」


 礁湖は義兄に対して全幅の信頼を置いているといった感じで、目を閉じて僕に身を預ける。


 僕はシャンプーを手の中で少し泡立てた後、大きく一度息を吐いて、意を決したように、僕は義妹の髪に触れる。


 ここで気持ちを乱してはいけない。


 義妹の髪に触れるときは常に平常心を心掛ける。かつて自分がアスリートとして培った経験のすべてを駆使して優しく髪に触れ、ゆっくりと洗い始める。


 決して焦ることなく、しかし無駄に時間をかけることなく、その相反する精神状態を自分の中で上手くコントロールしていくのだ。


 そうして髪を洗い終え、適切な温度に設定したお湯でしっかりと流していく。決してその際に焦って髪を傷つけるようなことはあってはならない。一瞬の油断で一生後悔することになる。


 こうして、義妹の髪を流し終えると、ほっと一息つく。


 僕の『義妹職人』への道のりは長く険しい。しかし、


「お義兄ちゃん、ありがとう。いつもさすがだね」


 礁湖のその笑顔がこれからも見られるならば、僕は喜んでこれからも修練を重ねよう。


 こうして僕の『義妹職人』としての道は続いていく。




「キモい」


 僕の熱弁を一通り聞き終えた舞花は、心底気持ち悪いものを見るような目で僕の方を見ながら一言そう言い捨てた。


 現在、僕の家のリビングには、僕となぜか突然訪ねてきた舞花がテーブルに座って向かい合っている。


 ちなみに礁湖は髪を洗い終えると、さっさと部屋に戻っていった。何やら、また新しいクライアントとの打ち合わせがあるらしい。


「で、急に訪ねてきてどうしたんだ?」


 僕は何事もなかったかのように話題を変える。


「別に。最近達也の家に来ることなかったでしょ? だから久しぶりに来てみたいなって思っただけ」


「へー、そういえば確かにここ最近は来てなかったかもな」


 そう言って僕は自分で淹れたコーヒーをすする。


「でも舞花、お前今日練習は大丈夫なのか?」


 僕はふと気になって舞花に尋ねた。


「ああ、それなら今日は休みなんだ。なんでも、今日はグラウンドが使えないとかで臨時休暇なの」


「そっか」


 しばらく、僕たちは特に会話もなくそれぞれの時間を過ごしていた。


 リビングにはつけっぱなしにしていたテレビの音だけが響く。


 同じテーブルで向かい合っていて、それで会話がなくなっても特に居心地の悪さは感じない。やはりこれが付き合いの長さのなせる技なのだろう。


「達也、何だか最近明るくなったよね?」


 唐突に舞花が僕に言う。


「そうかな?」


「そうだよ」


 そういうのは自分ではよく分からない。けど、舞花が言うのならきっとそうなのだろうと思った。


「もう社会不適合者なんかじゃないね。普通にちょっとコミュニケーションが苦手ってくらいでもう全然社会に適応できるよ」


「そうか? こう見えても僕には全然友達いないぞ?」


 舞花があまりに褒め続けるので、僕は恥ずかしくなって少しはぐらかす。


「でも、美人の先輩をデートに誘うくらいのことはできるんでしょ?」


「――!?」


 一瞬、口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになるのを何とかこらえた。


「な、何でそんなことを舞花が知ってるんだよ!?」


「別に。単に陸上部の友達が諸星先輩と冴えない男がデートしているのを目撃したっていうことが結構噂になっていたから何となく『ああ達也のことなんだろうな』って思っただけ。違う?」


 舞花はずっと笑っている。笑っているけれど、僕は何だかその笑顔がとても怖かった。


 おかしい、さっきまであんなに居心地のいい空間が流れていたはずなのに。


「ねぇ、どうなの達也?」


 舞花は再び笑顔で僕に聞く。


 ……やっぱり今の舞花はとても怖い。


「はい、それは僕です。本当にすいませんでした」


 とりあえずここは素直に白状して低姿勢を貫くことにした。


「何で謝るの? 別に達也が諸星先輩とデートしたからといって私に謝る必要なんてないでしょ?」


 ……やぶ蛇だった。完全に選択肢を誤った。


「ねぇ、何で今謝ったの? 謝ったってことは自分が何か悪いことをしたという自覚があるってことなのかな? ねぇ、一体何をそんなに悪いと思ってるの?」


 舞花は笑顔を崩さない。


 一度はその笑顔に人生を救われたはずの僕からしても今の舞花は果てしなく恐ろしかった。


「……なんてね。冗談よ」


 そう言うと、舞花はいつもの表情に戻って僕に対して笑いかける。


「いくら最近コミュ障を脱却しつつある達也でもいきなり私以外の女の子をデートに誘うとかできないことくらい分かってるわよ。きっと何か理由があったんでしょ?」


「そ、そう。そうなんだ」


「だから、ちょっとからかってみただけよ。……イラっとしたのは本当だし」


「え? 何か言ったか? 最後の方聞き取れなかったんだけど」


 僕は単に尋ねただけなのだが、舞花はそれがまた気に入らなかったようで、


「うるさいな、ちょっとからかっただけなの!! 以上、終わり!! それ以外に特に他意はありませんよーだ」


 そう言って舞花は僕に向かって、ベーっと舌を出してくる。


 何だか分からないが、これ以上突っ込むとまた機嫌を損ねそうだ。


「ごめんな、舞花。なんだか心配させてしまったみたいだけれど、本当に諸星先輩とは何でもないんだよ。前も相談しただろ? 先輩の力になってやりたくって……それで、成行きでそうなってしまっただけなんだよ」


「もう、それは分かったって」


 そう言って舞花は先ほど僕が淹れた砂糖とミルクたっぷりのコーヒーを一気に飲み干すと、マグカップをバンっとテーブルに叩きつけて


「コーヒーおかわり」


 と、僕に要求した。


「はいよ」


 僕はマグカップを受け取ると、台所までコーヒーを淹れ直しに行った。


 このくらいで大切な幼馴染の機嫌が直るのであればいくらでも淹れるというものだ。


 僕が再び、ケトルでお湯が沸くまで待っていると、


「ねぇ、達也」


 と、舞花が僕を呼ぶ。


「どうした?」


 そして、――次に舞花が言った言葉は、僕が全く予想していないものだった。


「私たちさ、付き合わない?」


 さりげなく、まるでそこにある砂糖をとってもらうような軽い感じで舞花は僕に対してそんなことを言った。


「……」


 僕は何も言えなかった。


 情けない話だけれど、急に、目の前の幼馴染が全く違う人間に変わってしまったような感じがして、さっきまであんなに居心地が良かった無言の空間も、今は僕の心を焦らせる一方だった。


「舞花、僕は――」


 ――カタン!!


 僕がちょうどそこまで言いかけたところで、ケトルのお湯が沸きあがってスイッチがオフになり、僕は何となく言いかけた言葉を飲み込んでしまった。


「ふふ、何焦ってんの? 冗談だよ」


 舞花は笑いかけながら僕にそう言った。


 その表情はいつも見ている舞花のいたずらっぽいにやけた笑顔で、それが逆に僕をより混乱させた。


「……まったく、びっくりさせるようなこと言うなよな」


「ごめん、ごめん。あ、もうこんな時間だ。私そろそろ行くね」


 そう言って舞花はそそくさと立ち上がり、玄関まで速足で歩くと、


「おじゃましました」


 と言って、すぐに僕の家を後にした。


 僕は沸かしたばかりのケトルのお湯をマグカップに注いで、少し冷ました後、それを一気に飲み干した。


「……甘い」


 舞花のために入れた砂糖とミルク入りのコーヒーはいつもブラックしか飲まない僕にとっては甘すぎる味で、結局僕はそれを最後まで飲み切ることができなかった。

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